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絵画展

 昨年から今年にかけて、足を運んだ絵画展が四つほどあった。往時からすれば、絵画を見にゆく機会が俄然と少なくなった。それは当方の生活の変化によるものだろうか。外へ出歩くことがかつてほどなくなった現在では、よっぽどのことがなければ美術館へ行くことはなくなったのだ。淋しいといえばその通りだが、新しい美術館が次々とできたからと言って、こちらの好みにあう会場となると意外に少ないのである。ロンドンのテート美術館でみた一枚が同じ感動を齎すとは必ずしもいえないのが、芸術作品のふしぎなところだろう。
 「ラファエル前派展」はすでに、新聞誌上で高階秀爾氏の簡潔な紹介文があるので、ここでは若干の印象を記したい。ジョン・エヴァレット・ミレイの水に浮かんだ「オフィーリア」は、夏目漱石の感想に増幅され、人々の鑑賞を魅了してやまない名画に違いないのだろう。ハムレットに恋して気が狂い、遂に樹から川へ転落する悲恋のヒロインであることは周知だろうが、手に花を持ち綺麗に着飾った女性を描いた絵に、以前のような感動を受けることがなくなったのは一体どうしてなのであろう。いや、「ヴィクトリア朝絵画の夢」と銘打たれた諸作品の妖艶なる女性達に、昔ほど心を動かされずに、その絵画のまえを虚しく通り過ぎる自分が不思議でならなかった。率直に言えば、私はもうこうした官能的な「美」に飽きている自分を感じざるを得なかったのだ。ただ一枚、アーサー・ヒューズの「四月の恋」の若い娘の長いスカート、腰から流れる紫紺の色彩が醸し出す豊かで純潔な印象が、私に心地よい感じを懐かせたことはたしかであった。
 しかし、六本木ヒルズの52階の会場へ漸くの体で到着し、招待券を持参しながら当日入館券と引き換えさせられ、物々しい監視体制での絵画の鑑賞にはげんなりしてしまい、カタログも買わずに、逃げ出したというのが正直なところであった。
 他方同じテート美術館で見たことのある絵画を展覧した「ターナー展」は、私を魅惑するに充分であった。最初の「自画像」の自信にみちた若いターナーの表情は、もはや只者ではない画家の風貌そのものであった。画家が生まれたコベント・ガーデンは、私が過ごした幾日かの旅行での思い出の場所でもあり、テート美術館へ通い、ターナーの絵画の魅力がどこにあるのかと思案に暮れたことがあった。だが、水彩の風景画の幾点かをみれば、この画家の技量が天性の資質のものであり、「J.M.W.ターナーの肖像(「希望と虚偽」)」を一瞥すれば、その画業に憑かれた非凡な才能がどのような地点へ画家を拉致しさったかを、納得することになるだろう。この画家には最早、世間などというものが眼中にはないのである。余談になるが、私は小さな風景画の写真が入った額縁と、私が愛飲するアーリ・グレイの高価な紅茶に、分厚いカタログを買う散財も厭わず、夕闇に暮れた上野の山から満ち足りた気持ちで自転車で我が家に帰ったのだ。
 またさらには時間を遡った昨年の「ルオーコレクション名作展」は、私の魂をふるわしたことを思い出す。ルオーの絵筆には表層的な刺激をみる者に与えようとする俗っ気はなにもない。ただその深い人間洞察が自ずとこちらの魂に沁みとおるなにかがあるとしか言い得ないのだ。汐留の意外なほど狭い会場を私は去りがてに、幾度も往還してルオーに感嘆せざる得なかった。「後ろ向きの娼婦」は私に悲しみをもたらし、「道化師」は静穏な魂の慰藉を与えられた。「聖書の風景」の幾点かは、今年に入り私に文語版の「新訳聖書」を改めて求める契機となった。「飾りの花」の色使いは「美的」なものなどなにもないにもかかわらず、これほどに美しい色彩はないように思われ、「マドレーヌ」はただ拝跪して讃嘆するしかなかったのだ。当日のカタログ以外に、「ジョルジュ・ルオー、サーカス 道化師」「ルオーと風景」を購入して、私の魂は深い喜びに満たされて帰路についたのである。
 そして、最後になるが渋谷の地下で展示されていた「水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャバンヌの神話世界」を見た。この美術館はこれまで幾回通ったことであろう。六本木ヒルズの52階には固い木材の椅子しかないが、ここには疲れるとゆったりと座れるソファがあった。若いときに腰を痛めたことのある私は、美術館へはポルトガルで手に入れたステッキをいつも携行することにしているのだが、休息をとる余裕さえないような美術館へは二度と行く気にならないだろう。それはともかく、シャバンヌのどこがいいのか、これまで知らないでいた。パリ市役所の壁にとてもいい壁画があることは、むかし、我が家にホーム・ステイで泊まっていた両親がコンゴ出身の、クリスという名前の黒人女性から聞いていたが、それがシャバンヌの描いたものだとは知らないでいた。一時、パリ市役所の役人をしていた詩人のヴェルレーヌなら、この壁画を見たことがあっただろうが、呪われた若き一人の詩人を知るや、妻子を捨てて顧みることはなかった逸話をふと思い出した。
 さてシャバンヌに話しを戻すと、「貧しき漁夫」ならどこかでみたことがあった。奥行のない海辺の小舟に佇む漁夫も背後に眠る子供にも、まるで現実感がないこの絵に、どんな魅力が隠されているかも想像することはなかった。「海辺の乙女たち」のハガキを一枚から、この絵の不思議な構図が見る者の視線を彷徨わせ、三人の女性は互いになんの関心もなく、中央の一人は後ろ姿で長い髪を梳き、あと二人は背中をみせて横たわって夢想にふけっている簡素ともいえる絵画に魅力を感じられなかったのだ。薄い色彩の陸と海と空にも、なんの思い入れもない奇妙な絵であった。このないない尽くしの絵画が、だがどれほどの革新性を持ったかは、ゴーギャンをはじめとした後世の画家が一番よく知っていたようである。近代絵画の可能性が、このしゃれっ気のないシャバンヌから開かれたという事実は、知っているようで理解しがたい西欧の絵画の技法と思考の歴史へと改めての注意を喚起された貴重な機会であったのだ。
 わが家でお菓子ばかり食べていた黒人のフランス女性は今頃どこでなにをしているのであろうか。わが町のお祭りに贈ってあげた浴衣を着て、日本の若者と路地のご座で酒を飲み、相当酔ったのに顔が黒いので酔った表情が分からなかったが、ひどく大酔していたようであった。妻と共にクリスを鎌倉へ案内して大仏を見せ、下駄を買ってあげたことがあるが、ほとんど日本語が話せなかった彼女にとり、日本はどのように映ったことであろうか。クリスよ、どうか幸せに暮らしておくれ。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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