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海の記憶

  二十代のはじめ職場で一枚のチラシを見た。その頃はまだスキューバ・ダイビングはあまり知られておらず、海という自然はただ眺めるだけで、せいぜい海水浴ていどにしか存在していなかった。
 小学校の先生に連れられて「沈黙の世界」という映画を観た。あのクストーがアクアラングを背負い、海の中を見せてくれた。風邪で熱があったにもかかわらず、その日は学校を休まずにその映画を夢中で観た記憶がある。
 教室の初歩の講義とプール講習があった。プールではメガネやフィン、それにレギをもぎ取られ、タンクの栓をひねって止めるなど、事故や緊急対応などの潜水訓練を受け、それに合格すると、いよいよ海へ出た。神奈川の江の浦の漁港に泊まりがけで、自然の海を体験した。海の底に張りわたされたロープに掴まり、10メートルの海の底に着地したが、水中メガネから覗く海はただ縹渺と不気味な砂が広がる平地で、砂からゴム手袋の一部が見えた。それが人間の手に見えて嫌な思いをした。寒くて視界不良のうえに波が激しく、プールとはまるで違う世界であった。
 翌年の夏、本土に返還直後の沖縄へ誘われた。竹芝から船に乗り、貝のコレクターである理科の教師にその子供、東工大の大学院生を含めた男三人、女性は教職の先生とOLの三人が同行した。船室に雑魚寝し、ポーカーや読書で暇をつぶし、飽きると甲板で身体を日光で灼きながら、青く燦めく太平洋を飽きるほど眺めて、二日後、那覇に着いた。
 沖縄はまだヴェトナム戦争中で硝煙の臭いが漂い、アメリカ軍のジープが右側通行で突っ走り、まるで植民地の様相を呈していた。守礼の門、ひめゆりの塔を訪れただ、米軍に追われて現地人が身を投げた海を望む断崖に立った。憤りと悲しみに熱いものが自然と胸にこみ上げきた。
 那覇から石垣島まで渡る小さな船は暴風雨に見舞われ揺れに揺られ、遅れて出た船は那覇に退き返していった。
 石垣では風速40メートル級の風に煽られ、街路樹は倒れ立って歩くことは不可能だった。沖縄料理のゴーヤはとても苦くて舌に合わず、青島ビールは粗末な味で飲めたものではなかった。
 竹富島へ小舟で渡った。のどかな小径が珊瑚の壁で囲まれた家の脇を走り、赤い瓦屋根には魔除けの獅子が鎮座して苛烈な太陽に灼かれていた。あくまで透明で美しい海は目を洗うようで、海岸の星砂の浜辺からつづく遠浅の海は夕陽に黄金色に染まり、島の古老が爪弾く沙弥の音色は、茶碗に注がれる泡盛の強烈な酔いに和んで、見上げる夜の空は満天の星屑。下腹を揺すり岸に打ち寄せる波音はすれど、陸と空との境も見えないぬばたまの夜の海だ。
 秘かに部屋を抜け出し闇の中で抱き合う男女。下駄の音がかすかにして、部屋のカーテンが白く風に吹かれている。
 石垣の海は珊瑚の色鮮やかな群落、透明度の高い海に日暮れまで40メートルを潜りながら、突きん棒で魚を追う。ボンベの空気がなくなるまで。疲れると焼けた砂浜に仰向けに寝転んで真っ黒に全身を灼いた。スコールが来ると海に入り、海の中から海面に降る雨脚を眺めた。深く潜水しながら、雨と稲妻が去るのを待つのだ。
 まだ魚群は豊かで珊瑚の林は広く、綾なす色鮮やかなトロピカル・フィッシュが乱舞し、緑の海草は波に揺られ、ウツボは目を剥いて口を開け、クマノミはイソギンチャクと共生してその活動はめまぐるしい。その頃はまだ鬼ヒトデもいなかったから、珊瑚礁の墓場を見ることもなかったのである。
 以後、30年近くを海に潜ってきた。夏から秋、冬から春。1年中海は塩辛い水を湛えて満々と地表に沈み、大空にしぶいて陸をえぐり、深い谷に盤踞して動かず、生命の源の母なるものとして胎動して命と死を孕むのだ。
 沖縄はその後も、伊江島、沖永良部島、慶良間の諸島の沖合まで、マンタを追って、幾度、旅したことだろう。
 職場に勇士が集まりダイビングのクラブを作った。伊豆は西の雲見、大瀬崎、東の海洋公園、熱海、熱川、真鶴まで車を走らせ、竹芝から船に乗り、大島、八丈、三宅、御蔵、式根、神津と、四国の沖の島、小笠原群島、日本海では佐渡ヶ島、太平洋ではパラオ諸島、ペリリュー島、フィリッピンのセブにボホール、インドネシアのメナドにパプアニューギニアのビアク、タイのプーケットにバリ、インドのモルジブ、ニューカレドニア、西は紅海、東はカリブのキューバまでと、足を伸ばしたのであった。
 雪の熱海の沖では、船を見失ない漂流して死にかけ、せっかく着いた式根では荒波に阻まれて、また竹芝に戻ってきたこともあった。
 海外では、成田から飛行機に乗り継ぎ、舗装もない夜のガタゴト道を幾時間も車に揺られ、裸電球の貧しい村や町を過ぎ、蚊に刺され、小さな小屋、その脇には骨だらけの痩せ犬、あるいは、豪勢なリゾート・ホテルのコテッジに寝起きし、朝焼けの空の下を、新しい海をもとめて旅にあけくれた。千円、千円とスカーフを売りに蝟集する現地の子供たちの貧しさは、完全な轢死にするために、車は戻ってきて二度子供を轢いていくというのだ。死人に口なしで、生き残ると補償料を払わねばならないからだという。貧富の格差は、想像を越え、平均賃金の統計の無意味さを知らされた。
 小さな魚を見つけて驚喜し、魚の壁に驚嘆したり、真っ暗な夜の海へ水中ライトを持って飛び込み、就寝中の魚や蛸や鮫を夜光虫の燦めく闇の中に見て廻ったりもした。よくも事故もなく、済んだと驚くばかりだが、ダイビングはクラブの内外に、幾らかの犠牲者もいないことはなかったのである。
 フィリッピンの洞窟に潜った7人のうち、四人が亡くなる事故では、無謀にも命綱を携行していなかったため、洞窟の底に沈殿した砂を足ヒレで巻き上げたことから、洞窟内の視界は不能となり全員がパニックに陥った。バディー達は幾つもの穴へ散を乱して入りこみ、三人が幸運にも空気のある穴から洞窟内の岩場に上がり、一昼夜後、現地のレスキューに助け出されたが、残りの4人は出口もない迷路の穴で窒息死をした。一ヶ月後に発見された一人の女性の死体は、レギを銜えたまま小さな蟹に食い荒らされ、見るもない変わり果てた死骸で見つかったということだ。
 また、素潜りの凄腕のダイバーが一人、八丈の錆ヶ浜に大きな魚を追って潜り、そのまま上がって来ない事故もあった。海岸にいまも小さな墓標があるが、温泉に浸かって喜びあった顔のひとつ、ホテルに同室したこともあったのだ。
 そして遂に、まだビギナーの若い女性をバディーがいたにもかかわれず、式根島の沖で溺れて死なせてしまった事故では、その一人の愛娘の死の悲しみのあまり両親は、その娘の後を追って心中してしまった事例は、どうにも弁解の余地はなく、25年ほどの活動をつづけていたクラブは、会議を開いての重苦しい議論の末、多数の合意をもって解散とあいなったのである。
 以後、私は海に潜ったことはない。
 自由を愛する人間は、海を愛すると詩人は歌うが、自然は美しく、海は恐ろしいものなのだ・・・・。合掌。

 



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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