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フランツ・カフカ

 それは二度と覗きたくない過去の扉だ。扉の向こうに孤独なカフカがいる。「私はフランツ・カフカのように孤独だ」と独白するカフカその人が、黒い眼を光らしてベッドに臥している。この純潔で厳しい芸術の探求者がボヘミヤ王国プラハ労働者災害保険局で働きながら「夜のなぐり書き」と自ら表した作品と日記・手紙・覚書を読んだことがある。若い私は徐々にある衝撃をうけていたのだが、それがどのようなものであったかを今もって吟味することができない。樽の底がぬけ、身体がバラバラになり、底なしの淵へ墜ちる読書体験でありながら、その体験の正体をつかむことができないのだ。青年期には特にそうだが、一冊の書物がその人間の一生に決定的な影響を与えることがある。そんな時期に書いたと思われる一篇の寓意の作品をここに載せておきたい。これは私が27歳の時に、最初の「作品集」である「孤塔」に編入した作品の一つである。1912年に、カフカが書き、彼の人生を決定した「死刑宣告」と「変身」の散文に較べ、たぶんに抒情的な「散文詩」と言ったほうがいいにちがいないのだが。
 「孤塔」から15年後、第二詩集となった「海の賦」にはカフカの翳は一見拭い去られたようだが、詩「向日葵」にはその傷痕は残っていることは否定できない。私は私の「海」という自然とエロチックな関係を結んだ故に「現実」との想像的な和解をすることの可能性を知ったのだ。親切にも私の詩集「海の賦」の出版記念会の労をとってくれた一女性から、どうして「恋愛詩」のようなものを多く書くのですかと、尋ねられたことがある。戸惑った私は「恋愛をしているからですよ」と、彼女を煙に巻くいがいなかったのだ。カフカの影響からの寓意的な「散文詩」とは別に今回、詩集「海の賦」の「喜遊曲」という一篇の詩を載せる誘惑に抗することができなかった。
 ついでに、1995年に刊行された「若き日のカフカ」(クラウス・ヴァ-ゲンバッハ著)の読書が、ふたたびに私をカフカに向かわせることになった。カフカが育ったプラハを、結婚25周年記念の東欧4か国旅行で妻と訪れた際に、カフカの家へ行ったことがあった。すでに「カフカ記念館」となっていたその家は私を失望させたが、クラウスの本はこれまで読んだカフカ資料の中でも出色のものであった。裏表紙に記された一文は、この本の要点を簡潔に紹介してあるので、ここに引用することを赦されたい。
「『書くこと』と『生きること』とが独自の緊密な統一体を作っているカフカの文学。それゆえに、作品を読むことが、必然的にカフカの生の探求へと私たちを誘うのだろう。幼年・青年時代に決定的な影響をあたえた『父親』の意味、対父親関係の延長としての外界との関係、プラハという独特な都市の環境、とりわけ、公用語でありながらその貧しさを露呈するプラハ・ドイツ語の位置づけ、カフカにとって1912年という年のもつ決定的な意義・・・・親友マックス・ブロートの手になる唯一の伝記の空白を埋め、渉猟の限りを尽くしてカフカ文学の原郷に迫る」
 なお、若きカフカが現象学のフッサールの師、ブレンターノ、詩人のホフマンスタールの「詩についての対話」へ特別な興味を示し、ゲーテとフロベールを熱心に読んでいることを、このクラウスの本から知ったことは、カフカを改めて振り返ることに有益であったことを最後につけ加えておきたい。
 また、故人となられた作家の辻邦生氏が、単行本「黄金の時刻の滴り」の中で、カフカを題材にして「黄昏の門を過ぎて」という短編を書いていることを、思い出したのだが、そのなかにこんな文章があった。
「私は真剣に仕事をし、同時に仕事のなかに地獄を感じています。どちらか一方ではなく、相反するものが同時にあるところに人間の悲劇がありますね。」



   若き日のカフカ    詩集 詩集「海の賦」と「孤塔」

         カフカの家切符 カフカ記念館切符


 
                                                                
 私は蜘蛛の巣です。主人は私を残して失踪しました。私はその主人の気持ちが分かります。こうした私たちの生活に主人は厭になったのにちがいないのです。私とていまは憐れな姿を風にさらしていますが、主人のいた頃はもっと生活に張りのある、緊張した日々を送っていたのでした。主人は軒下の奥まった隅に身を隠し、来る日も来る日も私の動静に眼を光らせ、すこしでも私の身体が震えると、あわてて飛び出してくるのでした。そのひたむきな主人を落胆させまいと、私は誠心誠意の努力を尽くしてまいりました。でも不運つづきだったのです。幾日も力いっぱいに張られた私の身体に、小さな羽虫一匹、かかりはしませんでした。それでも主人は、痩せたからだを暗い軒下にささえ、今かいまかと待ち構えていたのでした。このときばかりは、私は蜘蛛の巣であることに胸を撫で下ろしたことはありません。待たなければならぬ、そして、それが生活のためでした。でも主人にはそうした生き方しかなかったのです。主人をみた私は狼狽しました。暗い湿り切った軒下の隅で、じっと待つことしか知らない主人の姿は、憐れでさえあれ、気高く美しくさえあったのです。私はその有無の言えぬ、真剣さに衝たれ後悔をしました。一心に思いつめている主人ほど美しいものは他にはありません。たとえその思いつめたものが、生活のための一匹の虫けらにしたところでです。私の胸に熱いものが流れ、そのとき私は主人を心より愛しました。主人のためならどんな努力もしよう、そう思う私の身体に、夏のふくよかな夕暮れの風が吹き通っていきました。西陽がうっすらと地平線を茜に染め、いつも感嘆のため息をする私も、そのときは主人のために祈りさえしていたのです。
 日が西に落ち、あたりが暗くなりはじめると、あちらこちらの台所から夕食の支度の音が聞こえ出します。私がなにをさておいても一番に気を引き締めねばならない時刻でした。小さな蛾が垣根のあいだから、まるで白い粉を撒いたように一斉に飛び出し、私のからだのあたりを浮遊するのでした。私は主人の様子をうかがいました。主人はこころもち腰をあげ、すぐにも飛び出そうという姿勢で待機しているようでした。その主人の姿に感動した私は、今日こそはと息を殺しました。それ以外私になにができたでしょう。
 私の使命は、一旦私の広げたからだにかかった獲物を逃さぬよう、その敵の力の強弱に応じて、自在にからだの一本一本の糸を緩めたり締めたりすることなのです。どっちにしろ、主人も私もたゞ待つことだけが生活だし、その生活をどれほど続けてきたことでしょう。すでに昏れきった夕闇を、こんもりとした垣根のあいだから、数匹の蛾がふわりふわりと白く舞いあがり、互いに戯れ合い、右へ左へと飛び散っていくのでした。その白い蛾の典雅な錯乱、幻影ともいえる狂乱は、いつしか私に主人と私の生活を忘却させ、使命を怠り、私の糸の一本一本をたるませていることに、私は気がつきませんでした。一匹、二匹と蛾は私へと近づいては遠ざかり、遠ざかってはまた近づくのでした。白い阿片のような強い誘惑! 朦朧とした私のあたまへ、そのとき悪魔がなにか囁いたにちがいないのです。幾ら待っても私のからだに舞いこんでくる蛾はいなかったのです。私は焦っていました。主人は私以上に焦っていました。その主人の焦燥は真暗な軒下の隅から私のからだへと伝わってくるようでした。主人は疲れ切っていました。自分の身体からとり出した透明な粘液で私を作りながら、もう何日もなにひとつ食べてはいなかったのです。主人がいなくなったとき、この私という存在は何者でしょうか!
 ・・・・そのときでした。突然一匹の蜘蛛の執念に誘われたように一匹の蛾がものの見事に私の罠にひっかかったのです。蛾はじたばたもがき逃げようとしました。もがくたびごとに私は、その蛾の長い触角や華奢な肢足に、私の糸の一本一本を巻きつけてやりました。しかし、蛾は執拗に間歇的な抵抗を繰り返し、白い粉を闇のなかへ振り撒くのでした。私は主人のほうへ振り仰ぎました。既に主人は隅から這い出し、蛾の抵抗を見つめていました。主人は予想以上に衰弱しておりましたが、眼だけ異様に耀き沈んでいました。既に勝利を得たかのように落ち着き、あとは時が来るのを待つだけといった様子でした。主人の痩せた背は月光に照らし出されて黒く光り、あとは鮮明な影の中に消えていました。その熱っぽく不気味な影の底に、私は主人の苦悩が澱んでいるのだと思いました。その時、私のからだに一瞬暗い底知れぬ嫌悪が蛭のように吸いついたのです。一匹の昆虫の苦悩、その生活の果てもない苦しみ、私のからだは恐ろしい勢いで怖気震えました。そのとき私は見たのです。誰も逃れようのない獄舎と、その囚人の生活とを。
 そうして私の運命は決定されたのです。
 執拗な抵抗を繰り返していた蛾は、最後のありったけの力で、私を打ち煽ぐと、私のからだに途方もない穴をあけて、銀白の鱗粉を夜空に撒き散らして逃げ去ったのです。不実無常の洞、虚ろなる廃墟。同時にその夜から私の主人は姿を消してしまいました。私に残されたのはたゞ死だけです。私は風にそよぎ、雨にうたれ、それでも昼の月のような悲しみは、烈しい太陽の光りに反射し、あくまで濃く深い蒼空と一体になるのです。



       喜遊曲

上野の杜の青い空を

白い雲が動いている


ぼくは聴く 喜遊曲(ディベルティメント)

やつれはてた おまえの

悲しい微笑が過ぎていくのを


飛びたつ鳩の羽音

やさしく舞い


影さえもほのかに光る

春の夕暮


われらが人生の 二分のニ拍子


屈託もなき

屈託もなく





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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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