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「哲学入門」―死ぬのはぼくらだ!

 私はいかに死に向き合うべきか。これが本書のメインテーマだ。
こう聞くと、誰でも難しいことばが、陰々滅滅と並んでいると想像されるかも知れない。だがこの本の画期的なことは、これとは反対だから面白いのだ。「死」をこれほど軽やかに、胸にすとんと落として、それで勇気と希望を与えてくれる本がざらにあるとは思えない。プラトンのソクラテスから、エマニュエル・レヴェナス、アウグスティヌス、フリードリッヒ・ニーチェ、アルベルト・カミユ、ブレーズ・パスカル、ヘーゲル、そして、プラトンの「パイドン」までを、筆者はジャズやロックの演奏のように、中島みゆきの「時代」をしっとりと歌い上げる徳永英明のように、哲学を「てつがく」にしてしまうから不思議です。葬式や法事をするお寺の住職であり、京都の仏教系の大谷大学の文学部哲学科で教鞭をとり、フロイト全集第12巻の「トーテムとタブー」の訳者でもあるなんて考えられないことです。
合気道七段の内田樹先生だって、つぎのように推薦文を帯びに書いています。
「門脇先生は哲学をポップスや映画と同じレベルで語る。どんなものであれ、自分の身体を『震わせた』経験には等しく正面から対峙するこの潔さに私は深い敬意を寄せる」
 ようやく出版界へのデビューにも、二枚目の名刺が効く時代がやってきたのだというのがぼくの素直な感想です。そうでなければ、いまのこの世界は活力を失い、角をぶつけ合うだけの、肩がこるほんとうの「高齢化社会」になってしまうでしょう。
 ヘーゲルの「アウフヘーベン」という弁証法の専門用語を、大事に「しまっておく」というドイツ語の意味を忘れ、「止揚する」なんていう固い用法の解釈だけがあたまに浮かぶなんて、なんという不幸なことでしょう。対立は対立のまま「とっておいて」、一段高いレベルで国交を回復しようというのが、ヘーゲルの弁証法をうまく使うコツではないか、白黒をハッキリとさせるより、先生も黒沢明監督の「生きる」という映画をうまく使って、癌を告知された退職まぎわの役所の課長さんが、生きたいという希望と癌という現実の対立をどう「アウフヘーベン」して、新しい次元を開くことができたかを語っています。
「死という否定に留まることは、否定を存在に変換する魔法の力である」というヘーゲルのことばが、この黒沢監督の映画にどう生きているかを、筆者はじつに平明に語っていて感動的です。
 アルベルト・カミユの「シーシュフォスの神話」は、不条理と自殺を冒頭に据えて始まりました。この手法は内田樹もよく模倣するところですが、この先生も同じです。なんしろ、哲学入門の副題が「死ぬのはぼくらだ!」というのですからね。カミユがサルトルとの論争では、はじめから分が悪いのは明白ですが、どちらが平凡な人間の近くで「てつがく」をしようとしたでしょうか。パスカルの「考える葦」について、先生は小林秀雄の「パスカル」を引用するのですが、ぼくはある女性エッセイストの「死ぬ気まんまん」という愛猫の死を看取る本を紹介しながらのこのパスカルの章がいちばん好きなところです。 なぜなら、ぼくも92歳の死の間際まで、畑をいじり薬も飲まず医者へもかからずに郊外で一人で暮らし続けた爺さんが、最後の病院のベッドで「ありがとう。ありがとう」という最後のことばを口にしながら、ふるえる腕を胸の上に合わせて、合掌しながら死んでいった姿に深く胸を撃たれたことがあったからです。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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