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 対談「哲学の自然」を読む

 この本は現在活躍中の二人の学識者、中沢新一と國分功一郎の4回に亘る対話を記録したものである。第一章は「原子力時代から先史の哲学へ」、第二章は「新しい自然哲学に向かって」、第三章は「野生の科学と不思議な環」、第四章は「どんぐりと民主主義」より成っている。
 この二人の対話がとても魅力に富んだものとなっているのは、24歳という年齢差もさることながら、二人の優秀な精神の共振作用が豊潤な知的ハーモニーを奏でて、見事なコラボレーションの効果を生み出すことに功を奏したからに違いない。私は一読で済まされずに、再読せずにはいられなかったほどなのである。こうした読書体験はそうざらにあるものではない。
 頁をめくるごとに展開され風景は、この二人の明敏かつ精密なる知力と柔軟な心が生み出した景色であって、これは3.11東日本の未曾有な惨事が、希有にも生み出した清新な知的活動の成果という以外に言いようがないだろう。
読者は事前に二人の知的な業績をあらかじめ知っている必要もなく、素直にそのクリエイティブなことばの交換に注意を傾けているだけで、低くはない難度のその知的空間に誘われていくに違いないのである。
 各章ごとの主要なポイントを順に拾いながら、おおざっぱなこの本の紹介ができるかやってみることにしたい。
 まず反原発の根拠として、経済的合理性への疑問から、核エネルギーとはそもそもなんであるかという〈核エネルギーの存在論〉を提起するうえで、ハイデッカーの技術論と中沢の「日本の大転換」を主な参照点にしている。
 「日本の大転換」は以前にこのブログで取り上げたが、人間が生きることができる生態圏は地球の地表だけで、核エネルギーはこの生態圏の内部では決して処理できないリスクをもたらすこと。日本の原子力政策が核兵器の保有にあるという解釈は説得性がなく、エネルギーの安全保障としても石油より希少なウランの輸入にそれを求めるのも理解ができないこと。結論として、中沢が説く「贈与」という概念が、核エネルギー信仰の裏に否定性として隠されていること。こうした贈与を受けない生という自己完結のシステムへの願望は、原子力技術と資本主義の構造が同型であり、資本主義の「市場」は太陽から贈与されて出来た石炭、石油等を交換形態に取り込み、贈与性を排除することで成立していること。「宗教」「芸術」「経済」は独立したものではなく、もとにあるのは人間の心=脳の普遍構造であり、この仕組みにはある断層があって、そこを超えると「贈与」の次元を切り離す方向へと展開すること。3.11以後、この傾向が人類にとって危険な道であるという直感がなされたことで、経済・社会システムを別の方向へと導く必然性が見えだしたことである。・・・・・・。

 さてまことに不躾なことであるが、ここで書く方針の変更をすることをどうか赦されたい。この本の情報量は多くその質は高いため、触発された自分の感想を含め、書物からの知見を記録しておきたくなったのである。
 以下に頁数を記して、本からの引用等を行っていきたい。
 P59:「芸術の起源」に触れラスコーの壁画から「人間の自然の最適解」のところで、バタイユが出てくるのが面白い。なぜなら「最大の贈与者」をバタイユは太陽にみて、晦渋でもありグロテスクな小説を書いているからだ。「眼球譚」や「マダムエドワルド」などがそうだが、「わが母」や「青空」などという作品もあるので、バタイユは一見面白そうだが理解が難しいのである。たしかに、古代の壁画は総じて穴ぐらのようなところに描かれている。映画「イングリッシュ・ペイシェント」では、揺られる綱に掴まりながら、そうした壁画をみるシーンがあったのを思い出して、あのシーンの意味合いが腑に落ちた。
 P65:人工知能では、「離散無限」という概念がある。それに対し中沢は「対称性の論理」を考えだし、空間的に膨張するのではない「無限」とは別形態のものとして、ハイデッカーの「存在」をそうしたトポロジイーとして掴もうとしているところが興味深い。この人間と自然の「最適解」という方向は、3.11以降に出てきた考え方で、晩年のジャク・ラカンが「自己」と「他者」との間にこの「最適解」を見出そうとしているとの指摘は、さすが中沢ならではの見解だと思われる。そこから、ライプニッツとスピノザへ話が展開していき、私が以前から注意を惹かれていたボードリアールの思想への言及がなされている。
 P73:「無意識からの贈与」という考え方が披瀝されて、「適度な休暇と自由な環境の中でしか、いいアイデア、つまり無意識からの良い贈与がおこらない」というのは当然だろうが「無意識からの贈与」という表現がよい。また、ここで「絶望の国の幸福な若者たち」(古市憲寿)や、「ぼくはお金を使わずに生きることにした」(マーク・ボイル)の本の名前がでてくる目配りにはほとほと感心する。
 P77:「モラルエコノミー」という民衆史の概念がでてくる。これなどは、二宮尊徳の思想に通じているのではないかと思われた。明治から昭和の初期にかけて、尊徳の影響下に「報徳運動」が全国展開されているが、この運動はあまり注目されていないようだ。
 P79:引用ー「ハイデッカーの思想などがはじめて現実に活きてくる時代に突入したんだね。」これは、これまでこのドイツの哲学への注目が講壇哲学的であり、原発事故により現代技術が根底から思考の対象になったからである。
 第2章の「新しい自然哲学に向かって」から、二人の対話は佳境に入るが、ここでハイデガーやニーチェ、そして東洋の賢人へ話が向かう。たまたまに、私の参禅の寺で師家の講座があり、中国の南宗禅を開いた慧能と神秀という二人の禅僧へ話が触れられた。偶然にこの本でも同じエピソードが出てくるとは、偶然とはいえ私は驚かざる得なかった。 ここで少し脇道へ入るが、禅のせかいでは有名な小話があるので、この本と同様な紹介をしてみたい。
 この二人の禅僧は中国禅の本流をつくった弘忍の弟子になる。やがて弘忍が「年をとったので跡継ぎを決めたい。会得した境地をうまく詩にしたものを後継者としたい」ということで、身分の低い雑役僧だった慧能は、兄弟子の神秀という秀才がつくったつぎの詩

  身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し
  時時に勤めて払拭し 塵埃を惹かしむることなかれ

 この神秀の詩に対し、慧能はつぎのような詩をつくった。

       菩提もと樹無し 明鏡も亦台に非ず
       本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん

 この二人の弟子の詩を廊下に見た弘忍は、すばやく後継の認可を慧能に与えると、「おまえはここにいては危ない。いますぐ荷物をまとめて逃げなさい」と忠告した。これが中国の南宋禅の出発点と言われているのだ。禅のせかいでも恐ろしい嫉妬が渦巻いていたことがわかるエピソードだと納得がいく。白隠がいたり、山岡鉄舟が通った三島にある座禅の道場では、朝早くから夜まで作務が一分の隙間なくあり、老師によれば余計な雑念を払拭し修行の専心のためだということであった。また、私の参禅する寺でも、現生の瑣事により悩まされることはあるが、座禅ではそうしたことを超越できなければならない。
 この禅のせかいのエピソードから、この本の二人は「無学」と「卑しい仕事をしていること」が東洋の賢人の重要な要素だとし、古代ギリシャの哲学者のピタゴラスとイオニアの自然哲学へ話が展開してヘラクレイトスへ、そして、スピノザの「エチカ」へと話が伸び、あとは数学、物理学、言語芸術、経済学、考古学と来て、第三章「野生の科学と不思議の輪」へ二人の対談は移っていく。
P143:フランス留学中に見たデモと日本との相違。ここで披瀝されているデモ行進のかれがの違いは重要なことだ。「フランスはただ、だらだら歩くだけで、道路は歩行者天国になり屋台が並びサンドイッチなんか食べて、ゴミはポイ捨てだが、その後で清掃の人たちが来てまるでなにも起こらなかったのようにきれいにする。一方、日本のデモは鋭い問題意識を持った人が集合して全力でシュプレヒコールを挙げる。デモの参加者の中には「なんとなくデモに来ている自分はどこかおかしいのでは」と悩んでいる人もいるらしい。基本的には「反戦」とか「反原発」とかのメッセージがあり、それを訴えることが目的だが、もっと重要なのは大量の人間が集まるその存在そのものを見せつけることです。存在自体がメッセージになる。つまりいまは体制に従っているが、これからはどうなるか分からないからな、おまえら調子にのるなよ、というメタ・メッセ-ジ、これが重要なんです」。ここで指摘されている日本の組合主導のデモがいかにセンスがないかというのはとても正鵠を射たことだと思われる。
P150:脱原発へのロードマップ。「電力会社がなぜあそこまで原発に固執するのか、固執せざる得ないのかを解明しないといけない。もしかしたら、例えば総括原価方式のような会計システムがその原因の一つかもしれない。ならば、原発をめぐる諸システムの一つひとつを洗い出し、それを変えていく方向をきちんと示し、その上で、原発を何十年かけて、どのようにゼロにしていくかを順序立てて考えねばならない」
 10月17日の朝日新聞に「東電援助金、回収に31年」の見出しで、会計検査院の調査によると、国の援助金が5兆円の上限に達し、また国が負担する利息は約800億円にのぼり、今後除染が本格化すれば回収が長期化し、国民負担が膨らむ恐れを、検査院が警告したとあったことを付記しておく。
P153:自然史過程と弁証法は、吉本隆明の「「反核」異論」を内側から中沢が乗り越えようとした。亡くなる直前の「週刊新潮」のインタビュー(「反原発」で猿になる!)は吉本らしい勇み足で、基本的に正しいが、中沢の「野生の科学」では、自然史過程の運動の中から原子力発電技術を乗り越える道を探す試みであった。
P160:野生の科学と不思議な環では、「しばしばスピノザの「エチカ」は神の観念から出発すると言われますが、これは正確な言い方ではない。むしろ神=自然の観念に追いつくところから始まる」
P170:「数学はいま、心=脳の基本構造に近づいていると思うんです。いままでは、脳で実際に起きているのとは違うプロセスを数学として取り出してきていたんですが、それがようやく近づいた。これから人間がつくっていかなければならない知的生産物の原型がそこにあります」 
P172:自然というものの根底には「不思議の環」の構造があります。そして、この「不思議の環」は私たちの使っている言語の根底にもひそんでいます。言語の本質を考えるにはまず「喩」から考えなくてはいけない。つまり、日常言語を考えるためには詩の構造をベースにして考えなくてはいけないということなのですが、これはジャン=ジャック・ルソーが唱えたことです」(ルソー「言語起源論」)(吉本隆明「言語芸術論」「言語にとって美とはなにか」)
「経済の領域で同じような逆転をおこなったのが、マルセル・モースだと思っています。経済交換の世界の本質を考えるには、まずは「喩」的な構造を持った贈与からはじめなくてはいけない」(中沢「愛と経済のロゴス」)
P188:「資本主義から原発的なものに至る、その背後にある思考形態は、延々と膨張していくことをやめない「自己増殖オートマトン」的な構造、「離散無限」的な考え方なのだと。そうして思考は決して最適解にたどり着くことがない。それに対して、コホモロジーの考え方を採ると世界は有限個に閉じます」
P193:「キルケゴールみたいな人が、日常の本当にささいなことでいちいち「あれか、これか」というパラドキシカルな決断を見出そうとするでしょう。それをよく見てみると、小さなところにループの問題があって、それが大域的な構造を決めていく。人間は常に「あれか、これか」のループの中にいて小さな決断の積み重ねが大きな構造をつくっていく。ヘーゲルの弁証法は壮大な「不思議の環」ですが、これから重要なのは、こういう小さな物語へ。二十一世紀の神話はそういうものになるでしょうね」
 第四章「どんぐりと民主主義」では、東京都小平市の道路計画に住民の異議申し立てがあり、それを巡って展開されている。住民投票の実施を求めて署名運動がなされた。私がネットで検索したところ、つぎのようなことが分かった。予想超える署名が集まったが、小平市議会はこの住民投票の成立の条件として、五割の投票率のあることを可決した。投票は為され四割を超えたが、この条件を満たすまでには至らなかったのだ(注記)。
P210:「近代の民主主義において住民に許されているのは、ごくたまに、不十分な形で、立法権に関わるということだけですね。つまり選挙です。何年かに一度、選挙をやって、そこで代議士を選ぶことは認められいる。では、なぜ、住民が立法権に部分的に関わるだけで、その政治体制が「民主主義」を呼ばれるかというと、物事を決めるのは立法権だという建前があるからです。立法府である議会が物事を決定し、それを行政府が執行することになっている」
P214:「日本にも民主主義の伝統がきちんとあるんです。僕の考えでは、それが一番典型的に現れているものは里山なんですね」宮沢賢治は夙にこのことを承知した作品群を書いているではないか。
P222:「これまでの日本の社会運動が抱えてきた問題は。非敵対的矛盾というものを分かろうとせずに、ことさらそれを敵対関係にしてしまう伝統にあります。自分と違うものをすぐに敵として考えてしまう。でも敵じゃないんです、ただ矛盾しているだけです。そして、矛盾したものをどう調停していくか、弁証法化していくことがということが民主主義の一番のエッセンスです」
P236:スピノザについての本を書いて以来、ずっとこの直観というものどう復権することができるかを考えているんです。そうすれば具体的なものを思考するという課題についも展望が開けてくるのではないか。ベルグソンなんかは、直観に向かえるようになれば、我々は活気づけられて、人生も豊かになるみたいなことまで言っていますからね」

 ここまで内容の一部を筆記してきたが、この二人の対談による成果物をこうして紹介していくことは、とても私のブログの限界を超えることだと思われる。まことに残念であるが、各人が本を手にとってお読みすることをお薦めして、このブログを閉じることにしたい。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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