FC2ブログ

映画について

 カフカは映画に独特の感覚をもっていた。「審判」は映画化されたが、作品の本質は伝えることができたとは思われない。「変身」を映画にしたとしてもただ滑稽になるだけだろう。文学では「詩」がその本質を一番深く体現し、散文では小説となるのだろうが、映画化されて喜ぶ一流の作家はまずいないはずだろう。小説を書こうとする者が、映画への対抗意識を持たざるを得ないのは、文章は映像とはその本質上に異次元のものであることを知悉しているはずだからだ。映像は文章による想像力を豪雨のように押し流し、立ち止まることを許さない。人をスクリーンのまえ座らせ、呪縛するのが映画である。二十代では、映画のこうした魔術に、ある種の妬ましさと軽侮を覚えていたことがあったが、いまいちどそうした感覚に立ち戻ってみたいと思いながらも、それが容易でないことを知るだけだ。技術の圧倒的な力はそれほどまで強烈なのだろう。人々は今では、新しい技術を中世の錬金術のごとく追い求めているほどである。現にいまこうして使用しているパソコン入力での文章構成に馴れてしまうと、万年筆やボールペンで文章を書くことが億劫となる。紙に文字を書き連ねていくことは、一字一句を手探りしながら、文章を練り上げることに意識を傾注して行かざるを得ない。記憶の抽出の開け閉めに相当なる労力を費やさねばならない。パソコンは便利な道具だが、詩や小説の真の豊かさをどこかで衰退させるのではないかという危惧を押さえることができない。映画という表現手段は、こうした懸念を最初から封殺させてしまうものだ。それはほとんど快楽の拷問とでもいえる一方通行の強制力を発揮するトポスだ。人々は自分の時間が掠め取られることを承知で映画館に入る、あるいは、テレビで映画をみる。いや映画に見させられると言ったほうがよいだろう。パスカルは一室にじっとしていることに人間の大いなる苦痛をみたが、映画館ではそれが真逆となるのだ。目の前を擦過する映像に心は運ばれ、魂までも奪われることを、自ら欲するようにまでなってくるのだ。私はいま、技術が人間を変えていく端的な現れを、映画という新しい芸術にみたのにすぎない。
 正直な告白をすれば、私は大の映画好きである。若い頃は映画ばかりをみて過ごした一時期があったが、それでも時折、映画の恐ろしさに気がつくことがあった。夢から醒めた人間が、この現実との落差にたじろぎ、あるいは安堵するかのように。またその逆に、この現実のあまりの平板さに、映画に一時の慰安を求めることもある。それが娯楽の娯楽たる所以なのだ。いやいやこの辺で、つまらぬ映画論から離れて、幾度もみて感激したアメリカ映画「北国の帝王」について、少しばかりの感想を述べることにしたい。
 この映画は1930年代のアメリカの不況時代に、無賃乗車の放浪者(「ホーボー」と呼ばれる)の男たちの中の「帝王」Aナンバーワンとまだひよこのシガレットという若僧の二人組が、ホーボーのただ乗りを決して許さない貨物列車19号車の車掌のシャックに挑戦して、死闘に類した対決を描いた1973年のアクション映画である。まだ二十代の作家の中上健次が、この映画の感想を書いている。当然にも的は外してはいないのだが、新しい小説を書こうという若い作家の意気込みが全編に溢れているのがおもしろいところだ。中上はこの映画の構造を小説として読み解こうとしている。当然、中上の視点はシガレットという若僧に憑依して、その視点から、人生の経験もスキルもあるAナンバーワンと車掌のシャックを他者として描いた点を過大に評価して、この映画の映画としての醍醐味を味わい損ねているところだろう。たしかに、この若僧がいなければ、二人の大人同士のつまらない格闘映画となったのにちがいはないのだが、若僧にこの映画の「話者」をふるのには感心しない。単なる登場人物にすぎないからだ。そうでなければAナンバーワンが、最後にシガレットを列車から突き落として「おまえにはハートがない」と吐き捨てる科白が生きてこないだろう。中上がこのアメリカ映画に感じた「自由」の感覚は、この一言からくる以外のなにものでもないからである。





関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード