FC2ブログ

「剣の法」前田英樹

 この書物は柳生新陰流の流儀(刀法)について書かれたものだ。流儀とは何か。早速にこの書物からかりてくるのがよいだろう。
「剣の流儀を成り立たせるものは、それが制定している「型」です。この「型」を措いてほかに流儀の実質というものはありません。兵法の型は、たいてい二人で演じられるもので、勝つ側と負ける側に分かれます。上位の者が、負ける側に回るのが普通です。この型は、組太刀などと呼ばれることもあって、何本かの型が集まってひとつの体系のなかに置かれない型は、型とは言えない」
 著者によれば、こうした体系は16世紀中頃に確立された、念流、新当流、陰流の三つにたどりつくらしい。一般の剣道史でも三大源流と認められているのだと。
 著者は、上泉伊勢守信綱が、柳生但馬守宗厳(石舟齊)に与えられた「影目録」の一巻に記された新陰流にまなび、その型を実技に即して、縷々解読してくれている。
 さて、幾度も見た黒沢明監督の「七人の侍」という映画のはじめのほうに決闘シーンが出てくるが、巻き戻しをして何度みてもあの場面の刀法を納得することができないでいた。だが、久蔵という武芸者が行きずりの浪人と試合をするこの映画のシーンをこの本の著者が取り上げて、早さではなく間合いを読むことで勝ちを納める久蔵の刀法を解明していることに刮目して、ようやく明が啓いた心地を覚えた。映画の殺陣指導は「香取神道流」の継承者、杉野嘉男氏とのこと。新当流にある型をあの場面に使ったとは著者の見立てで、戦国末期の真剣勝負の雰囲気がよく出ているとの感想を述べている。ここを本から抜き書きをしてみよう。
「久蔵は、下段に構えた姿勢から右足を後ろに大きく引き、左肩を前にした半身(左偏身)になって、剣先を身の後にやります。一般に脇構えと呼ばれることの多い形です。これに対し、四、五間ほども離れたところから、大上段に構えた浪人が奇声を発して詰めより、久蔵の左肩に正面から打ち込んでいきます。
 青竹を用いた勝負では、久蔵は後ろの右足を踏み込み、前の左足を引いて、足を踏み替え、正面向きになって相手の左肩をやや斜めに打ちます。浪人は相打ちだと言う。実際、相打ちでこのやり方では当たり前です。けれど久蔵は、にべもなくおぬしの負けだと言う、相手は納得しない。それで真剣勝負になるのですが、今度の勝負では、久蔵は相手の左肩を切りながら、自分の体を左へ大きく開き、右足前の半身に変化しています。これで、相手の刀は空を切り、久蔵の刀は袈裟がけに相手の左肩を下段まで切り下げることになります。この立ち会いの一部始終が、静止のロングショットできちんと捉えられている」
 著者がここで強調しているのは、ぎりぎりの間合い(間積もり)というものが重要なポイントとなるのですが、それだけではない。切ってくる移動線にふわりと乗るかのように、こちらの移動線を乗せて体を捌き、ほとんど顔の間近で相手の剣に空を切らせ体軸を崩させる体の捌き方に、関心を置いていることだ。そして、こうした剣の流儀にある「型」は必然的に生まれたもので、この必然性のない「型」というものはあり得ないと言っている。この必然性は「剣の法」に真源をもつもので、著者の眼目はこの「法」に向けられている。これを理解することは難しいところだが、刀身一如はこの「剣の法(のり)」を性見(しょうけん)することによって得心するところとなるのだろう。これは武道を多少たしなんだ者なら知らぬはずはないにちがいなく、例えば、合気道を見た場合。どうしてあんなに簡単に投げられるのかと疑問に思うだろうが、相手の力に反発せずに、むしろその動きに協力するかのように体を捌かれると、体軸を崩された相手はもうどうしようもなく、技をかけた相手に乗せられたままになるしかないのが、多少の体験をもつ私の実感だ。ロバート・ケネディイの屈強のSPが座っている合気道の師範級の老人に手も足も出せない映像をみたことがあるが、あれは偽りの映像ではないのである。さらに剣の基本について、著者は疑問を投げかける。なぜ、柄の片手持ちから、柄の両手持ちが剣の理法の正道となったのか。正面に全身を晒す構えより、片手で剣先を前に出し、一偏身になったほうが実利に合っているではないかと。柄に両手をかける剣の流儀の時代になって初めて、刀身一如の生の全体的なあり方を構成するのっぴきならない技法の体系化が促され、ここに深い必然性と根拠があるという、この著者の特異の剣の思想が形成されるところだろう。こうした思想は著者がフランスの哲学者のベルクソンの思考から呼び起こされたものだろう。この推測は著者がベルクソンを論じた本を書いていることからの、あくまで私の推測でしかないのだが。
 とにもかくにも、そうした流儀の根本から、上泉伊勢守が陰流から開眼した「猿廻(えんかい)」の型を分析することから、日本刀への信仰心が古代の稲作民族の労働のかたちにまで遡り、その淵源を思想的に明らかにしようとすることにこの著書の特異性がある。
「腰を屈めて血を耕し、苗を植え、稲を刈り取る生活では、殺すことではなく育てることが、争うことではなく協力し合うことが、避けることの出来ない必要事になります。(中略)こういう文明では動物的な反発の原理は弱められていく。(中略)日本刀の美しさが、こうした生活を無窮なものにしようする祈願から生まれた」ことを、刀剣が「三種の神器」のひとつになる日本書記まで視野にいれて著者は読み込もうとする。
 現代における「居合」を一考した以前のブログで、著者の「宮本武蔵 剣と思想」を参考文献に挙げたことがあるが、その延長上に、日本刀とその刀法から、日本文化の本質まで迫ろうとする著者の眼光には端倪すべからざるものがあると、言わざるを得ないだろう。反発する身体操法から抜け出すことによって、相手を切るのでなく相手を活かす活人剣が生まれることを説いている。「柔よく豪を制す」というのは、なにも剣のせかいだけのことではないだろう。芸技にみられるこの極意は、芸術一般、いや、人間と人間、国と国との間合い(「拍子」も含む)にも、適用されるものだと思われる。



   
     剣の法



関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード