FC2ブログ

鳥越綺譚

 今は昔、五百年まえのことだ。この地は隅田川の畔にひらかれた閑静な海沿いの村であったそうだ。街道筋の悠閑なこの村は、樹木の茂った小高い山の上にある社の鎮守の杜に、鳥がねぐらを求めて群がり、それはまあ、ゆかしくも懐かしいところであったらしい。
 景行天皇の御時に、王子の日本武尊が東夷御征伐の折り、この地に、しばし御駐在遊ばされその御徳を尊び奉り、白鳥神社をお祀り申し上げたという。また、永承の頃、八幡太郎義家公が奥州征伐のとき、白い鳥に浅瀬を教えられ、群勢をやすやす渡すことができたという。義家公これ白鳥大明神のご加護と称え、御社号を奉られてより鳥越の地名が起こったということだね。
 昔は社の境内も頗る広く、小島、下谷、竹町の境にあった三味線堀は、姫が池という御手洗の池で、これらも社の境内にあったと「鳥越神社略史」というのに記されているよ。
 ー暮れにけり やどりいずくと いそぐ日に なれも寝に行く
  鳥越の里(「回國雑記」)

 私は文京区本郷に住み、退職後の手すさびに郷土のことをすこしづつ調べている前期高齢者というのでしょうか。家に籠もってばかりもいられず、上野の不忍池は散歩がてらによくぶらぶらしておりましたが、ふと偶然にその池の畔で旧い友人に会ったことがございます。これまで隣接区のことには余り関心がなかったのですが、その友人は台東区にある内儀さんの実家に移り住んでもう三十年が経つということでした。
その機縁で、葛飾北斉の富獄百景のひとつに「鳥越の不二」というのがありましたが、私はその鳥越という所がどんな町であろうかと、以前から関心を懐いていておりました。友人とはひさしぶりの再会で、ひととおりの四方山話が済むと、私は何気なく北斉の絵にある鳥越という町名の由来を尋ねたのでございます。台東区内に縁故の多い友人は、私の関心を聞くと早速に親切に手助けをしてくれました。友人はそれなら鳥越神社の近くにいる氏子を紹介してあげましょうと、それは懇切な気働きをしてくれまして、とんとん拍子に話がすすみ、あれよあれよと思う間もなく、一老人と会うことになったのです。
 お歳は七十過ぎのその御仁は見るからに矍鑠として、元気いっぱいに私のまえに現れたときは、ほんとうに吃驚した次第でした。
 聞けば三代下町で生まれた江戸っ子だということで、鼻筋のとおった艶のいい顔立ちと粋な姿は、まるで江戸の町からぬけでてきた風情で、喜んで蔵前橋通り沿いの蕎麦屋の二階に席を構えて下さいました。ちょいと私の顔を見るとニタッと笑ったのは、私がよほど胡乱な老人風情に見えたのに違いありません。定年後はこれといった仕事もせず、世間離れしたひとり暮らしのせいで、きっとよほどに私の風袋が野暮ったくみえたのでございましょう。
 それはともかく、友人の話しでは、そのご老人は相当な話し好きとのふれこみでありましたが、早速に、この冒頭のくだりから、あれが江戸ことばというのか、少々品くだる下町なまりの妙な節まわしよろしく、のっけから以下のようなことを息つく暇もなく滔々と語りだしたのには、少なからず狼狽したものでございました。

Ψ

 日本が初めて世界の檜舞台に躍り出ておっぱじめたのがあの大東亜戦争だったかね。あの熱い夏の敗戦の日のこった。この神社の宮司ってのが自分の社前から兵隊を送り出し、その戦さが負けた責任を心痛して、社前で腹を切ったということだ。あの負け戦の責任を自分の腹をかき斬って果たしこの神官は、特筆に値するところだと、そうはおまえさん思わねェかい。今から顧みれば、あの戦争なんぞはなんてェばかなことをやらかしたとみんな思うけどよ。負けてみりゃみんなそんなことを小利口に言いだすものなんだ。だがあの時はあれで仕方なかったってェことよ。それよりも、変な理屈で「戦犯」にされちまった者よりも、こうした神官が一人この下町の神社にいたってことのほうが、なんだか胸がスッーとすくような気がするんじゃありませんかい。
 鳥越という町の名は、ほんとうはさ、とりごえとにごるのではなく、とりこえとすんで発音しなければいけないのですが、まあ、そんなことはどうでもいいことでございますが。
 ええ、早い話が浅草というより、東京でもっとも古い社がこの鳥越神社なんだっていことぐらい、いまはその面影を偲ぶこともむつかしいほどの狭い境内に佇んで、白く大きな石の鳥居を仰ぎみながら、あたまの隅にでも蔵っておいてほしいもので。
 あれは明治の頃のことだ、かの樋口一葉女史が商いをする店を探してそぞろ歩いたおりにだよ、この鳥越の町を「いぶせき」と言って通り過ぎたっていう話しだぜ。落ちぶれたとはいえ気位の高い、元武士の娘らしいと、笑って済ませてしまえばそれでいいが、小石川の初音町さえ、「うぐいすの貧乏町」と悪口雑言を、筆に染めて吐き出した一葉のこった。まあ、いまは五千円札さまにおなりなすった才女のことなど知ったことではないが、たしかに「いぶせき」ところかもしれなねェなあ。だがそれがなんだってんだ。人間さまと同じことさ。外面(そとづら)で値踏みされたら立つ瀬はないぜ。中実がなけりゃ、たなの落ちた西瓜も同然だ。その町の値は、住んでいる人さまの心映えできまるのが、お天道様の道理というもんじゃないのかい。
 さてさて、この鳥越のいまにいたるまでの話しをするから、よく耳をかっぽじって聞いておくんなさいよ。ときどき、話しがあっちこっち飛び回ったり、調子がへんてこに変わるのはあっしの癖なんでちょっくらごめんなさってくださいましよ。

 この小さな町は、東と西に分かれ、東が二丁目、西が一丁目にあった。一丁目は先の戦禍を免れたせいでか、その狭い土地に木造の仕舞屋が軒をならべて犇めきあい、細い路地裏が婆さんの額の皺のように縦横無尽に走っていたね。数匹の猫が細い路地裏なんかで、乗り手のないほど錆びた自転車やところ狭しとならべられた万年青の蔭に隠れながら、三毛も虎も黒いのももつれ合って色恋に夢中のご様子だ。町のど真ん中にあったいかにもこれが風呂屋という立派な構えの「福寿湯」の賑わいはむかしのこと、いまは一階がスーパーで、朝から荷下ろしの音、夕べとなれば一円の安きを狙ったオカミさんたちが店内にひしめきあい、外へ出れば井戸端会議があっちこっちで始まっている按配だ。このスーパーの前にあった、趣もゆかしい「バーバー」も横町へ引っ越して、鳥越会館の隣に一軒あった鰻屋も惜しいことに店を閉めてしまった。そのせいで、路地裏に漂っていた蒲焼きのにおいが鼻をひきつかせることもないのが、なんともさびしいかぎりというもんだ。だが梅雨と符節を合わせておっぱじまる、六月の大祭の日に、この小さな町に雲霞のごとく集まる晴れやかな人の顔をみれば、殺傷沙汰の尽きないいまの世なんぞはどこ吹く風よ。江戸の庶民もかくあろうかと思われる生活が偲ばれるというものさ。
 江戸の古地図を開けば、町の南側には隅田川から引き込まれた運河は突き当たって荷揚場となっている。いまは古い都営アパートが大勢の世帯を抱きかかえ、ようやく突っ立ている格好だが、三味線の形に地形が似ていたとやらで、三味線堀との地名がみえるぜ。むかしは三味線堀マートなんていう名前で、魚屋、八百屋などが一階に小さな店をならべて、いまのデパ地下みてェに威勢のいい声が飛び交っていたものなんだがねェ。
 あれは戦後のどさくさが治まりはじめた頃であった。酸鼻を極めたシベリア抑留から、日本の土を踏んで、やっとの思いで善三という男が東京までたどりついたんだ。上野駅を出ると西郷さんの銅像の下から、下谷のあたりの風景を一望したという。遠くの地の果てまでのっぺらぼう同然の東京は、まるでシベリアの原野とみまがう、これはみごとな焼け野原になっちまったんだな。だが極寒のシベリアを思えば、日本のそれも東京の地に立てた無上の喜びが胸にこみ上げてくるのはしかたがないや。だがこれからどう暮らしていくのかという明日からのことへの思案で、ぽっかりと穴が開いたような胸の中を、シベリヤのように凍てつくほどではないが、なにやらうそ寒い風が吹き抜けていくばかりであったそうだよ。
 これから無一物、裸同然のすっからかんから、さてどうしたら身を起こす手だてがあるものか。ようやく生きて祖国へ帰って来られた喜びに浸っている余裕など、善三には湧いてこようがなかった。
 そのうちふと脇をみるていと、シベリヤから大事にもって帰った毛布がなくなっているのに、善三は気がついたがもう遅すぎたね。
 西郷さんの大きな眼の下だって、そんことは日常茶飯事の出来事というご時世だったからね。
 空きっ腹でぼんやり歩いている善三の耳に、「仕事をしてえものは、さあ、乗った、乗った!」との胴間声につられて、ぽんこつのトラックに乗って着いた先が蒲田というところだ。仕事といっても米軍払い下げの屑みたいながらくたが、焼け残った倉庫のような建物に山のように積み上げられている。それを拾い上げては、それ相応な品物にするというものだってさ。洗ったり曲げたり磨いたり、器用な手先ひとつで使い甲斐のある洗面器や手提げ鞄、屑紙の山から物色したものをいい具合にして紙箱等に仕立てあげる。極寒のシベリアで木の枝や根っこを石でこすり、箸やスプーンのようなものを拵えては、寒さと空腹をやり過ごしてきた善三は、物を作る器用な才能ってものに、人より長じたものがあったんだろうよ。それを駅前でならべて売りさばく。これが当時の品不足の世の中ではなかなかに繁盛したらしいんだ。
 少しは生活が安定しだすと、商品を入れる器が需要になりだしたんだな。なに人が着る服装のようなもので、江戸のむかしから、日本人は服飾品に目がないところがあったんだよ。
 ない知恵を絞り、材料を工面していっぱしの箱屋として通る頃には、朝鮮戦争の特需で、商品の流通も盛んになるありさまは、これが敗戦国日本かとその変わり振りには不思議な気分になったっていうさ。すでに変わり身の早さは女の姿に現れていたぜ。戦後しばらくも経てば、もんぺなんて穿いているヤツなんざ、もうどこにもいなくなったんだからな。戦時中はもんぺを穿いて、竹槍の訓練に汗をかいた女たちが、戦争が終われば背の高いアメリカさんの腕節にぶる下がって、しょげかえった男どもへ「やい、日本人!」と侮蔑の啖呵のひとつも投げる、そんな若い女たちの変わりように、目をぱちくりさせる光景もみえたってことよ。
 善三は日本橋や馬喰町の大店へ、作った箱を卸しに蒲田から自転車に荷台を引いて商売をはじめた。中にはその頃どっと育ちはじめた子供たちに目をつけて、文房具や玩具の商いする者や、善三が預けた材料をこっそり横流しして、ドロンを決め込んだ盗人猛々しい奴等もいたらしいけどな。それがどうしたっていうんだい。なんにしろ善三が命拾いをした極寒のロシアでは、夜は二人が一組で少しでも暖をとろうと、抱き合いながら寝ていたんだが、そうしながらも、二人は決してこころを許し合えることはなかったらしい。たった一言のことばが自分の命を奪うことになることも稀ではない。抱き合っていた相手がソ連のスパイてなことも考えらたんだから油断は禁物だぜ。喧嘩は秩序紊乱で、二人そろってもっと寒い奥地にやられちまうんだ。それで互い仲良く抱き合い、疑心暗鬼になることほど、気が休まることはないらしかった。戦争は終わっていたのに日本へ帰ることがどうしてか許されない。いつ帰れるかもわからない。シベリアでの体験を思えば、故国はまるで天国みたいなものさ。小さなパンを等分に分かつのを、殺伐たる思いで見守るあの寒々しい光景。抱き合って寝ていた者が不意にどこか連れていかれて、そのままそいつの姿をみることもなくなるあの荒涼と恐怖。日本には衣食住の欠乏はあったが、故国を同じくする人間同士が腹の底で、互いに不信感にのたうつあの底知れねえ恐怖と不安はなかったんだよ。
 この善三から聞いた話しだけどね。握った指がそのまま手すりに凍り着いて離れなくなるような船の甲板から、善三達が降ろされたのが択捉島の単冠湾を望む浜中浜だ。日本陸軍はソ連の南下を恐れそこに一個大隊での防御を固める手はずだったが、ソ連の参戦は予想を遙かに越えというんだ。善三達を降ろした船は急ぐように、錨を上げると本土へ帰ってしまった。それから三、四日が経ってからである。
 ここに居てはいつソ連兵がやってくるかも知れないので、オホーツク海方面への移動の命令が下ったという。善三達は即座に山を越えて反対側に陣を張った。やがて、信じられない情報が入ってきた。
日本は無条件降伏をして、戦争は終わったということだ。だがもっと信じられないのは、にもかかわらずにソ連の兵隊が船でオホーツクに回り込んで、善三達を有無も言わさずに拘束したことであった。
 それから約二年半の間、ウラジオストックへ拉致され、その森の中で強制労働をさせられたことであったらしい。
「飯ごうに豆がわずかに浮いた食料で、ロスケに蹴飛ばされて働かされた」と、善三さんは開いた口が塞がれないとでもいうように、うすく笑いながら話してくれたぜ。
 だから、ようやく日本の船が迎えにきたときの喜びはなかったらしい。船に乗り移る細い橋を我先に急ぐ者のなかには、あまりに欲張って荷物を持ったがために、バランスを崩して海へ落ちたやつもいたらしいが、誰もそいつを助けようなんて考えもしなかったってよ。
 抑留生活はそれはひどいものだっらしいぜ。
ある日の夜明け方だった。あまりの寒さに善三は目を覚ました。吐く息さへすぐに凍えそうな極寒のシーンとして夜の底にかすかに耳慣れない音を聞いた善三は、身を起こして静かに床を一間ばかり木造の壁際へ這っていったそうだ。隙間から戸外を覗いてみると荒涼とした夜明けのほんのりとした道を、一台のトラックが走り抜けるのが見えたというんだ。荷台に目を凝らした善三の目に、わずかに月の明かりに照らされた白い荷物らしきものが見えたという。それは身ぐるみ剥がされた人間さまの骸の山で、腕や手が互いに絡みついて、どこぞかに運ばれていく光景だったということだ。善三の身内にゾッとした冷たいものが走り、ガタガタと震えが止まらない。ここへ来てから、飢えと寒さで一人二人と息絶えた仲間たちのそれが凍え白い材木のように積み上げられ、移動中の悽愴たる様子だったと善三は合点したっていう。ろくなものも食べさせられずに、過酷な労働に尻を蹴飛ばされたあげくの果ての姿だったんだっていうこった。
 善三は早速、大店に近い場所に九尺二間の長屋ではないが、以前大工が住んでいたという独立した空き屋を手に入れた。それがこの鳥越という町の一角で、親戚筋が紹介してくれた働き者のオカミさんとふたりで住んだっていう寸法よ。それから夫婦二人で朝早くから夜遅くまで、大店への卸しの依頼で、箱から紙袋まで取引先の都合に合わせてなんでも器用に作って律儀に納めたから喜ばれた。こうした類の人々が、小さな町に鞄やら帽子、靴にベルトなどの小商いをする職人として、小さな間取りの家を借りたり、安く買ったりして集まったってことよ。たちまちどこの家でも、ボウフラのように子供が生まれた。職人だものなんだって作り出したらキリがないや。そこらじゅうの娘や小僧が育つにつれて、路地裏は子供の遊び声で、ギャーギャーとうるさいほどの賑わいだよ。
「やい、うるさくって仕方ないから、どこか広いところへいきな!」
 と箱屋のオカミさんが路地裏の二階から、真向かいのパーマネント屋の奥さんと二重奏のように、怒鳴り散らしたってんだ。広いところといったって、この小さな町にそんなところがあるわけはないさ。
「この糞婆め!」
 一斉に二階を見上げた子供たちから、そんな憎まれ口が叩かれ、蜘蛛の子を散らすように、子供たちは一旦は姿を消すが、いつの間にかまた路地に集まる子供たちが絶えることはないというもんさ。
 この善三のオカミさんは働きながら女の子供二人を次々と産んだね。子供ができると善三はますます精を出し、日曜もなく働いたんだ。いつの間にか、広くもない家の二階に、使用人たちがどこからともなく集まり、箱屋職人として善三はこの町の路地に、もう立派に一家を構えた按配になったってよ。またあとで善三さんの話しはさせてもらうことにして、いまのところはこのくらいしておこうかね。この善三の孫に女の子二人できたってよ。その二人がまたとびきりの美形ときた日にはしゃべらずにはおけねいやね。
 さてと、あるときこの町の一角で、近所じゅうに聞こえるはでな音を立てて、オカミさんのほっぺたをひっぱたく旦那があったぜ。狭い一階の床にバンドが所狭しと散らかっていたな。この旦那ってのが足にすこし障がいがあった上に、多少、口が不自由なところがあるとみえた。ひっぱたかれたオカミさんは途端に火のついたように大泣きをして、それから夫婦喧嘩がおっぱじまったね。ああまたやっているなと近所は見向きもしないぜ。ところがだよ、隅田川の花火が夜の空に打ち上がる夜ともなると、どこから上がったのか。いまさっき犬猿の仲のように喧嘩をしていた夫婦がだ、屋根から花火を見て寄り添っているのがみえるから、その仲睦まじいことったら、お月さまだって恥ずかしがって赤くなるってもんだったよ。
 この隅田川の花火大会があるていと、どこの家も物干し台やらビルの屋上に茣蓙などをひろげ、缶ビールなんぞをグビグビ傾けて、よく眺めていたな。ドドーン!と腹に響く音と同時に、ヒュルーヒュルーってなにか青大将が首を締められたような妙な音をだして、ちいさな花火の種が夜空に打ち上げられるとだな。それが突然弾けて色とりどりの大輪の光の華麗な花が、パーと燦めいて咲き艶やかな容姿をみせるとスーと消えていくんだ。あれは見ると胸の中にパーと花が開いたような、いい気分になるていうものさ。「春の夜や女見返る柳橋」なんて句碑が柳橋の傍にあったけど、なんかそんな艶やかな光の明滅が一瞬胸を駆けめぐる気分で、
「よっ!中村屋!」
 なんて歌舞伎じゃないが、歓声をあげたくなるぜ。
「ちょっとお塩切らしちゃってさ。貸してちょうだい」
「このおかず夕食に余計に作ったんだけど、ちょっと食べてみて」
 なんていうオカミさんの声なんかが、路地裏によく聞こえたもんだ。男は無口な職人肌な人間が多かったが、オカミさんはお互いによくくっちゃべっていたっけ。オカミさんに聞けば、この町にいる住人の詳しい事情は、分からないことなんぞないという按配だよ。
 雨がふってきて隣の家の物干しに洗濯物なんかありゃ、近所の人が取り込んでくれたりしてね。おたがいの家がくっつき合って垣根なんてものがないから、そんなことはあたりまえだったよ。鍵なんかもかけてねえから、人の家も自分の家のように上がって、乾してあった洗濯物を親切に取りこんでくれるという寸法だよ。
 祭りが始まるっていと、山車を引いて御菓子をもらう子供たちが、この狭い路地裏にあふれかえっていたな。どこからこんなたくさんの子供が集まったかと思うほどよ。遠くの町筋からオカミさんが子供に御菓子を貰わせたくって連れてきたんだろうけどよ。幾らなんでもこの町にこんなたくさんの子供はいないはずだったぜ。まあいいってもんよ。なんせお祭りだもんな。
 あれもある夜が、だいぶ更けた頃のことだったかな。
「もう来てやらねえからな」と言いざま、この路地に飛び出す夫婦者の若い男女がいた。どうやら実家に来て親父と喧嘩をしたらしかったね。どうも堅気の家族といった風情ではなかったよ。
 この兄さんと花火などしてもらっていた近所の男の子が、どうしたはずみか、兄さんの勘に触って水をぶっかけられたらしかった。ワーンと泣いて家に帰ると、すぐさま飛んで出てきたのがその子の母親だった。怒りの形相でこの母親が、水をかけたヤクザのお兄さんへ食ってかかったのさ。その凄まじいことったら、これが子を持つ雌虎かと驚いたもんだよ。この泣き虫の坊主がだよ、驚くなかれいまはこの台東区の区長さんにおなりなんぞとはまったくたまげたもんだぜ。
 あれも深更もそうとうな時刻だったな。このお兄さんが親父の家の戸を外から敲く音がしたぜ。
「ドン、ドン、ドン、よお! 開けてくれ!」
「お、お!」二階に寝ていたこれもヤクザの親分風の親父が蒲団から起きあがり、外の声に応じる声が聞こえた。出入りでもあって逃げてきたのかもしれねえや。堅気でなくても、親子の情っていうものは、なんだって強いものさね。ここの女将さんの立ち居振る舞いは、だれがみたって堅気の感じはしなかったが、どこか粋な風情がただよっていたぜ。もうそうとうな年をいっていたが、さぞかし若いときは小股の切れ上がったような、きっといい女だったのにちげいねいや。
 そういうと、氏子は腰に差していた長キセルをとりだし、それに煙草をつめてうまそうに吸い出した。その堂に入った手つきと姿は、まるで浮世絵の中から抜け出たような風情である。その穏やかな顔が、なにかを思いだしたようで、例の威勢のいい口調でまた話しだした。
 そうだ。この町に一軒あった鰻屋の話しをちょっとしようか。
「いらっしゃいませ」
 そういつも低い、静かな声で、鰻屋のオカミさんはお客さんに軽く頭をさげる。その店へ座るとどういう加減か、誰でも落ち着いた気持ちになれたんだ。
「お銚子、熱燗でね」
 店はまさに九尺二間の間取りしかなかった。奥に狭い座敷があり、まんなかに座卓が占めていた。その座卓に接するようにテレビがあった。そのテレビの上にこの町の祭りがあると、その前列を提灯をさげて歩く手古舞の人形がのっていたんだ。むかしは柳橋の芸者がそれをやっていたんだが、あの河岸の料亭は無粋な堤防のため、隅田川を眺める景観がよくなくって、いまは数軒があるかなしかっていうところさ。その代わり地元の町の女の子がそれに代わたって按配よ。鰻屋の娘の手古舞の格好がなんともいえず可憐だったね。鰻屋の一人娘は鳥越でも指折りの美人だったからさ。町中を練り歩くその手古舞の姿に、その人形はそっくりだったんだからあたりめえよ。土間に二つテーブルがあったね。そのテーブルに座って、夕方のニュースを見ながら飲むその熱燗の酒の美味えこと。鰻を主人が炭で焼く姿がちらちらとみえたぜ。綺麗に洗いざらした白い上っ張りを着てよ。どこかからだを患ってたっていうから身体が続かなかったのからかもしれねェ。惜しいことに、とうとう店を畳んでしまった。会館通りにはあの鰻屋が町筋の一点の風物詩になっていたんだ。
 ところであの手古舞の人形はどうなったんだろう。あの愛くるしい人形が、祭りが近づくと夕暮れの町の路地裏を歩く姿を見かけたという人がいたが、それを聞いて誰も怪訝な顔ひとつしないのが、またこの町の風情っていうものかも知れない。
「へえー、そうかい」で、それ以上野暮なことは誰も言わないのがこの町の人情っていうものだったんだ。色即是空。空即是色っていうの、あれはばかに短いお経だが、そんなお経の一節がこの下町にはあったのかも知れネェなあー。どんな町や村にも神さまがいてくださるっていうじゃネィかい。電信柱がマンホールの蓋と一緒に歩きだしたって、別に驚くことなんかありゃしないのさ、と言うと老人は座布団を寄せて座りなおした。いよいよ、どうやら本題へ入ろうという気配である。

 さて、この町の一丁目の角っこに、これまた松造って男がいた。奥さんはだいぶ前から目を患ってほとんど見えなかった。繊維問屋のブローカーみたいなことをしていた松造は、よく店まえの縁台で新聞を読んでいたっけ。酒の飲み過ぎで顔が朝から赤黒く、声が野太いのなんのって、この親父さんが話す声は遠くからだって聞こえたぜ。番犬みたいによく眼鏡の下からちらちらと鋭い眼光を放っていたが、まあよく近所の世話をみてくれた親切な人だったんだよ。縁台にいないと思えば、車の椅子を倒して晩年はぐーぐーと鼾をかいて寝ていたっけ。目の不自由なオカミさんの面倒を看ながら、段々と年をとっていったけど、奥さんを残してあの世へいってしまったんだ。子供はいたらしいけど、小さいときに亡くしたらしい。だから小さい子供は、他人の子供とは思えなかったんだろうよ。祭りが近づくと、鳥越会館で町内の飲み会が度々あるんだけどね。土産に貰った弁当を、酔眼朦朧とした真っ赤な顔で、子供のいる家の玄関に、どすの利いた大声で、
「これ貰い物だけど、小父さん食べないから」
って、よく置いていってくれたね。目の不自由なオカミさんは、松松造が亡くなると、その後近所の厄介になっていたようだけど、後を追うように亡くなちまった。ナミアミダブツさ。
 それでだよ。あれは二丁目だった、割腹がよく人の好さそうな靴屋の親父がいた。あるとき、この家の仕事場に一本の電話がかかってきたってんだ。注文の靴では名の知れた靴職人だったからね。
「玉三郎と言います」と相手の妙に折り目ただしい声で名乗られた親父はギョっとしたというぜ。
「お、お玉がなんだって?」と主人がオウム返しに聞き直した。
「板東玉三郎という者ですが」
 相手はまた平然とそう言って、乗馬靴の注文をしたいとのいうことなんだ。それを小耳にはさんだオカミさんが、濡れた手を拭きふき押し殺した声で旦那に囁いたよ。
「おまえさん。あの玉三郎さんじゃないのかい、歌舞伎であの有名なさ、板東って言ってるんだろう、じゃあの玉三郎しかいないよ」と、そのオカミさんのこれまた、油が乗りすぎたくらいの早口でその上甲高い声だから、どうやら電話をかけてきた主に、聞こえたらしかった。
「オ、ホホホー、ええ、私、歌舞伎の板東玉三郎と申します」と電話の向こうで面白そうに、笑う声がしたってよ。
「お玉」だなんか言ってしまったが、穴でもあったら入りたいって親父さん、さかんにぼやいていたってさ。
 さてところで、この靴屋のちょっと斜前に空き地があったんだ。そこにそうでかくもないマンションがお立った。なんでもあるとき、そのマンションで一人の若いインド人の女性が殺されたんだってさ、噂によるとその若い女性は、小さい宝石を小箱に鏤めたような、なんとも言えない美しい女性だったとのことだったね。それがおまえさん、酷げいことにまた、普通の殺し方じゃないというぜ。細い首を絞められた挙げ句の果て、鋭利な日本刀のような刃物で急所をブスリと一突きされていたんだってさ。近所の人の話しでは、そのマンションができると、夜陰にまぎれて、どこからともなく見しらねェ男たちが、花芯に群れる蜂みていに、出入りしていたということなんだが、どうも日本人はあまり見かけずに、どこの国籍の者とも知れねえ者たちがたくさん見えていたらしいんだがね。
 その事件以来、警官が近くの靴屋に立ち寄っては、事情を聞かれたっていうことなんだ。根っから好奇心の強い靴屋は、もう仕事なんかそっちのけにしてしまって、警察と一緒になってその事件に首を突っ込んじまった。名探偵そこのけのはたらきをしようてんで、もう夢中になっちまったらしい。なんだってこの町の名前は、有名な作家の時代小説にちょいちょい顔をだすので、主人はその全巻を読んでいる愛読者だった。それでまるで長谷川平蔵、またの名を鬼平にでもなった気になっちまったのも、無理もないことだったね。
 元来が狭い町、都心にありながらその都心のエアポケットのような安閑とした静かな町だったんだぜ。夜もすこしふかまってくるっていと、どこかの路地の小体な家のなかから、三味線をさらう音なんかが聞こえてくる、とても乙な気分にさせてくれたんだ。この鳥越というところはさ。
 それがあのバブルの全盛の頃に、蔵前通りに面した辺りじゃ、地上げ屋が入り込んで、一坪が目が飛び出るような高値で売れたというじゃないか。なんだって、猫の額のような所に建ったあばら屋同然の家が、町の奥に立派な家を立ててもらったうえに、数千万円のお金を手にしたなんて話しも舞い込んだってんだ。まだ江戸の残り香がちとはあった、平穏で静かな町がさ、浮き足だった住人のせいで、なにかそぞろ騒がしい町になりだしたのもあの頃からだったような気がするよ。それまでは、職人が九尺二軒の長屋で、自営で働く機械の音がまるで田舎の水車の音みていに、コットン、コットンと響き聞こえる小さな町がさ、どうも落ち着きを失ったような気がしたぜ。帽子屋が、毎日、朝からミシンを縫ったり、紙屋が紙を裁断する機械の音がするぐらいだったんだ、ほんとにさ。そこに数千万円の札びらをきる音が、混じりだしたからいけねえやな。手に職をつけた小さい地味な商いで、宵越しの金はもたねえっていう江戸っ子の住む町が、変わりはじめたのがあの頃からだよ。宝石商が群がる御徒町のジェリー街に近いという地理的な理由ももちろんあっただろうさ。そこからスリランカかインド人かは知らないが、マッチ箱を縦にして軒を並べたこの変哲もない町の、「福寿湯」が焼失した後にお立った、見上げるようなマンションに、そんな外人さんがたくさん移り住んで来なすったんだな。夕暮れになると、こうした小さな町には不釣り合いなどでかい建物の中から、顔色のくろい外人さんが、螢のように目だけ光らせ、街角に集まってなにやら分からないことばで、議論しているのかなんだか、ちょっとそばによれそうもなかったっていうぜ。
 ともあれ、夫婦喧嘩は絶えなくても、殺人事件がこの町に起こったなんて、話しはそれまではなかったことさね。殺されたインド人の女もおそらくは宝石関係かなんかの仲間にちげえねえと、靴屋の親父が靴をおっぽりだして、お巡りさんの聞き込み捜査のように動き出したというんだ。一丁目の角っこのとうに死んだはずの松造さんも、どうした加減でこの世に現れたのかそれは知らねいがね、鋭い情報通の勘でこの事件を聞き及んだって按配で、靴屋に肩入れしないはずはなかったね。二人の捜査かつどうは、この町の中で秘かに動きだしたという按配だぜ。
 二人は町に二軒ある路地裏の酒場と一軒の寿司屋で、さっそくに情報収集とやらを始めたんだ。なにそれは名ばかりで、酒好きな二人のことだよ。殺人事件を肴に、松造さんが行っていたあの世の話しをまぜっこに、酒を飲む時間のほうが長かったっていうんだがね。
 この酒場のひとつに「ギン」ていう名の酒場があったね。なに客が五、六人も入れば満杯のそれは小さな店だった。そこに最近見慣れぬ男が通うようになったっていう話しを、この店の女主人から聞いた二人は顔を見合わした。だがその男の素性が一向にわからない。
「ギン」の蓉子さんて名の女主人のはなしでは、どっかの広告代理店に勤めていたらしいが、社長と喧嘩してぶらぶらしているらしいってよ。
「あっ、そうだ。その男があたいにくれた本が一冊あったよ」
 思い出したように、「ギン」のマダムは、そいつを棚の上からカウンターへおいた。血がまみれたような、変に赤い表紙だったね。
 題名はというと「わが愛と罪」とあった。松造はそれをジッとみつめながら、なにかあの世の光景を思い出したらしく、
「こいつは臭せえ!」と呟いた。
「どうしてだ?」靴屋が問い返した。
「考えてもみろや。『愛と罪』なんて名の本がここにあるんだ。こいつをマダムへ贈った男が犯人に一番近いところにいるにちげへねえだろうや」
 松造は遠くあの世のさばきの景色を思い浮かべたようにそう言ったぜ。度はずれた愛ほど罪深いものはないと、あの世ではみんな知らねいものなどいねェっていうんだ。それに、どだい素性の知れネエ奴はこの町の者じゃない、こいつの容疑がまずいちばん濃いという寸法だよ。なんだか、目がぎょろりとして、飲んでいても落ち着きがなく、ビールを二、三本飲み、焼き鳥を数本食べると、すぐ帰っていくというらしいんだ。いつも仕事がない、金がないとぼやきながら、飲んでいるあいだに度々、トイレに駆け込む、変な癖があるともいうんだよ。
「其奴は臭せえな!」なんてへんてこなシャレをのめしてさ。
 靴屋は大きな太鼓腹を叩いて、即、うなずいたね。なにしろ江戸っ子は呑み込みが早いというか、早とちりをしやすいというか、どうにも始末におえない奴らが多いものだよ。
 それから数日後、もう一軒の酒場「げんじ」ていう、これもこぜまい飲み屋に、時々、変に長く黒い袋を肩に担いでくる客がいるというんだ。その酒場の常連さんに大工の頭領の勘二さんがいると聞くと、松造は早速その棟梁の家にやってきたんだ。
 夜もおそくに玄関の扉をそっと開いた。
「ヒィエー!」
 と松造さんの顔をみたとたんに、大工のオカミさんが腰をぬかすように驚いたぜ。あまり親しい間柄ではないけれど、松造さんが酒に酔って階段を踏み外して亡くなったということは知らないはずはなかったんだ。
「あんたあの松造さんでしょ?」
「そうだよ。だからどうだといいなさる」
 と、ぐっとオカミさんの顔を下から睨むような顔をした。その顔がまた化けて出た雄猫のように恐ろしかったてね。
「だって・・・」とオカミさんは、怖々と松造さんの足下をみた。
「やい、イヤなフシン者扱いでおれをみるな。死んだって生きているように振る舞うところが、この鳥越って町なんだぜ、ここには鳥越大明神のお偉い神様がお住まいになっていてくださっているんだ。そもそも、景行天皇の御時にか、日本武尊が・・・・。まあそんなことより、ご主人はいるのかね?」
「それがまだ帰ってこないんですよ。またどこかの酒場に潜ってでもいるにちがいないわ」
 オカミさんは、松造にヒステリーで噛みつきそうな形相になってそう言った。
「なに酒場に潜っているって? ないだい、その酒場の潜りっていうのは?」
「趣味なのよ。酒を飲みながら、釣りや海に潜って散歩する趣味があってね。その話しが面白いんだってね」
「どうもぴんとこないぜ。大工が屋根に登るんじゃなく、海に潜るなんて、天と地が逆さまになったような話しはあまり聞いたことがないんでね」
「どうもこうもないのよ。好きなんだから。好きになったらもう、棘のあるウニだって、波がさかまく海だって、パクりと口に入れ頭から飛び込むというんだからね」
「大工さんがねェー。まあいいや、あとでおれんちへくるようにって、言ってくんねえかい」
 と後手で扉を締めて出て行ったってよ。
「おれんちと言ったって、もうあの家には誰もいないはずだけど・・・妙なのはどっちなのよ」
 オカミさんはどうも腑に落ちない顔をうかべてたな。
 真夜中に酔っぱらって帰ってきた大工の棟梁は、それを聞いても、
「そうかい」と言ったきり、風呂も入らないで寝ちまいやがったてんだ。
 それから二日後、靴屋へ刑事が二人訪れた。靴屋の親父はそれを待っていたように、仕事の手を休めて立ち上がった。
「旦那、なにかわかりやしたかい?」
 と、手を汚いタオルで拭きながら、靴屋は渋顔の刑事さの一人へ馴れ親しい口調で話しかけたんだ。靴屋の親父は松造と二人で掴んだ話しをいつ切りだそうかと喉まで出かけていたが黙っていた。が妙にそわそわ落ち着かない靴屋の様子に刑事さんは、一目みて訝しんだらしいや。早速なにかを探りだそうとして訊いたってよ。
「おまえさんは、なにか嬉しいことでもあったのかい?」
 口をへの字に曲げた刑事が、ジロリと親父の顔を不審そうにのぞきこんだ。
「ウン、まあ、ちょっとね」
 横で靴屋の様子をみていた別の刑事が、すかさず切り込んできた。
「現場は目と鼻の先なんだ。なにかおまえさんが気づいたことがあるんだろう。隠し立てするのはよくないよ」
 靴屋の親父は、その刑事の陰険な顔と口調が気に入らなかった。それで、同じように口をへの字に曲げて素っ気なく、
「別段、これと言ってなんてこともなかったですよ」
 と、普段から下町の人間は役人嫌いで、えばりくさった役人の顔などは、でかい油虫をでも見るようにしか見えないのが常のことさ。
「ところで、おまえさんはあの晩はどうしてたい?」
 また渋紙をまるめて延ばしたような刑事の一人がなにやら口調を改めて訊いた。それがまるで訊問でもされているように、親父には聞こえたっていうんだな。
「ねえ、刑事さん。家の人を犯人扱いでもしようってんですかね!」
 背後で刑事とのやりとりを聞いていたオカミさんの、お茶碗でも落として割ったような、突然、小犬が吠えだしたような金きり声が辺りに響きわったった。
「あたいと二人で寝ていたよ。それがどうしたっていうのさ」
 刑事さんはそのオカミさんの気勢にちょっと息をのんだが、そこはその道のプロだったね。
「その晩になにか、不審な物音でも、人の悲鳴でもいいんだが、なにか変わった音のようなものは、べつだん聞こえなかったのかい?」
「こちらは二人で寝ていたんだよ。いちいちそんなものを聞いてる暇なんぞ、あると思うのかい」
 その時、ニッと笑ったオカミさんの顔が、その刑事さんを小馬鹿にしている風情があったってよ。靴屋の親父も、さすがに恥ずかしそうな顔つきになったそうだよ。
 それから数日が経った頃だったね。
「えらい迷惑な男もいたもんだ」
 松造はいつも行く寿司屋の奥から、そんな声を小耳にはさんだ。よく聞いていると、どうもこの町内のことであるらしい。
「最初は路地裏で木刀を振り回していたんだがな、それが段々高じてきてだな。今では日本刀を振り回しているようになったていうぜ」
「それは危ないな」
 寿司をひとつ丸飲みにして、松造はその話しに割って入ったんだ。「それは何処の何て奴なんだい?」
 松造はその男が自分のすぐ近所にいることに吃驚した。オカミさんとまだ幼いその娘二人とは親しかった。がその旦那っていう男とはまあ挨拶ぐらいの話しは交わしたことがあるが、どうもとっつきが悪いというか、肌があわないというかで、あまり親しくつき合ったことがないっていうんだ。どうも下町に育った人間ではないことはすぐに察しがついた。狭い家に住みながら自分の書斎用の部屋を陣取って、暇さえあれば本に囓りついているらしいんだが、このところどういう風の吹き回しか知れネェが、えらく剣に凝っているっていう話しだぜ。何流だか知らないが、居合をやっているらしいてんだがね。
「どうも役人さんらしいていうぜ」客がつけたした。
 ああ、やはりあの旦那かと松造はいまさっきあの世から帰った人のように、次第に話題の主人の顔が眼前にうかびだしたんだ。オカミさんの親父さんとは仕事はちがうが、むかしから鳥越会館でよく顔を合わしたことがある。あの可愛い子供とオカミさん、それに知らなくもないあの善三のお婿さんを、この事件と結びつける気がしなかったんだな。
「そうか、あの旦那か」
 せっかくいい情報を耳にしたと思った松造はちとガッカリとした。松造さんにしても、この町の住人に犯人がいるとは思えなかったんだね。あの旦那のオカミさんは松造があの世へいくと、残った目の不自由な女房へ夕食の世話からいろいろの面倒をみてくれたっていうんじゃないか。その旦那が犯人だなんて思いたくもなかったんだな。だが、日本刀ということばが耳から離れないらしかったらしんだよ。あの可愛い娘を持っている旦那が日本刀で人を殺めるなんてことは、想像もつかないことだったのさ。そのとき、松造の目の中にギラリと光る寿司屋の握っている包丁が、松造には嫌に特別なものに映ったらしいやね。
 一方、靴屋の親父は、刑事さんとの一件があってから、すこし犯人捜しに水をかけられたような按配だったというぜ。警察というところは誰でもドロボー扱いをしやがる嫌なところなんだと、身に沁みたってよ。せっかく、鬼平気取りでいたところに、頭をゴツンと叩かれたような心持ちになっちまったんだな。
 そんなある日、オカミさんがこんなことを言い出した。
「おまえさん、死んだ松造さんがあの世から帰ってきたって、大工の勘二のオカミさんが言っていたよ。おまえさんはその松造さんとなにかやらかしてるっていうけど、それはほんとかい?」
 すこし低い声音で女房が話しだすと、ろくなことはないとこれまでの経験で親父さんは内心ギクッとしたね。また、自分の秘かな捜査かつどうの首根っこを押さえられたときちゃ、面白くなかったぜ。こういうことは、あまり町内に知られねえでこっそりやろうと、松造と打ち合わせていた矢先だったんだ。女ってやろうは、なんでこう台所の流しのように、話しがすぐに外へ瞬く間に流れだすのが早いものだろうと、驚いたがそれは顔には出さずに舌打ちをしたもんだ。
「おれは松造とは生前からの飲み友達よ。それがこのあいだのお盆の頃だっけかにちょっと帰ってきたんでね、あの世のことでも聞いてみたいと、一度だけ一緒に酒を呑んだだけのことさね」
 これは親父にしてみりゃうまい返事をしたものだったぜ。
「お盆に帰ってきたからって、一緒に酒を呑んだって!」
 女房の声が突然一オクターブ位上がったってね。
「あれは帰ってこいと形ばかりに焚く迎え火なんだよ。そういう人たちといちいち呑んで歩いていちゃ、おまえさんだってあの世へ連れていかれしまうかも知れないじゃないかい!」
 ここで仕事場の出来上がったばかりの新ぴんの靴の上に、オカミさんは大きな尻を下ろして、大泣きをしだしたんだ。女の涙は愚痴が終わる合図というものさ。新品の靴がちと濡らされたが、親父さんはほっとしたよ。
「わかった、わかったよ。もう松造とは逢わないことにした」
 そう女房に約束したってさ。なにも逢わなくたって、このご時世だよ。携帯電話で、イツデモ、ドコデモ、話しができないってわけではないんだ。それからというもの、二人の連絡は携帯になったという按配さ。
「モシモシ、松造だけど」
 腹の底からしぼりだすような野太い声が、早速、靴屋の携帯へお出ましなすった。
「いまな、おギンのところにいるんだけどよ」
「ハイハイ、了解、了解」
「警察じゃないんだ、了解はいいんだよ。で、どうだい?」
「それがね。都合悪くなっちゃってよ。母ちゃんが・・・」
「なんだって、母ちゃんが、どうしたの?」
「母ちゃん・・・、じゃねいや、いま急ぎの仕事が入いちゃってるの。玉三郎という偉い人のな。悪いねえー」
「なにお玉だと。まあいいや、よしわかった。当面はおれひとりでやるからな、おまえさんは商売が大事だ、おれはとても暇なんだけどよ」
 そのとき、カウンターの中に座り込んでいたマダムの声がした。「ねえ、大きい声で携帯で話さないでちょうだいよ。あたしはテレビで鬼平犯科帳を見てるんだよ。肝心の科白が聞こえないじゃないかい!」
 マダムの蓉子さんが、あまりにでかい声で話す松造にそう言った。ここのマダムも「鬼平犯科帳」が大好きときていたんだ。テレビでこれが始まると、お客がいようとお構いなしで、テレビにかじりついたようになっちまうんだな。
「チェ!、商売そっちのけでいいご身分だせ」
 口の中で呟いただけなのに、
「ナニよー。偶に来て狭い店で携帯を相手に大声をだしたりして、ぎょろ目のお兄さんと同じだわね」
「おっと、そのぎょろ目だけど、最近くるのかい」
「昨日きたよ。相変わらずビール飲むと、トイレに駆け込んでさ。ビールを飲みにきているのか、トイレをそいつを流しにきているのかわからないね、でも昨日は女らしいのから携帯がかかってきてすぐに慌てて帰っていったけどね」
「ええ! 女だと、どこの女だい?」
「そんなことあたいに訊いたって、わかるはずないだろう。あたいはお客のスパイをやってんじゃないんだから。あーあ、終わっちまっったよ。なにがどうしたか分かりゃしない」
 マダムはテレビの電源を落として、松造のほうへ顔を戻した。このマダムの出身は秋田県だから、肌が白く若い頃は土地の親分に惚れられて、単身家を飛び出した。それからその親分と山形で暮らしていた頃が、生涯でいちばん幸せな時代だったらしいんだな。一時は角館でいい暮らしをしていたが、どういうわけかいまは、ひとりで飲み屋なんかをやっている身の上なんだ。蓉子という名は、芙蓉の花が好きだった父がつけたと幾度も聞いたことがあった。実家は捨てたようなものだったけど、父だけは好きだったらしいな。松造がマダムからどうやら聞きだした話しでは、ぎょろ目の男は東京の立派な大学を卒業すると、今度はインドのニューデリー大学に留学したことがあったという。そこでインド人の女性に惚れて学業を放棄し、その女を連れて日本に帰ってきたということなんだ。
「えっ! インドの女だと、それでいまどこに二人は住んでいるんだい?」
「この近くじゃないのかい、詳しくは知らないよ」
 松造の追求をかわすように、マダムは急に素っ気ない返事をした。
 もうじきに梅雨がちかいせいか、小雨がふったらしく道が濡れている。家が並んだ軒の下に、万年青が所狭しとならんでいるのがこの町の風情で、庭なんかないから表の玄関口にそれらをならべていたんだよ。小首を曲げた黄水仙の花弁が雨に濡れて、金色に光っている。松造はふとあの世にいるオカミさんを思い出した。早くこの事件にかたをつけて、戻ってやろうとちとほろりとなったが、そうはなかなか問屋がおろしてくれなかったね。
 この町にいい花をつける桜の樹が一本あった。日が暮れだして飲み屋の提灯に灯が点る頃合いだ。
 松造がその桜の樹の下で、のんびりと煙草を吸っているていと、
松造の名を呼ぶ声がした。あとを振り返ると勘二の棟梁だったぜ。 もう酒でも飲んだのか、ほんのりと顔を朱に染めていた。
「このあいだは、留守をしてすまなかったな。なにか用事でもあったのかい」
 松造はあたりを伺うと、棟梁の側に近づき、声を落として、
「ちょっと小耳に挟んだんだがよ。げんじの酒場に日本刀らしきものをいれた長い袋をもった客を、おまえさん知っているかい?」
「二、三回お目にかかってことはあるがね。黙って飲んでいるんで口を利いたことはないが。げんじの主人の話しだと、その袋の中身は釣り竿だということだよ」
「なんだ釣り竿だって」
「あそこの主人は口が堅いんで、他の客のことはほとんど話してくれることはないんだよ。こっちの話しによっては耳よりの話してくれるんだがね」と棟梁は小指をコチョコチョ曲げてみせた。
「ところで、この世で一人じゃ淋しくないかい?」大工は松造の目を覗くと、不憫そうにそう言った。
「変なこと、言うのはやめっこだよ。腕のいいおまえさんだがね。いまはそうして元気にしているがな。そのうちあまり酒となにが過ぎると・・・」
 と先夜のオカミさんの顔を思いながら、松造は棟梁の顔をじっとみつめた。
「よせやい、おまえさんにそうみつめられると、気味がわるいや。釣りといや、このあいだある島で釣りをしていて、面白い奴を釣ったぜ」と大工はにこにこと、銀歯をみせて笑いやがった。
「それは面白そうだ。でなにを釣ったんだ?」
「人間だよ」
「ちぇ、ていのいいこというよ。どうせこれだろう」
 こんどは、松造が太い小指を鼻につけて、勘二の目をのぞいた。
「女にはちがいなかったな」棟梁は思い出しては、クックと鶏が首を絞められたような忍び笑いをした。
「おい、おれは忙しい身なんだよ。早いとこ言えよ」
「なに、女のダイバーでな、わりと大きな釣り針だったんで、女の小股にぐいと引っかかったんだな。やっこさんも慌てたぜ。こちらはこちらで竿をもってかれるほどのでかいやつだと、もう必死の態だったよ。やがてはずそうとしてはずれないとあきらめたのかダイバーは、沖で浮きあがったていうことよ」
「それを竿でひいてきてタモで掬って、食べちまったのかい?」
 松造は怖い顔をして、棟梁の冗談のような話しに乗ってきたよ。
「なに陸に上げてみりゃ、アンコウのように口のでかい年増女だったんだよ」
「ちぇ、バカバカしいやい。おまえのほんとのような、嘘八百の戯れ言みたいな噺にや、つきあってられないやね」
「だが松造さんよ、ちょっと聞いてくんねいかい。海の中にや魚や女だけじゃないんだぜ。ちょっと思い出しても、身の毛がよだつようなものがいるのよ」
 松造は、神妙な顔つきになった勘二を一瞥すると、身を乗り出した。大工が海に空気タンクを担いで潜っているていうおかしな趣味があることは、オカミさんから聞いたが、飛行機である遠い島へ行って潜っていると、深い海の底から大勢の人が呻くような、自分を呼ぶような奇妙な声が聞こえてきたっていうんだ。そして、変な気配がするていと、なにやら暗い海のなかへとぐんぐんと足が引っ張られるていくような、恐ろしい目にあったらしいんだな。
 大工の話だと、玉砕した旧日本軍の遺骨が誰一人弔われずにいる、そんな島が南太平洋にはいまもたくさんあって、そんな海に潜るとなにか怖い体験をする日本人が時々いるらしいと、現地人は話しているっていうことなんだけどよ。
「そんなことがあってから、おれは海のほうはもうご無沙汰なんだ」
 勘二はなんだか淋しそうな顔をうかべて、遠くの空を眺めた。
 宵闇の光りが桜の花びらを透かして、そんな大工のなんだか青白そうな顔を照らし、松造はあの世の片隅で成仏もできなくさまよっている、陰鬱な顔の兵士の一群をみたような気がしないでもなかったが、それを思いうかべるのが億劫な気がしたものだから、
「棟梁、もういいぜ。そんな遠いところの海の中のことじゃなくて、この町のマンションで殺人事件があったの、おまえさん知っていなさるかな?」
「知っているもいないも、あの建物の内装工事はひょんなことからおれんちに回ってきてな、それでちと手伝いをやらしてもらったんだがね」
 棟梁の溜息まじりの酒臭い息が、松造の鼻先を掠めていったが、
「あの仕事は普通の内装とは違う、えらい骨折りをしたものだぜ、草臥れ儲けっていうのはああいうことだな・・・」と、大工はそこで口を濁らせると、ふと用事を思い出したというように、ぷいと松造に背をむけて、早足で路地へ逃げるように姿を消しちまった。
「チェ! 大工にしては気が多い男だよ。だが、あのマンションの内装工事をしていたとは、これは初耳だぜ」
 と、松造はつぶやくと、大工が消えた路地へ二、三歩足を踏み出そうとして、ふたたび踵を廻らして、また桜の樹の下を歩きだした。
その松造の目の前に、はらはらと散って額を掠め目の前に落ちてきたひとひらの桜の花弁に驚いた格好で、足をげんじの酒場へ向けたってのさ。
 松造はその狭っくるしいげんじの酒場があまり好きではなかったんだ。大柄で腹の突き出した松造は、椅子に腰をおろしただけで、身動きがならないのである。奥のテーブルに中年のアベックが睦まじそうに、酒を酌み交わしている。ひそひそ話をしているらしいが、狭い店の中では男女のその会話は時々聞こえてきたらしい。だが松造には男と女の話しには、もうなんの関心もなかったんだ。
 げんじという酒場のマスターはまだ若かった。ぼうようとして、顔のまん中の鼻が妙にばかでかくみえた。
「旦那、靴屋の親父さんはどうかしたんですかい。このあいだ来たときには、警察なんかにおれは協力してやんないなんて、ばかに息巻いてましたがね」
 松造は狭っ苦しい場所から、早く逃げだしたい気持だった。マスターの大きな鼻面も見ていたくなかったんだ。
「マスターよ。釣り竿を入れた黒い袋を担いだ男が最近店に来てるって、靴屋に聞いたんだけどね」
 と、眼鏡の奥から泥んこのような色をした目を剥いて、マスターを睨んだっていうよ。
「ああ、あの旦那のことですか」
 げんじのマスターは、松造の目を避けるように、ひょいと後ろ向きになって、棚から皿を下ろした。それから松造と目を合わしたくないというように、狭いカウンターの中で熊みたいに、行ったり来たりしていたが、
「あれは釣り竿なんかではないようですよ」
 と、白状しやがったていうことだ。
「日本刀だろ・・・」松造はまた泥んこのような目を、マスターに
向けた。
「あの旦那はムネンムソウ流の先生だそうですよ」
「なに流だかそんなことはいいけどな、たしかに日本刀なんだな」
「なにね。あたしもそうじゃないかと、思っていたんですが、もう一人のお客さんから聞いたんですよ」
 マスターはつい口をすべらした。
「誰だいそのもう一人のお客さんっていうのは?」
 松造はもうしゃにむになって、マスターを追いつめた。赤い顔がだんだん青黒く沈んで、なんだか気味の悪い妖怪じみた松造には、どうも逆らう気がしなくなったマスターはぺらぺら喋ってしまったんだ。
「ぎょろ目をした、早口で早飲みで、トイレばかりいくちと変わった男ですよ」
 松造はそこまで聞くと、立ち上がった。でかい頭を後の壁の羽目板にぶつけた音がしたが、そのまま椅子を蹴飛ばすように、出ていってしまったってよ。勘定のことなど、両方とももうすっかり忘れてしまったようだってさ。
 早速、携帯を懐から出した松造はそこでふと立ち止まった。ある疑問が湧いたらしんだな。ぎょろ目がなぜ日本刀の男のことを知っているのかということだ。二人ともげんじの酒場の酔客なら、互いに親しくなることもあろうかと、松造はそう思ったが、この二人の関係が靴のなかにまぎれこんだ小石のように、詮索癖のある松造の気にかかった。
 そして数刻の後。
「もしもし、松造だが」
「誰よ。こんな夜遅くに」携帯に出たのは靴屋のオカミさんだった。
松造は電話を切ろうとしたがもう遅かった。
「あら、その大声は松造の旦那だね。やだよ。家の人はもう寝ちまっているんだよ」
「まだ八時だぜ」
「なんだって、家の人は寝るのが早いんでね。あんたみたいに暇じゃないだよ」
 そのまま携帯がきられてしまったんだ。松造はガックリと力が抜けるように感じた。こんどのことは、靴屋がおれを呼び出して、巻き込んだ話しだった。その靴屋の親父が八時だというのに、子供のように寝ていやがるんだ。重大な知らせを教えてやろうと思ったのに、これじゃおれの立場がねえじゃないかと、松造はあの世のオカミさんへこぼすように、盛んに独り言を言ってたってよ。
 その夜はちょうど満月で、その松造の姿は月に吠えている狼のようにみえたということだぜ。丁度その松造のそばを、夜泣き蕎麦屋が「ぷゎー、ぷゎー」となにか溜息が漏れたようなラッパの音色を響かせて、通りすぎた。松造は急に腹がくちくなった気がした。
「おい、蕎麦屋、かけそばをいっぱいくんな」
「へい」蕎麦屋の威勢のいい声がした。
「この時代に屋台の蕎麦屋で、こんな人気のない夜に町ん中を回るなんて、めずらしいねえ。まるで時代が後戻りしているようだな」
「いや、いぜんは車でしたんですがね。ガソリン代がばかにならないもので、車はやめっこにしたんですよ」
 松造が一息に蕎麦を啜るように、蕎麦屋もスラスラとそれに答えた。
「道理で、おまえさんのラッパの音には、びんぼうだ、びんぼうだ、っていうような、哀しいそうな響がしていたがなァ・・・」と松造は、蕎麦を啜りながらぶつぶつと、こころのなかでつぶやいた。が、若い蕎麦屋の兄ちゃんは、もちろんそん松造の独り言なんぞに耳を傾けているはずはなかったよ。
 そのとき、松造の反対側の道を、影のように男がひとり通り過ぎた。顎をひき、草履を穿いた足を路上を摺るように、腰をすこし落とし気味にして、上下動もなく歩く足がばかに速かった。右手に長いものを下げている。
「蕎麦屋、あれは誰だい?」
「お侍さんでしょうか」
「ばか言え、この時代に侍がいるか」
 と見る間に遠ざかるその影を、松造は追おうとしたが、
「お勘定を」
 と言われて松造はビックリした。このあいだから店に入ったが、
お勘定を要求されたことがなかったんだ。そういえば、金を払うということを、もうすっかり忘れていたことに松造は気が付いたってさ。生前つけで飲んでいた店ばかりだから、松造に勘定を求めるところはなかったんだが、土台財布なんか持っていはしなかった。金は後で払うとその場をごまかし、松造は男のあとをつけた。どこかで見覚えのある風体だ。
 男は道をまっすぐに行くと、右に曲がった。やや広い通りに出た。
そこから町名は鳥越から別の町名に変わっている。しばらく歩くと今度は左に曲がった。その右手に公園があり、男はそこへ入っていったんだな。
 韓国人らしい男が二人烈しい口調で話していたが、男をみると急に黙った。二人はその男に尋常ならざるものを感じたようだ。
 男は二段に石が積まれ平坦な場所にすっくと立つと、静かに息を整えているようだった。がやにわに男の右手が左腰へ動くと、夜目にピカリと光るものが目を射た。と思うとそれが空中を一閃して逆袈裟に切り上げられ、また右肩から素早く袈裟に斬りに下ろされるとすでに腰の鞘に納まっていた。松造は物陰に隠れてその早業を見た。こんどは横一文字に鞘から抜刀すると真っ向に振りかぶって、中段に剣先がピタリと止まった。そこにキラリと月の光が映じた。足を数歩摺り足で動かすと、右手に持った刀を頭上に振り上げ、顎、水月、腹部へと、頭上から振り下ろされた刀は、そのたびに斬り手を返して、闇の芯をまるで豆腐でも切るように斬っていった。刀が一閃する毎に空気が斬り裂かれるヒューヒューとする背筋が寒くなるような音がした。こんどはすぐに右斜めにいる影が柄に手をかけた瞬間、機先を制してその手を伸びた柄を平手で打撃し、抜き出した柄で相手を押し倒すように水平に抜刀し左胸に当てた剣尖は、左後方の相手の水月めがけてそのまま猪突し、胸に刺さった剣を抜くと同時に左足を出して頭上に振りかぶられ、先刻小手を撃たれた相手の頭蓋に炸裂した。そのまま剣尖は背後の脇に隠れるように下ろされたが、三度頭上に振りかぶられた刀は、四人目の相手を真っ向から縦に切り裂くと、ゆっくりと左上段の火の構えから、大きく袈裟に血ぶりされた後、腰の鞘に納まった。これら一連の動作の一つひとつは、隅田川の水が流れるがごとく、静かに一寸も滞ることがなかったということだ。
 松造は公園の隅の蛍光灯の光が、その男の横顔を照らすのを見て、心臓が止まるほどに驚いたぜ。
「あっ! 旦那だ」
 まさしく、その男は松造が遊んでやっていた子供のいる近所の旦那にちがいなかった。オカミさんは年子の女の子の後、今度は男の子ができたっていう。その男の子を抱いて、自分の家に向かって路地をまっすぐに我が家を目指して歩いてくるオカミさんを、松造は昨日のようになぜかはっきりと憶えていた。男の子をしっかりと両手に抱き、晴れがましい顔の内に、これから年子の女の子とその赤ん坊の三人を育てなくてはならない重荷をまえにした母親の、その困惑と切ねえまでの愛情の決意が読みとれたというんだな。そんな母親の男まさりの心義も露知らず、しばらく母親のいない家で、旦那の作った不味いタマゴ焼きばかり食わされていた年子の娘二人は、赤ん坊を抱いて家に帰ってきたお母さんを見るていと、歓声を上げて駆けだしたんだ。あれは暑い夏が終わりかけた頃だったけかなァ。
 そのうち、遠くのほうで車が二台音もなく停まると、黒服の警官が七、八人が足音もなく、公園を取り囲んだ。なかには素股を手にしている者もいた。闇夜に「御用」の提灯こそ灯ってはいなかったが、その光景はまるで時代劇の捕り物の現場そのものだったというぜ。その黒い制服に身を固めた警官が、もぞもぞと動く輪がじりじり狭くなり、剣をもった男ににじりよったんだ。
 その気配を察知したかのように、男の頭上を一閃した剣は、素早く臍の奥に呑まれたかのように、男の鞘に納められた。それを待っていたかのように、黒い輪は男へめがけてどっと駆け寄った。一言、二言、男と警官のあいだでことばがかわされたが、やがて男は両脇に二人の警官に付き添われ、車に乗せられて闇の中に消えたということだぜ。
 そうした一連の光景を秘かに目撃すると、松造は内心穏やかでいることができなかったった。すぐにでもあのオカミさんに知らせてやろうと思ったが、もう夜もだいぶ遅くオカミさんはちと心臓が弱かったのを松造は思い出して二の足を踏んだ。やだねー。お役人がお役人に引っ張られていっちまたんだよ。いいオカミさんを持ちながら、なにか職場かなにかで、むしゃむしゃしたことがあったのかも知れネェやな。あれは映画の見過ぎだぜ。そんなような映画があっただろう。「靄が晴れて」って題だっけか、ご奉公先を探しているムネンムソウ流の侍がさ、なにもかも心得た可愛い女房へ、
「ちと山へ行ってくる」
 と抜かしやがると武張った顔をひきつらして、一人で林のなかで刀を抜いてやにさがっている場面があったけどよ。男って動物はどうしてあんなにご勝手にできているのかと、自分が男であることも忘れたように、松造は考えこんでしまったらしいぜ。
 ああ、前途多難になっちまったな。なんせこの御時世がいけねいやい。警察が犬のような目を光らしている最中じゃねいかい・・・。
 公園の桜の樹がもう五分咲きで、夜の空を白いもので飾っていた。
 その桜の樹の下で、松造は静かに携帯をとりだした。
「もしもし、靴屋さん」
「おう、松造さん、どうしたのよ」
 めずらしく、靴屋の声が聞こえた。
「いまどこにいるの?」
「お銀に決まっているだろう。おまえさんはどこをお化けみたいにほっつき歩いているんだよ。いいかげんして、こっちへこいよ」
「そうか、いま行くからな。待っていろ、大事な話があるんだ」
 松造は柄にもなく小さな声をだしてそう言ったってさ。
 お銀の店に入ると、マダムと靴屋は二人一緒になって、「鬼平犯科帳」のテレビを見ていた。どうりで表に店の中の客の声が聞こえなかったのは不思議でもなんでもなかったわけよ。店の女主人とお客がそろって「鬼平犯科帳」が好きなんじゃしょうがないぜ。
「もうちょっとで、これ終わるからな」
 テレビを指さして靴屋が言った。マダムは申し訳程度にひとこと
「いらっしゃいませ」
 と素っ気もない。こんな時間帯にどうしたのという態度だぜ。これでなかなかの文学通だということだったがね。ただし、時代小説にかぎってのことだぜ。
「中村吉衛門は渋くっていいねえ、人情があるしさ」
 どうも小説の主人公と役者をいっしょこたにしているんだな。
「それでどうしたの」
 小さな椅子から松造のお腹が、児を孕んだ婦人のように突き出ている。
「殺しの犯人・・・」
「なに見つかった?」
「そうじゃないよ。そいつに結びつく光景を見ちまったんだよ」
 松造は靴屋の耳に口を押しつけるようにして、先刻に見た公園での一部始終を語った。
「それがどうして、事件と結びつくんだよ」
 靴屋は最後まで聞き終わると、そう言った。
「殺されたのはインド人の女なんだぜ。夜の闇でも桜の花でもないんだ」
「そんなのはあたぼうよ。ただおれの勘がちょっくら動いたんだ」
「どう動いたんだよ」
「殺気だよ。殺気、いや、日本刀の・・・」
「それがどうして事件を解く鍵なんだよ」
 靴屋はイライラしてきていた。もういいかげんに、おまえのご託は聞きたくないという風情だ。やっぱり一度あの世にいった人間は
ズレてしまうらしいぜ。どうもピントが合ってねえな。レンズが見当ちがいなところを撮してやがらー。
「上野の桜はどうなの?」
 マダムがごそごそ話していう二人のあいだに割ってきた。
「もう半分散ったんじゃないか」
 松造が小うるさそうに、恐い表情を浮かべてそういった。
「ばかいえよ。どうそうして早く散らそうと、おまえはするんだい。自分が散ったからって・・・。いやな、マダムだってこれから咲くところなんだぜ。ねえ、蓉子さん」
 靴屋は言い過ぎたと思って、話しを変えた。
「あたしは桜じゃないの、父が芙蓉の花が好きだったのよ」
 また同じ話しの繰り返しだ。うんざりしたように、靴屋が有線放送で歌が聴きたいと、マダムに頼んだ。
「なにがいいの?」
 有線への電話をまわしながら、マダムが尋ねた。
「藤圭子の、命預けます」
「いやだわよ。そんな物騒な歌。あんた達、きっとだんこんの世代ね」
 松造がクックと笑った。「だんこんの世代」を、変に聞いたにちがいねえや。それに「団塊」っていう字を間違えて読んでいるんだ、あれでよく小説が読めるね。
「マダム、それってだんがいの世代とちがうかい」と松造がわざと混ぜっ返した。
「なんだい? そのだんがいっていうのは」
「断崖絶壁のだんがいだよ」
「おお! さすがあの世からきた御人はいいことをいうね」
 と靴屋が調子をあわせた。
「なんだっていいのよ。もうダサイのよ、あんた達は!」
「じゃ、おれは、ちあきなおみの、夢は夜開く」
「また、いやね。なんだか気味がわるくなるわ」
「あれは、藤圭子の歌だぜ。だいぶおまえボケて帰ってきたな。それに、ちあきなおみは、なあ、もうこの世にはいないらしいぜ」
「ばかいいなさるなって、おまえはすぐ同類にしたがるんだな」
「早くしてよ。なんだっていいんだから」
「じゃ、鳥越十三番地」
「そんなのないの。港町十三番地、お願いね!」
 マダムは美空ひばりが好きだった。「リンゴ追分」の歌を聴くと、秋田の田舎を思いだした。がほんとうに好きなのは、高倉健の映画の歌だ。特に、「緋牡丹博徒」の歌が特別に好きだった。
 あれを聴くと、角館で一緒に暮らしていた男を思い出すのだ。緋牡丹のような人生があそこで咲いた。・・・義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界・・・。マダムはこころの奥で唄っていた。
 そのとき、外で暖簾をわける音がし、ぎょろっとした目の男が入ってきた。靴屋と松造は一瞬、その男をみると慌てて目を逸らした。
「あら、いらっしゃい。ひさしぶりじゃない」
 マダムがすこしこぶしを利かすような声を出した。
 男は二人の座っているカウンターをさけ、トイレにちかいテーブルの椅子に座った。
「ビールに焼き鳥ね」
 割と甘い声である。暑くなってきたせいか、頭を丸坊主に刈ってある。最近、自分が社長になって会社を立ち上げたらしい。インド人や中国人の他、東南アジア系の外国人を安く使ってのビルの清掃事業らしいが詳しいことは分からない。顔は日に焼けたせいで真っ黒く、それで目ばかりが、ギョロギョロした印象を強めている。
「ちょっとインドへ行って昨日帰ってきた、あっちはばか暑くてもううんざりだ」
「あらまた、オカミさんのところね。そこでいいお土産を買いこんだんじゃないの・・・」
 そのとき、ぎょろ目は目を剥いて、マダムを怖い顔で睨んだ。
「冗談よ。あたいはインドのお土産なんかまるで興味がないんだから・・・・」
 マダムの声が消え入るかのように小さくなった。よほどぎょろ目の一瞥が恐ろしかったらしい。
「ちゃんとした仕事で行ったんですよ。マダム、おしぼり頂戴」
「あら、失礼しました。でも、良かったじゃない。学士さまに仕事ができてねえ。それで、その仕事は捗ったってわけね」
 マダムにしてはなにか藪の中に足を踏み込むような話しっぷりだったねェ。カウンターで聞き耳を立てている二人を意識してのことだったのか、それは二人の謎みたいな会話だったというぜ。ぎょろ目の応答はなかったが、立て続けにビールを二杯あおると、けわしい表情でトイレに立った。その後姿が扉のむこうに消えると、その隙に靴屋と松造は店を出た。満月の光が路地裏を鮮明に照らし、黒猫が一匹逃げるように、家と家の隙間に素早い動きをみせて隠れ、闇の中にしばらく金色の両目を光らして二人の動静を窺っていた。
 二人は夜道を肩を寄せ合って歩きだした。
「あのぎょろ目だけどよ。インドへ行ったと言っただろ」
「ああ、それは俺も聞いたけどな」
 そこで靴屋は眠気と酔いとで、大きな欠伸をしそうになったが、松造の真剣な顔をみてようやくそれをかみ殺し、
「それがどうしたの?」と、その後をつづけた。
「俺にはどうしても事件の背景に、あのぎょろ目がちらついてならないのさ。それに・・・」と言って、松造は辺りを窺い、
「日本刀の旦那とぎょろ目は知り合いの仲なんだよ」
「それがどうしたんだ。おれとおまえなんかは、あの世とこの世の幽明を境にしてるんだぜ」
「ええ、しゃらくさいことを抜かすなって。あのぎょろ目に、おれはなにかを感じるんだよ。どうもうまく言えねえがなァ」
 松造はじっとなにかを思案して、眉間に皺を寄せる風情で、蹌踉として歩きだした。
「そう、殺気というヤツかな」
 店から離れ路地へ出ると、松造がそうポツリとつぶやいた。
「あれが殺気かよ。おれは毒気のようなものを感じたがなあ。殺気といやおれはむしろ日本刀の旦那のほうが危ないじゃないかと思うがねェー、おれはあの旦那のどこか思いつめた横顔にただよう、なにか冷たい気配がよー、いつか鞘からぬけ出した日本刀のように閃く時がくるんじゃないか・・・」
 靴屋はまた松造の勝手に膨らませた妄想の繰り言が、牛の涎みたいに際限なくつづくのが嫌になって、へんにとぼけた口調で応じた。
「毒気ねェー。さすが、おまえは鬼の平蔵を気取るだけあって、たまにはいいことを言うもんだよ・・・」
 と松造は靴屋のことばを、胸の中でしきりと反芻しているようだった。
 ピー、ピーとくぐもったラーメン屋の吹く笛の音が、町の角から流れてきた。細い路地にびっしりと並んだ木造の家々からはふしぎになんの物音も聞こえてこない。あのバブルの景気もはじけて、ほんの一時だがむかしの鳥越の町に戻ったようだった。人っ子ひとり通らない「おかず横町」の提灯の灯りだけが、血を染めた赤絨毯を敷いたように路上に落ちていた。まるっきり人気のない神社の参道への路を、靴屋と松造の二人は黙々と歩きだした。もうこの町には地味な職人の素朴で平凡な生活だけがあって、耳目をそばだてるなんの猟奇的な事件もなかったかのように。
「松造さんよ。そんなに黙ってどこへ行く気なの」
 靴屋が不安そうに尋ねた。
「この道をまっすぐにいくんだよ。おかず横町を抜けて」
 もうすぐ先に、一丁目と二丁目の境を小流れのように通る七左衛門通りが見えていた。
「このまま行けばさ、松造さんよ、鳥越神社の裏手にぶつかっちまうぜ」
 靴屋はまるで吸い寄せられたように、神社へ向かって歩く松造の横顔をみた。そのお神楽のお面のように人の表情を凍えさせたような松造の横顔のなかに、飢餓に苛まれ、爆撃の嵐と銃弾の雨に立ち向かっていく兵士に似た、恐ろしい面影が浮かんだっていうんだ。
「松造さんよ。もう今夜はよそうぜ、明日にしよう、明日に」
 靴屋の真に迫ったぼやきも聞こえないのか、松造の腰から下はぼんやりと霞のようにただよいながらも、路上に響きわたる音はまさしく軍靴を曳きずる一団の兵士のそれを想わせたってよ。
 チラリと横目で靴屋をみたその松造の目のなかに、靴屋はなにか銃剣のように鋭く燦めくものをみたというんだ。
 二人は七左衛門通りの信号を渡った。同じ鳥越という町名でも、二丁目は一丁目とすこし違う町筋が窺われたものだったね。こちとらは商売の規模がすこしばかり大きくなるぶん、住む家並みも一丁目よりも広かったのは、幸いに戦災に焼けた後に復興した町だからだ。いわば「戦後」がこの二丁目にはあったんだなァ。「戦前」の面影を残したのが一丁目だとすれば、二丁目は経済的な復興を遂げた戦後の町だと言えなくもなかったんだョ。そのぶん、なんだか町並みはすっきりとして、ひと味違う町筋がひろがっているような気がしたもんだ。見ようによっては、そこには均一で無機質な佇まいの、相応に隣近所の隔たりがあって、それだけ細やかな人と人との交流を温める人情という味が薄い、そんな感じがしないことはないなんてェー言う、しゃらくせいことを言う奴もいたがよー。
 立派に整備されたお寺なんぞが広い駐車場つきに、隣り合わせに並んでいて、その先をすこし行くと蔵前の幅広の江戸通りにでるのさ。その右手の角に江戸の頃、渾天儀てもんで星空をみる天文台があり、ここから北斎絵師が「鳥越の不二」を「富獄百景」に描いているらしいってんだがネ。
 それはあなたのほうが詳しいだろうなと、めずらしく私の目を覗きこんだが、またすぐに話し好きな氏子は自分の話しにのめり込んでいった。私がその絵をみたときの印象はなんだか拍子抜けのしたもので、画面の前面には天文台の役人が数人、渾天儀が画面の真ん中を占め、その遠くの空に小さい富士が素っ気なくうかんでいる。どこにも、鳥越らしき町の風景は見えないのであった。が、氏子は覇気のない私の曖昧な様子などには頓着などしていないのはいうまでもなかった。
 靴屋の家はこの二丁目で、神社の裏筋にあたった。が、その自分の家を左手の路地に見ながら、一心に神社へと足を進める松造と別れ、帰ってしまいたい気分に駈られながらも、松造の摩訶不思議な勢いには逆らえないものを感じたところなんだってよ。
 殺人事件の現場は、靴屋の斜向かいのマンションだから、ちょうど神社の裏手にあったんだ。神社に近づくにつれて、道はちょっとばかり上がり坂になる。以前話したように、三味線堀を掘って隅田川からの荷揚げ場にしたときの土を、ここに盛り上げたせいなんだって。祭りになると、この近辺の路地は、数多の屋台の出店が張り出し、その店と店の狭い通りを、子供と大人が粋な浴衣なんぞでおめかしをしてさ、わんさとこの狭い路地に繰り出し、むんむんした熱気に包まれるんだよ。
 その上がり坂を松造は、なにか取り憑かれたように右手に鳥越の神社を仰ぎみながら脇目も振らずに登っていったてんだ。ちょいと石段を上がるていと、神社の脇にちいさな裏口があったね。その裏口の石段を突き出たお腹を抱えるようにして、松造は大きなゴム鞠が弾むように登ると、そのまま中へ入ろうとした。
「痛ッ! なんだってコンチクショウめ!」
 松造の呻き声がした。しこたま何かに頭をぶつけたようであったな。時は既に真夜中である。このあたりの暗いことは尋常でないのだ。松造は長年この入口は馴れているつもりでいたんだがね。そのときのあまりの声のでかいのに、後からついてきた靴屋は愕いたよ。
「どうした、松造さん!」
 しばらく痛みを堪えていた松造は、
「痛いじゃないか! 馬鹿ったれ!」
 と神社の渡り廊下に頭をぶつけたようで、その腹いせをまるで靴屋にぶつけるように、怒鳴ったっていうから、あの世から帰ってきたって、それほど人間が変わるものでもなしと、靴屋は所詮あの世の程度がわかったように、妙に安心をしたっていうぜ。
 神社の境内は、わずかな灯りがあったが、その闇はそのためによけいに化け物が出そうな、夜の凄まじい景色を深めて静まりかえっていたという。白鳥神社の白鳥さまも、この二人の様子を薄目で眺めて、クックと笑っていたか、それはわかりはしないけどね。誰がどう見たってこの真夜中に、神社の境内に訪れた男二人に呆れかえらない者はいないにちがいなかったさ。
 そのとき、社を蔽う大樹の木々が揺れて鳴り轟き、枝ゞの梢がまるで唐獅子の長い髪のように波打ち逆巻き、竜巻のごとき烈風が石畳をめくり上げるほどのつむじ風となって境内に湧き起った。凄まじいどよめきがしばし社殿を包むと、やがてぴたりと止んだその後は、深沈たる静寂が辺りのざわめきを一息にのみこんだかのように支配した。
「松造と靴屋の平蔵か」
 そのとき、境内の夜陰の静寂を切り裂くように、鋭く深い一声が響きわたったってんだ。するていと社前に、白袴の男の影が月光を受けて、石畳に顔を俯けて端座しているではないか。突然、名前を呼ばれた二人はこの白装束の男をみて仰天したってんだよ。
「だ! 誰だお前は!」
 さすが一度あの世とやらに行った松造が、神殿に額ずくように座した男へ誰何をした。おもむろに面を上げ、腹から絞りだす声が社殿へ地を這う水のごとく放たれた。
「おまえたち二人は先の大戦でこの国が、無惨に破れたことを知っていよう。儂はこの社前にてその責任の一端を自らの刃もて腹括りし者也。爾後、六十年を閲し、いまこの国の惨状に儂の憂いはいや増しにつもりて、破鏡の苦しみに堪えぬなりしー」
 と額ずきし面に袖を隠し、慟哭の嗚咽に低き声を戦かせ給う御有様は、その双眸に蒼白い瞋恚の焔を細く光らせていたとのことだ。
 たちまち梢を鳴らす激しき風の音が聞こえ、地軸が傾いたかのように地面が揺れると、蒼白き影は須臾の間に消え失せた。
 と、ポタリッと松造の手の甲に一滴の血が滴り落ちた。それを一瞥した靴屋が、「ギャ!」とかなんとかいう悲鳴をあげ、松造の顔をのぞくと血はその一面に流れて朱に染まっているではないか。それを見て、靴屋はふたたび吃驚仰天したということだぜ。当の松造本人もが、境内の入口で頭をごつんこしたときに、眉間を切ったその疵口から流れ出たものであることなど、まるで気付いていないから、二人は同時に心臓が口から飛び出るほどに驚いたのは不思議ではなかったね。
 靴屋は神社の正面に建った鳥居の下を脱兎のごとく走りだした。その後を松造が飛び出た腹を、まるで水枕でも抱えるようにがばがばと揺らしながら追ったということだ。そのとき、二人は神社の屋根の上を、月の光を浴びて輝くばかりの白鳥が大きな羽根を広げて飛び立つのを、一瞬横目に見たということだぜ。
「おい! 俺を残して、どこへ行きなさる!」
「俺んちへ帰るのよ。俺は化け物が大嫌いなのさ」
「あの世から俺を呼び出したおまえが、勝手に逃げる奴があるか!」
「おまえが自分から出てきやがったんだよ。俺の知ったことかい」
「事件はまだ解明しとらんぞ、それでもおまえは鬼の平蔵と言えるのか!」
「俺はな、玉三郎さんの靴を仕上げねばならない忙しい身の上なんだぞ」
「よし俺もおまえの家に行く」
「勝手に来るなら来い。おまえの眠るところぐらいはどこかにあるだろうさ」
「俺はすでに永眠した故人なんだゾ。いまさらおまえの汚ねェねぐらなんぞで、安らかに眠れるかってんだ。それより、おまえの家には屋上みたいのはないのかい?」
「まあ、屋上というより物干し台みたいのならあるけどな」
「よし、そこへ行こう。そこからあの事件のマンションを眺めるのよ。なにかがわかるかも知れネェや」
「そんなのはだめだって。おれは母ちゃんに・・・」
 約束したことがあると、言おうとして喉まで出かかったが言えなかった。それより松造が早くあの世へ、無事に帰ってくれることを願っていたのだ。母ちゃんが松造と縁を切れと言ったことを、自分が違えていることを恐れているのではなかった。いつまでもこんなことをしていたら、松造さんのオカミさんがどんな心配をあの世でしているかと思うと、それが不憫でならなかたんだ。靴屋は自分の家に足早に近づくと、足音を忍ばせてながら裏口から自分の家のなかを窺った。あのオカミさんの鼾が二階からかすかに聞こえるばかりである。
「よしこの裏口から階段をのぼっていけば、屋上へ出られる」
 松造はそれに頷いて、もう階段を上り始めた。
「ちょっと松造よ、これはおれんちだよ。そう勝手に入りなさんなって。それじゃ、まるで泥棒だよ」
 靴屋は押し殺した声で、松造に後へ下がらせた。自分こそ他人の家に夜遅く忍びこもうとしている泥棒のような気がしたってさ。なんだって大きながたいをした男が二人、抜き足差し足で階段を上がるのだ。音をたてないほうが無理であった。それに松造は額の疵口が痛むやら、途中で持病の痛風が出るやらで、片方の足を引きずるようにしていた。こうまでする執念が松造のどこにあるのかと、靴屋はなんだか空恐ろしい気がしてきたが、ともかく自分の家に帰ってきて一安心だ。ようやく二人は屋上にあがった。夜の空に星がいくつか光っている。その高空に満月はなくて、いつの間にか新月がまるで先の尖った刀のかたちをした目をして、二人を見ているように浮かんでいたっていうんだよ。
「そのマンションっていうのはどこだい?」
 松造はすこし息を切らしながら囁いた。
「あれだよ、あの白っぽいビルだ」
 靴屋が指さす方向に、ぽっかりと夜の漆黒の海の上に漂う大きなブイのようにそれは浮かんでいた。その背後に鳥越神社の社殿とそのビルを蔽うように、鬱蒼とした杜がみえた。
「ばかに白い建物だぜ。それにまるで大きな墓石みていだな。電気ひとつ点いてないようだぜ」
「あの事件があってから、借り手がいなくなってね。いまじゃ誰もいないのとちがうのか」
 鋭い目をこらしていた松造が「あっ!」と驚くような声をだした。
「三階の隅の部屋に誰かがいるようだぜ」
「ばかいえ。あの部屋は事件があってから誰もいないはずだよ。それにいつも分厚いカーテンで中が見えたことはないんだぜ」
「なんだか、おれの目にはサリーを纏った女が、部屋の壁に張られた大きな鏡の前を横切ったような影がみえたんだ。あっ! またなにか動いたぜ。やっ、あの男だ、それに、もう一人・・・」
 靴屋の耳には、松造がつぶやくように洩らした最後の言葉は届かなかった。
「よせやい、松造よ。おれの目にはただの真っ暗の窓がみえるだけだぜ、それにあんなマンションの部屋に、どうして大きな鏡を設える必要があるんだい?」
 そう言うとはじめて、靴屋の胸に閃くものがあった。同時に問わず語りという按配で、靴屋は松造の横顔を窺がうと、その顔がニタリと塩をかけられた蛞蝓のように溶けたが、その面にはまだ血の色が残り、眼鏡のガラスは月光に反射して異様な光を放っている。が、かすかに覗けた眼には、事件の謎の一端が解けたとでもいうような、異様に妖しげな嗤いの渦が、松造の形相を歪めて思わず靴屋は目を背けた。松造の胸にいつかの宵に、桜の樹の下で、大工の棟梁が言ったことばが改めて、甦ってきたのであろう。そして、靴屋のほうといえば、先刻の「ギン」のマダムとぎょろ目の短い会話を、思い起こさずにはいられなかったっていうことだ。それは、マダムが言った「インドのお土産」のことだった。
 そして、松造と靴屋の二人の目が合ったその瞬間である。
「なんだいあれは?」と松造が驚きの声をあげて、神社の方角へ目をやったんだよ。
 神社の杜から一羽の大きな白鳥が、マンションの上を翔ぶのを松造は見た。白鳥がその巨大な羽根をひろげると、その羽根のなかにマンションはすっぽりと呑み込まれた。それから白鳥が音もなくふたたび翔びたち、社の杜に帰ったあとには、マンションはどこへ消えたのか影も形もなかった。代わりに、そこには見上げるばかりの銀杏の巨木が生い茂っていたよ、まるで初めから事件が起きたマンションなどはこの世のどこにも存在しなかったようにだ。
 その後、この銀杏の樹を伐ろうとしたマンション業者が、チェンソーやブルドーザーなどの機材を持ち込み、その準備に取りかかろうとしたらしいんだな。すると天候が一変して空がにわかにかき曇りどしゃ降りの雨とともに、雷鳴がとどろきこの樹に雷が落ちた。そのため現場の一人が即死したという。伐採工事はやむなく中止せざるえないことになったんだ。なんとも信じられない話しだが、どうもほんとうのことらしいから仕方がねいャ。いまでも巨木の中途に痛々しい裂け目が残っているよ。と、言ったそのとき、咄に夢中の氏子に異形の霊が憑依したのか、妖し気な一瞥が咄に引き込まれていた私の顔を刃先で突くような妙な痛みをおぼえた。
 松造はというと、いま眼前にみた不思議な光景を、驚いた形相でまるで舌が口の中で溺れちまったような按配で、靴屋の顔にその口を押っつけて語りだそうと必死だった。靴屋の顔に松造の唾が飛び散り、それが白い無数の粒になって光っていた。靴屋はその汚ねェ唾を手で拭いとって、ふたたび目を開けてみるっていと、いま間近に見た光景を身振り手振りをまじえて、盛んに喋りまくっていた松造の姿は、どこへいったのか忽然と消えていた。狐につままれたように、口も利けねえでしばらく靴屋の親父は茫然自失のていで屋上に幽霊のように突っ立っていたらしい。がやがて、深い夢から覚めたような妙な気怠い気分を振り払い、愕然と周りを見回した。それから、慌てて階下へ降りると鼾をかいて寝ていたオカミさんを叩き起こし、まるで気がおかしくなったように松造が語ったことを、そのまま愕いて飛び起きたオカミさんにしゃべり散らしたっていうことだ。突然に起こされたオカミさんは、気が変になってしまったような親父の言うことが、まるでさっぱり分からない。それに、いい気分で寝ていところを起こされて腹を立て、出来上がったばかりの新品の靴で親父の頭をポカリと叩いたってんだ。
「おまえさん、こんな夜中にばかなことをボロボロと話すんじゃないよ。松造さんがいなくなったのは、無事にあの世に帰ったにちがいないじゃないか。きっとオカミさんが迎えにきたんだよ。おまえさんが松造さんに、引っ張られてあの世へ連れていかれなかったのが幸いというもんだよ」
 靴屋のオカミさんは、それから一ヶ月、うれし涙をうかべながら近所じゅうの人達へ、この話しを逢う人ごとにポロポロと喋るものだから、さすがに顎も口も疲れてしまったらしく寝こんじまったらしいやね。

 上野の桜が終わる頃、下谷の祭りが始まり、それに継いで神田、浅草と祭りの季節がやってくる、ちょうどそういう時節になったな。
 鳥越の祭礼は六月の初旬である。
 一年に一度のこのハレの日をこの町は待っていたんだ。幼い少女が白無垢の花嫁衣装を着る日をじっと、小さな頃から育んで夢みるようにだ。いやそうではない。小さな男の子が印半纏の袖から太い二の腕を突き出してだな。台輪で四尺三寸の幽霊のような千貫の大神輿をその肩にずしりと感じる重い太棒を担ぎ、目に滴る汗もなんのその、腹の底からこみあげてくる喜悦の声をはりあげるようになる男のハレの日を、この町の片隅で地道な生活に明け暮れながら、その元気を蓄えじっと待っているようにだ。
「せいやー、せいやー」
 この日、この大神輿は鳥越十八ケ町すべての氏子の手に御渡しをされて、町筋を練り歩くのさ。
 家々はすべての窓を開け放ち、金色の鳳凰を戴いたこのお化け神輿を鈴なりになってみつめるのだ。ビルの窓は千の目となって、この黄金色に輝く巨大な神の踊りを寿ぎ奉るんだ。篠突く雨に肌は濡れ、焼け付く太陽に目は盲目になろうともだ。黄金の櫻珞についた鈴が、チャリン、チャリンとまるで小判でも、空から落ちてくるような音を鳴らし、右に左にと傾く神輿を担いつづけるのさ。
 先頭には神主が馬上にまたがり、一枚歯の高下駄を履いた天狗が付き従い、その後を足袋にわらじのいでたち、背中に花笠を左手に鉄棒をつきながら手古舞のお嬢さんたちが一列で歩いてくるのさ。それに山車がつづき、笛や太鼓の音色が子供たちの長蛇の列を引っ張り、狭い家から人が路地にあふれ出て、茣蓙やシートを敷いて車座になって酒盛りをするんだよ。
 この日、このとき、男は一人の漢(おとこ)になり、この小さな町はハレの日を迎えて一年分の気を吐きだすのさ。
 神輿を担ぐ汗くさい一団の群衆のなかから、誰か叫ぶものがいた。
「おい、おい、心臓があっぷあっぷしてしまって、ぶったおれて青 白くなった男がいるってえぞ!」
「なになに心配するなって」
 するとどこやらか、数人がなにやら見慣れない機械を運んできた。
「これはなんだい?」
「エイディーって言うんだ。知らないのかい」
「でこれでどうするっていうのよ」
「その男の心の臓に当てて、電気を入れてやってくれ」
 安全衛生担当らしき数人が、倒れている男に近寄り、廻りに人垣ができてのしばしの後、
「やっ! 息を吹き返したってよ!」
「そーか、じゃ、もういちど担ぎなおしだ」
拍子木が入ってそれが烈しく打ち鳴らされた。
「よーお!」
 神輿は再び青い空高く担ぎあげられた。
 漢(おとこ)たちのどよめきは一段と強くなり、女の声がそれに混じり合った。・・・・・・。

Ψ
 まだ、この氏子の話しは続いていたようでありましたが、私はこの氏子がまるで講談調に語るホーラーもどきの噺に耳を傾けているうちに、なにやら夢のような世界に迷いこんだような妙な気持になったのでございます。そして、富嶽百景の「鳥越の不二」の麓に、氏子が話す調子につられ鳥越という町が、広々とした海沿いに陽炎のように揺曳し、彼方には玲瓏たる富士の山峰が見えたような気がしたのでした。氏子の声は遠い潮騒のように響いておりましたが、それは母の胎内にいたときに羊水に浮かび漂い、安楽を恣しいままに遊び暮らした故郷の里山と、逝きし昔のさまざまな面影を忍ばせてくれたものか、無礼にも聞き役の私のほうが、安らいだ晴れやかな気分のうちに、いつしか深い睡りに誘われていたらしいのございました。  
                                (了)


関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード