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映画「私の男」寸評

 偶然、映画館のまえを歩いていたところ、モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞した「私の男」という映画が上映されていたので観る機会があった。監督, 熊切和嘉. 脚本, 宇治田隆史。 原作, 桜庭一樹.。 出演者, 浅野忠信、• 二階堂ふみ ・ 藤竜也等であった。
 原作の「私の男」は以前に読んだことがあった。暗く奇妙な印象を残した。好き嫌いはあるだろうが、小説としてのできはよいほうであろう。だがこの作家にはどこか偏向したものがありそれがこの作家の特徴らしい。ふと思い出したのだが、100歳まで生きた作家の宇野千代が、小説家は向日性がないといけないと語っていたことがある。これは文学というもののある本質に触れる事柄であろう。もちろんある種の偏向の自覚が、詩人や小説家を生む土壌となるのであろう。だがそれだけではだめで、それを客観的に俯瞰する能力が別に要求されるのだ。ドストエフスキーが犯罪を犯す青年を描くことができたのはそうした能力があればこそであって、芸術家の才能とはそうしたものだ。ヒットラーは青年時代に建築家になろうとした男であった。うまく美術大学へ合格をしていたならば、偉大な建築家になっていたかも知れないが、最下層の境遇から這い上がり軍隊に入ったことから、「我が闘争」を書く権力志向の怪物に変身した。
 それはともかく、2時間45分の割と長いこの映画は、ワンシーンのカメラワークがゆったりと長く、その上、執拗なアップの連続のため、余計に長く感じられた。ほとんどの観客がこの映画に納得したとはとうてい想像できない。事実、途中で席を立つ観客もいたが怪訝な思いはしなかった。ここで雑駁な印象を記しておこう。
 この映画には極めて現代性のある映像が見られる。審査員はそのテーマ性も含め、作品賞と主演男優賞を授与したのにちがいない。浅野忠信の演技は以前の時代劇にみた魅力のなさは、この映画では逆にそれが斬新なものとなっているのだ。ほとんど人格障害に近い現代の一青年を演じていた。氷りのような無表情に殺伐たり孤独とストーカー型の偏執を滲ませた男である。
 映画は、東北の荒涼とした沿岸部を襲った災害から海へ流された少女が、凍てつく雪の陸の上に這い上がる冒頭のシーンからはじまる。家族を失い独りっ子となった少女を件の男が引き取り育てるのだが、この男と女はいつしか性的な関係を結び合うにいたる。親子ほどに年がちがい、血のつながりはないので、純然たる近親相姦ではないが、育ての父親が育てている娘と性的な関係世界に入る。ここに孤独な男と家族を失った少女の密度のある愛の世界が築かれる。これを知り男を諭しにきた者を男は刺殺する。娘のほうも、娘を案じた親戚(?)の男( 藤竜也)を流氷に流して遺棄してしまう。かくして二人の関係は世間から孤立して完成するのだ。やがてゴミ屋敷と化す家の中での二人のセックスシーンは、血にまみれた映像のなかで、「禁断の愛」の花となって誇らかに咲くがごとくである。少女は成長して、若い男との結婚を想定された場面となるが、父と娘の関係は切れることなくつづくことを暗示して、映画は幕を閉じる。
 正午ちかくからのたった一回の上映でありながら、受賞の知らせがあったせいか、観客は意外と多く、私も期待して観たところであったが、あまりに過激な映像と荒涼たる世界に期待は裏切られた感は拭われない。原作は読んではいたがその内容はあらかた忘れてしまい、作品賞と主演男優賞を得たこの映画がどこまで原作に忠実であるかはっきりとしない。たぶん、映画は映画として自由に、独立した世界を構築したのではないか。
 血の繋がりはもとよりない疑似「親子」であっても、いわば人間世界ではタブーとされる「親子」の「近親相姦」が事実上果たされる。だが、この映画の前衛性は、この孤独な一人者と親族をすべて災害で失った娘との性的な関係が、まるでそれが「自然」であるかのように、「愛」を醸成して社会性を拒否するところにあるのだろう。いったいタブーなどというものにどんな重大な意味があるのだという反問をさえ訴えているほどだ。「禁断の愛」は人間のありようを根源から問う位相を獲得するようなのである。現代社会の荒廃を背景に、二人の許されぬ「愛」の世界はそれが「自然」であるというようにだ。
 家族とはなにか。その最小単位の親子とはそもそもなにか。男と女を結合する性的な関係へ、じわじわと迫るモチーフは、重たいにちがいないが、東北の自然を存分に背景に入れて、カメラワークはその重さと均衡を保っているようだ。
 先夜、テレビで1994年にイギリスで制作された英国映画の『フォー・ウェディング』(Four Weddings and a Funeral「4つの結婚式と1つの葬式」)という映画を観た。こちらはマイク・ニューウェル監督によるロマンティック・コメディ、結婚式と葬式を題材としたよくできた喜劇で、私は幾度も笑ってしまった。だが、結末は「私の男」と同じと思われる。「愛」の行き着くところは、制度や法を乗り越えてしまうほどなものなのか。D・H・ロレンスの本の題名を借りるなら「現代人に愛は可能か」という途方もない命題にいきつくのである。
 現代社会は、どうやらある種の臨界点を向かえつつあるようだが、それが今後いかなる新世界を現出させるのかが見えないまま、21世紀はあと1年で15年目にさしかかる。スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガゼットによれば、その世紀の性格は最初の15年までに、その全貌を予見されるという。2001年にアメリカの同時多発テロで幕を切り、イラン、イラクの戦争等を経て、イスラム世界の異議申し立て、新興国家の成長、中国の台頭、アメリカの相対的な地位の低下等、世界はますます混迷の度を深めるている。国内を顧みれば、毎日のように変事が起きている。労働者(テレビでは「就労」という言葉を使う傾向にある)の職場環境は厳しい。退職をめぐる職場のトラブル、パワハラやセクハラ、過労自殺。新聞に弁護士が労働法規を説いているが、連合等の労組の組織率は減少し続けている現状では、労働法規はないも同然で、労働基準監督署がどれほど機能しているか疑問と言わざる得ない。かつては東京都に相当程度あった労働相談の機関はいまどうなっているのであろうか。この種のNPOが生まれて活躍しているようだが、限界があるところであろう。世論に訴えるより、個々の相談から仲介・あっせんに力を注がれることが有効であろうが、監督署は明白な法規違反と認定できなければなかなか腰をあげようとしない、小回りの利かない国家機関である。
 自然現象は世界的におかしいのはもう何年も前からだ。だが、我々は明日なにが起きようが、今日、リンゴの木を植えるというようにしか生きることはできない。
 とある日、五歳をむかえる孫の誕生日に娘の家に行った。バースデイケーキを食べ、プレゼントにはしゃぐ孫達を眺めながら、嫁ぎ先の父親が一杯飲みながらつぶやいた声が、いつまでも私の耳に響いてくる。
「おじいちゃんは、今日はほんとうに、幸せだなあー」



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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