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「秋山駿」追悼

 秋山駿氏に初めて接したのは、小林秀雄の追悼講演が新宿紀国屋ホールで開催された時である。小林の講演LPレコードを小脇に抱えて、吉本隆明のつぎにこの人の講演を聞いた。吉本の講演は話すに従い螺旋状にどこまでもひろがって収集がつかないかとの危惧を懐かせたが、秋山氏の口ごもった声の訥々とした語り口は、聴衆というより自らに語り掛けつつ内面へと沈んでいくような趣であった。
 高校生から中原中也の詩と詩法に惹かれていた私は、中原中也の評伝「知れざる炎」に、小林と異なる精神のベクトルを持った中原中也像を見出し、氏に注目したのである。小林に愛人を奪われ「口惜しき人」となった中也は、長男をも喪い三十歳で二冊の詩集を残して亡くなったが、その中原中也から独自の思想を掬い上げたのは、秋山駿氏の功績以外のなにものであったろう。
 私が秋山氏に逢ったのは、市ヶ谷の靖国通り沿いの酒場の二階であった。秋山駿氏が「群像」の評論で「小林秀雄」を書いて新人賞でデビューしたことは知らなかったが、「内部の人間」という一冊の本を熱心に読んだ鮮明な記憶があった。そこに自分の精神の面貌を読んでいた私にとって、氏の探求していくものに切実な意味があったのだ。当時の私にとり秋山駿氏の評論の言葉は、裸形の私を内部から照らす鋭い光源を秘めた鏡であった。
 「私とは最大の虚構である」とノートに書きつけ、青年期の精神の苦渋を泳いでいた私は、同じ地平で「私」をめぐる秋山氏の思考の余燼から、私が対峙せざる得なかった社会的なもの、私の内的な自由を束縛する一切の世界から、私の実存を賭けての解放をめざす「鍵」ともいうべき、内的思考の手がかりとなる一断片を手中にしたような気がしたものだ。一友人へその死を予言した三島由紀夫氏のその予言どおりの結果で驚かせたが、それを機に私の「魂の一年」への終焉をも示唆してくれたのである。
 あれから40年、「内的生活」や「抽象的な逃走」等を読み継ぎ、その本質において詩人であった氏が歩行しながらつぶやく、切れ切れの断片ともいうべき思考は、私の孤独を内部から照らし、私の生に活を賦与してくれたといってよいだろう。小林が天才を照準にしたのに対し、氏は平凡な日常を生きる「生」の本質に肉薄して、それをことばに変換しようとしていた。青年の犯罪はその恰好な思考の舞台であった。氏が小林秀雄氏の精神に見た「犯罪」への深い洞察は、小林氏をして「ドスエフスキーの生活」を書かせ、戦時においてはトルストイの「戦争と平和」に「剛毅な精神」を読み取らせる精神の断面を照射する慧眼であった。小林氏は近代以前の古典の世界へ遁れることで、現代的な危機を脱する一筋の径を見つけたようだが、「断じて現代人でなけらばならない」(ランボー)の詩句は氏を追うことをやめたはずはないだろう。
 初期の三島由紀夫氏の代表作である「金閣寺」、その焼亡の犯罪小説を、小林秀雄氏が「これは抒情詩ですね」と言わさせたものは、氏の現代的な思想の洞察を経ていなければ口にでるはずのないもので、これを黙って聞き流していた三島氏が、その後、戦後の総決算ともいうべき「境子の家」を書き上げ、三島氏の期待を裏切る文壇の冷遇に合い、それ以来自らの源泉に遡るように「英霊の声」を経て、その軌跡をまっしぐらに戦後文学とそれを支えてきた社会態勢への決別ともいうべき行動へ走らせた契機は、こうした経緯のなかから見えてくるものだ。
 「境子の家」を評価した江藤氏の評論が、もし一年でも早ければ違う展開になっていたかもしれないとは、「太宰治論」の著者、奥野建男氏の感想であるが、作家の宿命がそんな生易しいものであるはずがないのは、氏に分からないはずはなかったろう。
 この時代を画する三島氏の激烈な行動に対し疑義を表明した江藤淳に対し、小林秀雄氏は対談の中で、強い口調で江藤氏の日本の歴史認識を難詰したのであった。その小林秀雄氏が亡くなった翌月の文芸雑誌の追悼号で、秋山氏は「小林秀雄の現代性」を書いている。
 80年代の一文芸誌で、中上健二、柄谷行人、秋山駿、中野孝次、の四人の座談会があった。まだ中上も柄谷も若く意気軒昂であった頃だ。座談会の席上、柄谷の「バカ野郎!」という罵声が飛んだ。江藤淳はこれをもって、「明治以来の文壇史において前代未聞の罵詈雑言」とこれを皮肉ったが、その座談会の席上、「外へ出るか」と柄谷の罵詈に応じた秋山氏の発言は私には忘れられないものであった。これは、ある酒場で中原中也が坂口安吾に食って掛かり、小さな中原が大きな身体の安吾にすぐに組伏されてしまった光景を彷彿とさせるものである。そこに秋山駿という人の中原中也ばりの姿を見た気がした。それから暫く後、柄谷と秋山との対談中、柄谷はある時期の秋山さんの批評が一番怖いものだったという告白の科白を読んで、これは柄谷の本音であったろうと思ったものだ。「小林秀雄」で「群像」の新人評論賞を受賞して文壇にデビューした秋山駿の位置は、小林秀雄に対しての中原中也であることはいかにも明瞭であった。
 氏が「信長」を書き新境地を開いたとき、江藤淳をしてNHKの「視点」なる短時間の番組の中で、「秋山さんはこの『信長』で、石ころを持って駆け出した」という賛辞があり、それを対座している氏へむかい話題にしたところ、酒の入っていた秋山駿氏は、「ああ、そうだったね」と合図地を打って微笑した。それから、「朝日カルチャーセンターの講師となったのが誰よりも早かったこと」(氏ほどの人であの講師になる例はまだ稀な時期であった)。つぎに「先生はまだ団地に住んでいるのですか」との不躾な私の質問に、「うん、まだ団地にいるよ」との答えはいかにも氏らしいものであった。
 その後、秋山駿氏が小林秀雄の本格的な評論「魂と意匠」を書いたときに、氏はなぜもっと中也の立場からの現代的な視点での論を展開しなかったのかと、私を落胆させたのである。秋山氏は小林氏への敬愛と批判とを同時に抱懐していたが、この「魂と意匠」では前者が後者をどうやら圧倒したのかも知れない。いや、小林氏の素早い足取りを追随するこを放棄したのか、それは分からない。
 もう一つ市ヶ谷の酒席の一夜、私の頭の片隅にありながら、聞き忘れてしまったことがあった。それは氏が若い時代に三島由紀夫氏へのインタビューにおいて、「きみはひどいことをおっしゃる」と三島氏を反発させた一事のことでであった。そうした石礫のような言葉が、「舗石の思想」の書き手であった氏から三島氏へ投げられても別段におかしくはなかったのだが、そのときの氏自身の感想を直に聞いておきたかったのである。三島氏は秋山氏の評論を世界に紹介する労も取ったことでも窺がえるように、優れて現代的な氏の評論の価値を認めていた。この三島氏の自決の行動を理解できないという江藤氏に対し、対談中に小林氏が投げた礫もやがて、国士と評された江藤氏へ「西郷南洲」へと赴かしめ、北鎌倉自邸での「自裁」へ至らしめたと言っても、私生活上にいかなる難事が重なろうと文学的には過言ではないであろう。
 ともあれ、秋山氏の評論は加藤典洋の「批評」に初発の力を与え、氏自身の「信長」の論作は凡百の信長論を一蹴して余りあるものであった。一個の天才へ着目する小林から距離をおき、「プルターク英雄伝」への氏の評論は卓抜なものであった。秋山氏は平凡な日常の人生、一人の人間の単純な「生」を凝視し、そこに小さな宇宙の全体、生存の本質的な謎が賭けられている比類のない存在を見ようと、「内的生活」「私小説という人生」「人生の検証」「生の日ばかり」を書きつぎ、市井の隠者、或るいはギリシャのデモクリトスにも似た生き方を全うした秋山駿という人へ、私の最後のお別れをしたいと思う。秋山駿さん、ありがとうございました。
 


    秋山駿-本1


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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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