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中原中也

  前回のブログで、中原中也の詩を取り上げた。中也の評伝を書いている批評家の秋山駿氏の追悼の文章も書いたが、この秋山氏が「内部の人間の犯罪」の「余談・閑談」という短文で、中也についてこんなことを書いている。
「中原は、こころが弱いゆえに傷つき、その傷を歌うのではない。精神の勁さによって人を救けようとするのに、相手が無知によって救けを拒否するので、それで傷つくのである。むろん、中原は繊細である。だが、繊細は、自分を斬ることができるような、勁いこころでなければ持ち得ないものだ。弱いこころが傷つくのは、それは、脆いというべきだろう。」
 若い頃に、小林と交友した中原中也に、秋山氏が指摘したような像を重ねてみることは貴重なことだ。私は最近小林が河上徹太郎と対談したレコードを聴いて、小林像を変えざる得なかったのだが、そうでもしなければ、小林が表現する「三角関係」などが誕生するはずもないにちがいないと思われるからだ。小林のパスカルを論じた小論にしても、「『罪と罰』について」のドストエフスキーへの深く鋭い洞察を顧みても、中也がこうした批評を書く小林に拮抗する精神の勁さがなければ成立するはずがないものだ。
 秋山氏は「小林秀雄の現代性」において、小林氏が人生の教師のように遇されているのに疑義を発している。小林氏は「奇妙におかしな人かもしれない」と。もちろん、これは悪口ではなく、そういう小林氏にこそ秋山氏は現代性を覗き見ているからなのだ。
 戦争と敗戦という体験が、小林氏にもたらした経験は、「頭脳を手術される」ような、ざらざらとした内的な刻印を見せているのだと。そこから秋山氏は戦後の「『罪と罰』について」の犯罪者ラスコオリニコフへの実に不気味なほど精彩な洞察を示す所以であり、「ランボーⅢ」の背景も読まれているのである。「ランボーⅢ」における、「-或る全く新しい名付け様もない眩暈が来た。その中で、社会も人間も観念も感情も見る見るうちに崩れていき、・・・・」という体験から、「小林の内部における、戦争と敗戦という経験の純化」があったのだと。

 さて、ここで中也の詩句という事項に目を振り向けてみたい。何故なら、このブログがどれだけ読まれているのか、私はまるで関心がなかったのだが、一人だけアクセスがあった。それは私が中也を論じた秋山氏の評伝を「知られざる炎」を記したことに、訂正を入れられたことがあったのだ。そうではなく、「知れざる炎」であろうと。私の曖昧な記憶はこれによって正されたので、感謝に堪えないのであるが、冒頭の秋山氏の小論には、さらに興味深いことが記されていた。
 例えば、あの有名な「汚れちまった悲しみ」は、正しくは「汚れちまった」と表記しなければならないということである。何故かと言うに、ここは自己道化ではなく、相手を優しく包むためなのであると説かれている。また、「朝の歌」の「戸の隙」の「隙」は、「ひま」と読むのか、「すき」と読むべきか。秋山氏はタイトルを「知れざる炎」として、「知られざる炎」にしなかったのは、「知れざる炎、空にゆき!」の炎は空へと直進するものだから、この方が、炎のかたちを摑んで、適確であると書いている。
 書き言葉と話し言葉が一緒になろうとしている現代日本語では、こうした言葉の表記はどこか大事なことが含まれているようである。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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