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ぼくの「恋愛論」

 正月早々から、難(かた)い話しなどは野暮なのよ、と旧い女友達の声が耳の奥から聴こえてきた。それで「死ぬのはぼくらだ」(門脇健)という哲学入門の本のご紹介は断念することにしました。
 最初に告白してしまいますが、ぼくはいま恋愛中(?)なのです。坐骨神経痛を嘆きながら、こんな騒ぎ(実は誰一人騒ぐ人なんかいないのだが)はまったく奇矯なことなんですね。もっと失敬なことを白状すると、ぼくはこの文章を、「箱根駅伝」のテレビで見ながら書いているのです。
 まことに無礼な次第です。だが本当のことを言えば、一昨夜からはじまった気管支炎もふくめて、その根源はぼくの忍ぶ恋にあるのではないかと思われないこともないのです。
 ぼくはある駅前の茶店で本を読み、それからぼんやりと瞑想していました。本とは秋山駿の追悼文が掲載された文芸誌を図書館から借りて、その素気もない追悼文に半場憮然としていたのでした。いま生きている作家と言われている人間がその程度の人たちであることに、ぼくはこの時代の劣化をみないわけにはいかなかったのです。そのようなぼくの視界に一人の年若いウエイトレス嬢が通り過ぎ、通りに面した窓際で楚々とつましい仕事をしている立ち姿を、背後からぼくは偶然目にしたのです。その一瞬でした。ある既視感がぼくの胸を掠めました。過去に愛したある女の蜃気楼をそこに見たような気がして、ぼくはハッとしたのです。胸の奥に「キュン」とぼくを覚醒させる痛みが走りました。
 それは「初恋」のときの、あの感じをぼくに思い出させたのです。「初恋」は初源にしかない恋愛の感情です。秋山駿という人は「初恋」と「恋愛」と区別して、スタンダールの「恋愛論」のその社会的かつ明晰なる分析に跪拝しながら、なにやらご不満なのですが、「内部の人間」を書いた氏には当然なことでした。この詳細は秋山氏の「人生の検証」という書物の「恋」という章を読んでください。ここにあるのは自分のことばで考えられた驚嘆すべき究極の「恋愛論」とでもいうべきものなんですから。
 さて、初恋の哀切な感覚をぼくは、氏のように執拗にして根源的に考えたことはありません。ぼくのほうは、ただ痴呆的に苦しいだけでした。その次に継起した恋愛はその苦しみから逃れられるある種の方便、アルコールや阿片にも似た陶酔感でした(「阿片」の経験はありませんので、このところは「嘘」をついています。ごめんなさい)。ですが、そうした恋愛でも、最初の「初恋」の味わいを喚起させようと、奇妙な努力をしていたのが不思議でなりません。例えば「初恋」をAとすると、恋愛のB、Cの場合にも、その相手の女性を「初恋」と同じ場所と同じ位置に立たせてしまわずにはおれない衝動です。ここでぼくは話頭を突如転じて、和歌における「枕詞」というのはひょっとしたら、これと同類の言語的な衝動なのではないかという考えが閃きました。ある感情は必ずある場所の地名などを呼び起こすからです。このことはこれ以上の詮索はしません。ここで言い訳がましいことを一言挿入します。ぼくは「論理」というのを若いころから軽んじてきました。それは「論理は論理への愛であって、人間への愛ではない」(太宰治)という遁辞に惹かれるものがあったからです。
 さて、ぼくの「初恋」は惨憺たる結果に終わりました。当然のことでしょう。
「あなたの愛している人は私ではありません」という明解な返事と一緒に、ぼくの手紙はすべて送り返されてきたからです。それは「詩人の恋」だったのです。ローランサンへのアポリネールの恋でした。有名な詩「ミラボー橋」を読んでみましょう。「詩人の恋」は決して実ることのない「恋」なのですから。


LE PONT MIRABEAU
                                                                    

Sous le pont Mirabeau coule la Seine

Et Nos amours
        
Faut-il qu'il m'en souvienne

La joie venait toujours après la peine


Vienne la nuit sonne l'heure

Les jours s'en vont je demeure


Les mains dans les mains restons face à face

Tandis que sous

Le pont de nos bras passe

Des éternels regards l'onde si lasse

                                                                                 
Vienne la nuit sonne l'heure

Les jours s'en vont je demeure

                                                 
L'amour s'en va comme cette eau courante

L'amour s'en va

Comme la vie est lente

Et comme L'Espérance est violente


Vienne la nuit sonne l'heure

Les jours s'en vont je demeure


Passent les jours et passent les semaines

Ni temps passé

Ni les amours reviennent

Sous le pont Mirabeau coule la Seine


Vienne la nuit sonne l'heure

Les jours s'en vont je demeure

                        (Alcools;1913)


                  
ミラボー橋
                                     
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

われらの恋が流れる
 
わたしは思い出す
 
悩みのあとには楽しみが来ると

日も暮れよ 鐘も鳴れ
             
月日は流れ わたしは残る

   
手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう

こうしていると

二人の腕の橋の下を
                                
疲れたまなざしの無窮の時が流れる
            

日も暮れよ 鐘も鳴れ
                                  
月日は流れ わたしは残る
                  

流れる水のように恋もまた死んでいく

恋もまた死んでいく

命ばかりが長く
                                
希望ばかりが大きい


日も暮れよ 鐘も鳴れ
                                   
月日は流れ わたしは残る


日が去り 月がゆき

過ぎた時も
            
昔の恋も 二度とまた帰ってこない
                                 
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
                                    

日も暮れよ 鐘も鳴れ

月日は流れ わたしは残る

                     (堀口大学訳)

         
 さて、いかがでしたか?。わざわざ苦心して仏語と日本語の対訳にしてみようとしましたが、デジタルでは、どうも上手くいかないようですね。それで原詩を前段に訳詩を後段に並べることに変えましたので、ご了承ください。
 このアポリネールのは恋愛詩の名作です。堀口大学の訳詩も素晴らしいものです。ぼくはこの詩を新宿のあるところで朗読したことがありました。朗読していたぼくのこころは、もちろんセーヌの岸部に寄せるさざなみとなり、ぼくの服の袖は濡れていました。「初恋」はダフニスとクロエーの神話の物語のようなものです。どんな穢れた「恋愛」の底にも、このセーヌのように、その深層を泰然と流れていくその衝動の姿は変えようがないのです。 
 ご参考までに、秋山駿氏の「恋」の章はこんなふうに終っています。
「初恋」は「奇妙な生の混乱」を遠い水源にしているとの認識に立って。古代人のつぎの言葉に拝跪するしかないのだと。
「恋愛、それは神聖な狂気である」。


           
    
                                                     
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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