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ある友の横顔

 この頃、夙に旧い知人・友人等があの世へ旅だっていく。各人が還暦を過ぎたからか。
 ロベールト・ムジールの「特性のない男」を原書で読みたいと、独語を勉強しはじめた一人の友は、数年前まである大手グループ会社の創業者の長男であった。その男からはまだ互いに若い時分に、ランボーなる詩人を教えてくれたが、その他、トーマスマンの「魔の山」、カザンザスキの「その男ゾルバ」等の文学書に混じり、「愛と死を見つめて」などの本まで、読み捨てると私に無造作にくれた。最後のこの本は吉永小百合主演で映画化された。高校からハンドボールの選手で成らしたこの友は、分厚い胸郭、男らしい目鼻立ち、快活で熱い心根を持った好漢であった。卒業と同時に、専門の勉強にと千葉の工科大の大学院に通ったが、その後すぐ商売のことなら関西でと、大阪で実父の会社で働き始めた。一度だけ、アルバイトを一緒にしたことがあったが、その働きぶりは半端ではなく、とてもではないがアルバイト程度の働き振りしかできない私は閉口したことがある。酒についても、その男の馴染みの飲み屋のママさんの店で飲んだことがあったが、私は店を出たまでの意識はあったが、そのあとは双方勝手に店を出た以後は、友の姿を路上に見失い、一人真冬の深夜をさ迷っていたらしく、翌朝、あまりの喉の渇きで目を覚ますとラブホテルのベッドの上であった。あまりの寒さで凍死する寸前に一人そんな場所に潜りこんだらしい。「つまらぬ散財をさせたようだな」と友は笑っていたが、あの痛飲と寒さは忘れられない。塩水を飲まして酔いを和らげてくれたママさんはいい人だった。
 その友が実父の会社で手腕を発揮することを、私は疑わなかったのだが、株式組織の大きな会社ではどっこいそう簡単な筋書きどおりにはいかないようだった。どだい自由奔放に若い日々を過ごした人間に、組織の型にはまるような生き方はとうてい無理なのは、なにもこの男に限ったことでもないのだ。もう古い言葉になってしまったが、「実存哲学研究会」で出遭った人間が、平凡な型にはまった生き方ができるはずはないのだ。
 それにしても、そこが人生の面白いところなのかも知れないが、同じ会社で働く一女性に惚れてしまったことが、その男の運命を変えてしまったのだから、どうにも仕方がないことなのかも知れない。
 両親、特に母親は息子のこの話しに、激しく反対をした。両親から私はその雌猫(母親はそう呼んだ)をあなたの目で見て来て欲しい。そしてできることなら、息子からその女を引き離していただきたいとの密命を帯びて、大阪へその友人を訪ねて行ったことがあった。
 私はその女性に会ってみなければと母親に釘をさし、その奇妙な依頼を引き受けたのだ。大阪へ着くと、友が車で迎えに来ていた。すでに一緒に女性と住んでいるアパートに私は案内されて、同棲しているその女性に会った。おどおどとした目でその女性から見られると、私はどうにも嫌な気分に襲われた。彼女は私が友人に逢いにきた意図を本能的に感知していた。私は妙な役回りに密かに舌打ちをした。その友が思いこみの激しい熱血漢のロマンチストで、早熟な文学と映画青年であり、運動選手の強健な身体を持ち、働くことが趣味のように好きな偉丈夫な漢であり、ひとたび杯を上げれば飯を肴にでも飲む酒豪であることを、私はよく知っていた。見るからにごく普通のしとやかでさえもある女性を目の当たりにし、ひとまず胸を撫で下ろしたところだ。その女性には好感さえ懐いたと言ってもいい。友人はその女性の家庭環境や家柄などを、問わず語りに私に話してくれた。
 その友に連れられ、私は初めて通天閣に行き、大阪名物の蛸焼きを食べ、関西料理を前に、酒豪であるその友とひさしぶりに酒を飲み交歓した。私はその男の女性を思う気持ちに、まちがいはなく、相手の女性の育ちや家柄なども、母親のお眼鏡に添えないとはいえ、それなりにしっかりとした女性であるとの印象を持って、東京へ帰ったのだ。
 友人の実家へ行き、両親を前に事情を説明して、私が母親の言うようなことはできないことを、湾曲に伝えて辞去させてもらった。父親は私の話しに納得してくれたようであったが、母親は天から不承知であることは、どうにも氷解しえない壁のように思われた。
「あの子はどんな立派な娘でも紹介できる立場にあり、ちゃんした結婚式をさせてやれることができるのに、なんであんな女と!・・・・」という、母親の愚痴、嗟嘆、怒りの電話をさんざんに聞かされたことであろうか・・・。  
 私は友人の性格から、彼が母親のいう立派な家柄の娘の方を撰び、大阪の女性を弊履のごとく棄てるようなことは、とても想像できないことに思われた。
「お母さん、私が会った女性はとても悪い女なんかとは思えませんでしたが・・・」
私はそれ以上、意地になって女を貶す息子を溺愛する母親という存在に吃驚して、言うことばを持っていなかった。
 それから1年後、友は結婚式などもせず、ただ写真屋で撮った正装した二人で映った一枚の写真が、私に送られてきた。それを友人が自ら選び取った人生の最初の一歩だったのだ。
 数年後に、私は大阪に行った。そこで、2,3歳の女の子を連れた友人夫婦と会った。また、十数年後に東京に転勤となって帰ってきた、3人の子供のいる友と、中央線沿線の公園の満開の桜の樹のしたで、私の家族と一緒にお花見をしたこともあったのだ。東京へ帰ってきても、実家へ出入りもできない友人の子供と奥さんとの家庭は、なんとも淋しそうな気がしていたこともあったのである・・・・。
 あれほど女性を呪っていた友の母親は、とうとう神経を患い、病院で治療中だと聞いたが、あのときまでは、旧友の家庭もまだ形だけは幸福であったように思われる。
 そして、また仙台、広島、大阪へと転勤がつづき、東京で支店長を務め、本社の部長まで昇進したようなことを聞いたような気がしたが、いつの間にか、グループ傘下の子会社の社長になった頃からか、あまりの労働加重により、あれほど頑健な身体はそこらじゅうが故障だらけで、血尿が止まらず、歩きすぎた足の片足は故障を起こして、びっこを曳いて歩く姿となりはてていた。ほとんど家に帰らずに夜遅くまで働いて、車の中で寝泊まりしていた旧友は、傘下の会社への資金援助などで、膨大な借金をして昼飯を食べる金もない窮乏の有様となっていたのである。
 奥さんはゴルフ場のキャディーしながら娘と二人で暮らし、旧友は借金に追われて家に帰っていないらしい生活がしばらく経つにつれ、妻からは離婚届への押印を迫られる羽目になっていたらしい。
 頬がこけた痩せ細った顔で「借金地獄っていうけど、ほんまにこれ地獄ですわ!」と、苦い笑顔ながら、小声で快活そうに振る舞うその表情には、あの昔日の晴れやかな好漢の雄姿の翳はもう見ることはできなかった。
 取引先の会社の借金に回す金の工面で、自分が町の金融会社から借金をする。それが膨大に膨らんでいたのであるらしい。珈琲代も割引の券を出すほどに金に困っていて、幾らでもいいから貸してくれと言われこともあるが、とうとう自分の退職金と実父からの援助で、借金地獄からの脱出はできたらしい。
 会社はグループの会社の相応な地位は、保証すると約束してくれたらしいが、もうこれまでの会社からは完全に縁を切って白紙で働きたいと、友人は私に告白した。
 それから暫くして逢うと、友人は私へ名詞を差し出した。「○○墓石株式会社」と刷ってある。新しい会社の面接では「君のような経歴の人が応募してきたのはめずらしい」と言われたと、明るく笑っていたものだ。
 墓石のセールスに転身して、生き生きと晴れやかな顔を、私はひさしぶりに見たように思った。
 それから二度ほど逢ったあと、携帯に幾度電話をしても、返事がなくなった。きっと、ノルマを果たすセールスに飛び回っているにちがいない。
 そしてまた、あの飛び跳ねるように万年筆での力筆の葉書が私の手元に届くこともあるだろうと思っている。なぜなら、旧友は働くことが、飯を食うより大好きな「詩人」でもあったのだからだ・・・・。
 最後にこの友人らしい思い出を記しておこう。関西にいた頃、四国の景勝地へこの友が案内してくれたことがあった。その帰りの瀬戸内海を渡る船の中で、私が愛読していたフランスの詩人の本を見せると、友人はその本を手に取りチラと目にすると、それを空高く放り投げた。その私の愛読書は瀬戸内海の藻屑となって消えたが、いかにもその友人らしい行為を、私は爽快に感じたことを、いまも昨日の事のように思いだすことがある。
 その友人と私を含めて四人の「リベルテ」なる同人誌に寄稿した内の二人は、一人は四十代、もう一人は五十代で既に故人となった。

  遅き日のつもりて遠きむかしかな (蕪村)




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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