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ー社会契約論ー(重田園江著)

 新書にしては、どちらかと言えば、厚い本となるのだろう。ホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ。この四人を次々と渉猟しながら、「社会契約」を論じるというのだから、新書では無謀ではないかと、ちょっと後ずさりしそうになる。
 本の末尾にある「おわりに 社会契約論のアクチュアリティー」を読むと、フィリピンの「スモーキー・マウンテン」を見てしまった体験談が書かれていた。この場所はこの国の最下層の生活が露呈したゴミの山だ。私も若いころ、この近くを車で通り過ぎたことがあった。著者はこの国の貧困を象徴する風景から、社会的なショックを受けたという。そこで自分とのどうしようもなく隔たった「痛苦」の心情から、この本を書く思考のジャンプが起きたという。
「この社会は間違っている。この社会を変えなければならない」という内的な衝迫が、<一般性の視点>に立たせたと書いている。私の場合は、車の中から横目に見ただけなので、ただ「哀切」の感に撃たれたことは記憶している。しかし、ジョルジュ・バタイユの言葉をプロローグにした散文詩の一篇が、ボードレール風のイロニーに染まったエロチックな作品になったのは、私にも社会的なショックと無縁ではなかったからであろう。
 だが、この力業ともいえる本をものした筆者は、つぎのように続ける。
「社会契約論は一般性の次元、あるいはこの意味での社会的な視点がどのように生まれ、なぜそれが秩序と社会的なルールの正しさについて考える場合に役立つかを示している。私はこの本を書くために、社会契約論について考えはじめたとき、なんて現実味のない、前時代の遺物だろうと思った。革命も新体制も焼け跡も、全くリアリティーのない今の日本で、社会契約論なんて誰も興味を持たなくて当然だと」
 あまり正直な見解でことばもないが、50年ほど前の私の場合は、見えない実在としての「社会」という言葉そのものに、違和感を覚えた。だから小林秀雄の「私小説論」の社会化ということばに躓いたのだ。だがらルソーの「告白」を五月のメーデーの会場で芝生に横たわって読んだときに、私を襲った感情は「悲痛」と表現してもおかしくない強い感情であった。初めて胸にかけたメーデー用の襷が、私には屈辱だった。社会的なるものの一切からの自由を私は欲していたからだ。家族が広げるあの家庭、テレビを見ながらのあの団欒、親・兄弟、友達という一切の存在から遠く離れ、「この世の外えならどこへでも」というボードレールの詩句が、当時の私の胸中に破裂する爆弾のように秘められてた・・・・。
 それは本題とはあまりにかけ離れているので、話しを元に戻そう。ルソーへの興味の動機そのものが著者と懸隔があるからだ。
 この本でルソーの前にヒュームの論考を介在させたのは、適切であった。何故ならカントは経済と富を予感させ時代のヒュームからの影響を通じて、ルソーから刺激を受けたからだ。ヒュームは被害妄想のルソーから遠ざけられたが、ルソーの「一般意思」の視点はカントを動かしたからである。
 さて、著者がいちばん苦労させられたというルソーの「社会契約論」こそは本書の眼目であるだろう。
たしかに、ルソーは「マルクスに先駆けて私有財産の弊害と資本主義における富の不平等を告発した先駆的な思想家」だと言われている。そもそもルソーの歴史観とはいかなるものかを著者は、激烈な文明批評家であり、野人と揶揄された「人間不平等起源論」を探っていくのだが、「ルソーという思想家は、彼自身の思考と想像力の奔流を極限に至るまで止められないところがある」というルソー感が面白い。「孤独な散歩者の夢想」のルソーの孤独はほとんど狂気の一歩手前だ。こうした著者がデッドロックにぶつかるところに、「ホッブス問題」を透視するのは著者の長所だろう。彼女が窒息しそうになるほど素晴らしい表現に満ちた「社会契約論」から、幾つかのフレーズを引用しているが、ここでは一つだけ取り上げてみよう。
「そこでもし、社会契約から本質的でないものを取り除くなら、次の言葉に帰着することが分かるだろう。われわれのおのおのは、身体とすべての能力を共同のものとして、一般意思の最高の指揮のもとに置く。それに応じてわれわれは、団体の中での各構成員を、分割不可能な全体の一部として受け入れる。」
 著者も断っているが、ここで「一般意思」という言葉が初めて出てくるのだ。
 粗雑に言えば、商業と経済の活発化が17世紀のこの時代に、ポリティカル・エコノミーという考え方を生み、「近代国家」を誕生させた。ヒュームはその進行と維持拡大に安住できたが、野生児のルソーはそこに道徳の腐敗の予兆を嗅ぎ取ったというわけだ。
「人はなぜ新しい社会をはじめるのか。なぜそんなことを思いつき、約束を交わすのか。ホッブスもルソーも、その問いが惹起される地点と、それに解答を与えることの難しさを十分認識していた。だからこそ、社会を創造するはじまりの約束について、ものすごいエネルギーで考え抜いたのだ。」
 こうした果てに、ルソーの「一般意思」が立ち現れる。著者はこの難問ともいうべき概念を、四方八方から理解しようとする。マルブランショやモンテスキューまで駆り出され、中世の神学まで遡及してみるが、問いが問いを呼んで収拾がつかないことを知り、遂に断念するに至るのである。こうした直裁で正直なところが著者のいい点だと思う。
 そのバトンを20世紀のアメリカのジョン・ロールズの「正義論」に引き渡される。かつて、ヴェトナム戦争と公民権運動に揺れるアメリカでこの本は一つの希望となったからだと著者は書いている。ミシュエル・フーコーから多くの示唆をうけた著者がなぜ、ジョン・ロールズにバトンを手渡したかを書いた引用を最後に、「とても申し訳ないのだが、ここで私は」を、この私も繰り替えさせてもらい、筆を擱くことにしたい。  
「社会契約論は、アメリカ革命とフランス革命という18世紀の二つの革命において、象徴的な役割を果たした。その後も第二次世界大戦後の植民地の独立に至るまで、民族自決と国民国家形成の理論的支柱となりつづけた。ところが、国民国家形成が一段落し、それに伴って国民国家なるもののさまざまな矛盾や欠陥が露呈してくるにつれ、社会契約論自体が、『過去の思想』となりあまり顧みられなくなった。」
 ほんとうに「過去の思想」となってしまったのか。私はすこし疑問に思う。もしかしたら、「契約」という考え方がこの時代において、白紙からふたたび考え直さねばならないものかも知れない。結婚制度ひとつとっても、男と女という性差ひとつとっても、この社会の現在はあまりに以前と異なっているからだ。これは「政治」でも「経済」でも変わりない事態であろう。
 ロシアの作家トルストイが、ルソーから強い影響を受けたらしいが、たぶん自然児ルソーの根本からこの世を眺める強い眼光がトルストイの波長に合ったのだろうと、想像するばかりだ。


       
        社会契約




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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