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戦争と平和

 トルストイの「戦争と平和」をずいぶん長いあいだ読んでいますね。そう言われてしまった。
この一言は、いろいろの解釈が可能なようだ。そんなに熱心に熟読しているなんて、この忙しない現代にはほんとうに感心なことです。または、そんなに時間を割く暇があるなんて、なんて幸せなことでしょう。あるいわ、一冊の本にそんなに時間をかけているうちに、以前に読んだ部分は忘れてしまうのじゃありませんか。そんな「平和」な時間はもうないのじゃありません。つぎの「戦争」の足音があなたの耳に聞こえてこないのでしょうか・・・それに、あなたに残された砂時計の砂も、もうわずかしかないのでは・・・・。
 そして、やっと「戦争と平和」のエピローグに差し掛かった。ここで作者は、これまで書いてきた膨大な量の物語にケリをつけ、同時に反省をしているかのようである。まあ、とにかく、最後まで読むことにしよう。
 だが、さても次から次へと、読みたい本が増えていく。これでは、いつまで経ってもキリがない。新規な関心は後にして、これまで読み残してきた本に取りかかるのがよいのだ。そう思いながら、あたまのなかにチラホラするものを並べてみると、それだけでも相当な分量になる。いったい人間の知的な興味にはどんな動力が潜んでいるのだろうか。一回かぎりの人生にはその人固有のテーマは必ずひとつに絞られてくるはずであろう。他人の本を読む暇だあるのなら、自分の本を書いてみることで、他人のものはおのずから優先順位が明白になるはずだ。己の中に動く原動力は、己固有の文章をしか作らないはずで、それを作家等は「文体」と呼んでいるのだろう。それが独自の「作品」というものになるのにちがいない。
 そして、いつの間にか、作者が作品を作るのではなく、作品が作者を作る逆転が生まれるのではないか。だが、こうして作られた作者は、もちろん最初の作者ではない。
 ―私とは最大の虚構である。
 とは、芸術の描く運命の最後のすがたであるのだろう。私は神であるとも、または、アンチ・キリストであると言明したとしても、それは同じことにちがいない。
 ―俺は虚構のオペラになった。
 とは一詩人の戯言ではないのだ。バルザックは死の床で、自分が創作した医者の名前を呼んだらしい。
 ―Ich sterbe.
 アントン・チェーホフは、こんな一言を吐いて死んだ、という。
 ところで、小林の全集をもっていない私は、「戦争と平和」と題する批評家・小林の昭和17年に書いた一文を読みに、自転車で図書館へ行った。元旦の新聞に載ったこの一文は、戦闘機から撮影された真珠湾の俯瞰写真を見た感想から始まっていた。借りてくるはずであったが、思わぬ事故に遭い、件の文章を引用することはできないので、要領よくこの一文からの引用と感想を綴った一友人のメールからの転載を頂く失礼を詫びておかねばならない。友人はメールでこんなことを言っているのだ。すこし長いがここに載せておきたい。

「小林の運命観、歴史観が非常によくでている。
 ところで「戦争と平和」の書き出しは、小林が真珠湾攻撃の航空写真を元旦の新聞で眺めるところから始めています。小林は『これこそ現に数千の人間が巻き込まれている焦熱地獄を嘘偽りなく語っているものだ』と心に言い聞かせようとするが目は違うものを見ている。『空は美しく晴れ、目の下には広々と海が輝いていた』と。『悠々と敵の頭上を旋回する兵士達には、こんな風に見えるより他にどんな風に見えようか。心無いカメラの目が見たところは、生死を越えた人間達の見たところと大変よく似ているのではあるまいか。何故なら、戦の意志が、あらゆる無用な思想を殺し去っているからだ。彼らはカメラに酷似した目で鳥瞰したであろう。それでなくて、どうして爆弾が命中する筈があるものか。』小林の文章は抜粋、省略を許さないほど凝縮されたものですが、私はこの部分を読みながら、はてなと思いました。このような感じは我々もどこかで経験しなかったかと。
 写真とテレビの映像との違いはあるが、ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が突っ込んだときに感じた現実と視覚の齟齬、違和感もこれと同質のものだったかも知れません。文明や国家といった立場の違いなど何ほどのこともない。人間は皆つかの間の平和のために銃をとってきたではないか。このパラドックスは、人間に与えられた宿命としか言いようがないのでしょう。」

 図書館で件の小林の短文を読み、また、別のところで戦争がはじまったことを「爽快」とまで書いている小林に、毎日心臓の薬を飲んでいる私は妙な興奮を抑えることができないでいた。
 そこへ図書館の警備をする職員の詰問調の声がした。座っている席の番号表を提示せよとのことである。私は慌てていた。ポケットを探ったが、どこへ入れたかの記憶がとんでいる。動揺する私にその職員は、それみたことかと嵩に懸かって、語調を烈しくした。
 あまりの高姿勢の口調に、私は抵抗をせざるを得なかったのだ。
「ここは図書館ですね。本を静かに読むところでしょう。そこへその物々しい言い方は失礼ではないか。もし、番号表があったら、あなたはどうするというのです」
 よく探してみれば、無意識に入れたポケットの隅から、警備員が提示せよと言った番号表は出てきのだ。
素早くその場から去った警備員を見つけて、番号表をみせると、「あって当然だ」との返答で平然としている。
 私は再び席に戻ったが、もはや元の平生さを取り戻すことはできなくなっていた。
 後頭部が重くなり、両足に痺れてきた。立ち上がろうとしたが、全身が重たい。歩こうとするがふらふらとする。
心配した別の図書館員が来てくれた。私はどこか休憩する場所はないかと尋ねたが、横になれるような場所はないとのことだ。しばらく横になれば、回復するだろうと思ったが、その高齢の図書館員は、自分の友達の例を話して大事をとって診察してもらうことをつよく薦めるのだった。私はその職員の親切な配慮をもう無視することはできなかった。
 相当待ったすえに、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

 「戦争と平和」の本題に戻ろう。私は長くはかかったが、10月8日未明にトルストイの「戦争と平和」を読了した。これを読むために房総のホテルで二泊までしたのである。トルストイの妻は7回もこの原稿の清書をし、村上春樹はこの本を三度読んだと聞いた。私はたったの一回なので、まとまった印象を述べることができかねる。だが、トルストイの強大な学識には驚嘆するが、北御門二郎翻訳の第三巻目の「エピローグ」の二章、特に、第一章はやむを得ないとしても、第ニ章の数学、物理、歴史、政治学等々を総動員したような、抽象的な議論はこの大長編にはいささか、興ざめの感がしたのは私の正直な感想であった。
 小林の「戦争と平和」の一文は戦時下に書かれてもので、それを平時に読んだ私とあの十二月八日の帝国陸海軍の真珠湾攻撃のラジオ放送を聞き、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった渦中での批評家の心境とは異なるものの、今のところ戦争の当事国にはなっていないとはいえ、現今の日本及び世界の諸状況を顧みた場合、国民の心理の状態は濃淡の差はあろうが、さほどの径庭があろうとは思われない。村上春樹は最近刊行の「恋しくて」で「恋するザムザ」という題名の自身の短編を挿入しているが、そこにおいて「世界は壊れている」との文句を書きこんでいる。しかしながら、こうしたことばを短編小説中に書き入れることには、どうにも違和感を覚えてならないのだ。村上の危機感がそうせざる得ないほどのものかとも想像されるが、小説はこのようなたいそうなことばを綴るところとは思われない。今回のノーベル文学賞の受賞者のアリス・マンローの短編の一つもこの村上の翻訳で読むことができたが、このカナダ人を短編の名手だと感心をし、その小説技巧に村上のそれは劣るとはいえ、読後の感想は村上の小説のほうが良かったように私には思われたのだ。
 話しが脇に逸れてしまったが、小林がトルストイの大長編に「剛毅な精神」を読み取り「人生は戦いである」と、この一文を閉じていることには、なにか重要な空白の溝を飛び越えてしまったような唐突感が拭えなかったのである。現代を生きる人々や、グローバルな競争に鎬をけずる企業戦士といわれるの諸君にはこうしたことは、いまでは当然の心得にちがいないだろう。勿論、人と人が殺しあう「戦争」と「平和」時のビジネスとは明らかに異なるものだ。だが、小林はこの「戦争」と「平和」が同じものだという「恐ろしい思想」を、トルストイの本から読み取ったのである。なぜなら実際の「戦争」が「無用の思想」を殺し去ってしまったからだと。では小林が「無用の思想」として括ったものとは、いかなる思想なのであろうか。これは心して考えるに値することで、戦後に輩出した思想家たちが深く、自らに問い糺せねばならなかったことに相違ない。戦後の一連の「転向論」の論議は、そうした性格を帯びたものではなかったのか。
 そして、最後に付け加えておきたいが、2001年から10年前の1991年のイラクに対しての「湾岸戦争」をテレビを見ていたその時、この日本がすでに世界史の中において、重要な一歩を進みだしているという認識を懐かざるを得なかったことを、すでに当時のある詩誌に書いたことだが、ここにいま一度思い出しておきたかったのである。
「文明や国家といった立場の違いなど何ほどのこともない。人間は皆つかの間の平和のために銃をとってきたではないか。このパラドックスは、人間に与えられた宿命としか言いようがないのでしょう。」
 果たして、ほんとうに人間の「宿命」だと受け入れることができるものなのかどうか、そのことを現代に生きる私たちが、深く思いをめぐらす時が、近づきつつあるのではないだろうか。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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