「安部公房」没後20年
あの人が亡くなって、今年でちょうど20年が経ちました。
この20年のあいだ、私は日陰の女として暮らしてきたような気がします。でももういやになりました。正々堂々と日向にでるつもりです。それには、あの人と私の関係を正面から、書いてみることに決めました。私の友人も賛成してくれ、もう誰もキズつく人もいないはずです。それで、できるだけ冷静に、あの人と過ごした閲歴をまとめてみることにしたのです。
私も還暦もすぎ、あと数年であの人が亡くなった年齢に近づいています。あの人も古希まで健康に生きていられましたら、ノーベル賞も夢ではなかったかも知れません。でも世界的な賞をもらうには、スキャンダルがあってはならない。そんなことを言う人ではありませんでしたが、余計に私は気をつかって交際をしてきたようです。私は女優です。舞台の上に立つ女優なのです。名前はあの人がつけてくれました。山口果林。いい名前です。あの人は笑いました。「名前なんてどうでもいいものなのに不思議だな」と言ったことを覚えています。
本の題名は「安部公房とわたし」としました。自立した一人の女として、あの人と肩をならべて立つことには、一点の逡巡もありはしません。本には私の裸体の写真も掲載してもらいました。この一枚はカメラ好きなあの人が撮った写真です。あの人の奥さんは私に面と向かって、ハッキリとこう言いました。
「夫とわたしは、いまでも週に一、二回の結婚生活があるのですよ」
「結婚」と言い、「夫婦」とは言いませんでしたが、その二字の漢字にこめた思いは、ズンと私の胸に響きました。男と女の肉体の関係は、はっきりと感じられるものではないでしょうか。ためらわずに申し上げますと、靴と足みたいな関係ではないでしょうか。なんだか、ちょっとげびていますね。お帽子と頭だとか、手袋と手と言っても、やはり具象的な喩えをつかった性の表現には品が欠けてくるようです。性をことばにするのってなんて難しいことなのでしょうか。
それでも、今度の本で、あえて私はこう書いてやりました。
「わたしたち二人の性の相性はとてもいいのです」と。
後で考えると、とても滑稽な光景です。これではまるで、太宰治さんの「女の決闘」に出てくるような科白ではありませんか。私とあの人は歳が二十三も離れているのです。太宰さんで思い出しましたが、その太宰さんへ「私はあなたが嫌いだ」と直言したという三島由紀夫さんとの雑誌の対談が終わって、そのまま、あの人が私の家に来たときのことでした。
「ああ、今日は愉快な話をいろいろ三島くんとしてきた」と言って、とても爽快な顔をしていました。
「三島さんとどんなお話をしたの?」と私は訊いてみました。
「セックスの問題だ」と答えて、「ハッハ」と太い笑い声を響かせていましたが、
「最後は意見が割れ訣別となった」と、どこかさびしそうでした。
「いったいどんな意見が合わなかったの?」と私は訊きました。
「うん、無意識というものがあるかないかで、ね」
と言って、口を噤んでしまった。それきり三島さんにお逢いする機会もないままに、あの壮烈な三島さんの最期を知ってから、あの人は一段と創作活動に邁進するようになりました。あのときの対談で、三島さんがあの人にそれとなく語っていたことに、今さらながら気がついたようでした。
あの日は子供のように興奮して私を求め、あの人が私の裸体を写真に撮ったのでした。それから、煙草を吸いながら窓の外を眺めていました。寒い夕暮れの凍えそうな空が赤い帯になって、街の屋根を蔽っていました。
私はあの人が書いた「赤い繭」という短編のさいごを、そのとき思い起こしていたのです。
「・・・・。そして、ついにおれは消滅した。
後に大きな空っぽの繭が残った。
ああ、これでやっと休めるのだ。夕陽が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない。」

この20年のあいだ、私は日陰の女として暮らしてきたような気がします。でももういやになりました。正々堂々と日向にでるつもりです。それには、あの人と私の関係を正面から、書いてみることに決めました。私の友人も賛成してくれ、もう誰もキズつく人もいないはずです。それで、できるだけ冷静に、あの人と過ごした閲歴をまとめてみることにしたのです。
私も還暦もすぎ、あと数年であの人が亡くなった年齢に近づいています。あの人も古希まで健康に生きていられましたら、ノーベル賞も夢ではなかったかも知れません。でも世界的な賞をもらうには、スキャンダルがあってはならない。そんなことを言う人ではありませんでしたが、余計に私は気をつかって交際をしてきたようです。私は女優です。舞台の上に立つ女優なのです。名前はあの人がつけてくれました。山口果林。いい名前です。あの人は笑いました。「名前なんてどうでもいいものなのに不思議だな」と言ったことを覚えています。
本の題名は「安部公房とわたし」としました。自立した一人の女として、あの人と肩をならべて立つことには、一点の逡巡もありはしません。本には私の裸体の写真も掲載してもらいました。この一枚はカメラ好きなあの人が撮った写真です。あの人の奥さんは私に面と向かって、ハッキリとこう言いました。
「夫とわたしは、いまでも週に一、二回の結婚生活があるのですよ」
「結婚」と言い、「夫婦」とは言いませんでしたが、その二字の漢字にこめた思いは、ズンと私の胸に響きました。男と女の肉体の関係は、はっきりと感じられるものではないでしょうか。ためらわずに申し上げますと、靴と足みたいな関係ではないでしょうか。なんだか、ちょっとげびていますね。お帽子と頭だとか、手袋と手と言っても、やはり具象的な喩えをつかった性の表現には品が欠けてくるようです。性をことばにするのってなんて難しいことなのでしょうか。
それでも、今度の本で、あえて私はこう書いてやりました。
「わたしたち二人の性の相性はとてもいいのです」と。
後で考えると、とても滑稽な光景です。これではまるで、太宰治さんの「女の決闘」に出てくるような科白ではありませんか。私とあの人は歳が二十三も離れているのです。太宰さんで思い出しましたが、その太宰さんへ「私はあなたが嫌いだ」と直言したという三島由紀夫さんとの雑誌の対談が終わって、そのまま、あの人が私の家に来たときのことでした。
「ああ、今日は愉快な話をいろいろ三島くんとしてきた」と言って、とても爽快な顔をしていました。
「三島さんとどんなお話をしたの?」と私は訊いてみました。
「セックスの問題だ」と答えて、「ハッハ」と太い笑い声を響かせていましたが、
「最後は意見が割れ訣別となった」と、どこかさびしそうでした。
「いったいどんな意見が合わなかったの?」と私は訊きました。
「うん、無意識というものがあるかないかで、ね」
と言って、口を噤んでしまった。それきり三島さんにお逢いする機会もないままに、あの壮烈な三島さんの最期を知ってから、あの人は一段と創作活動に邁進するようになりました。あのときの対談で、三島さんがあの人にそれとなく語っていたことに、今さらながら気がついたようでした。
あの日は子供のように興奮して私を求め、あの人が私の裸体を写真に撮ったのでした。それから、煙草を吸いながら窓の外を眺めていました。寒い夕暮れの凍えそうな空が赤い帯になって、街の屋根を蔽っていました。
私はあの人が書いた「赤い繭」という短編のさいごを、そのとき思い起こしていたのです。
「・・・・。そして、ついにおれは消滅した。
後に大きな空っぽの繭が残った。
ああ、これでやっと休めるのだ。夕陽が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない。」

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