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昼の星座

 「ネェ。ドォー」
 またあの女だった。伏目ながちな流し目、くぐもった声の女だ。
 米田は聞こえないふうを装い、足早にその傍らを通り過ぎる。
 なにか男のこころの裏を見透かしたかのように、木立の蔭からその手の女に呼びかけられるのは、妙な嫌悪を感じる。
 新宿歌舞伎町という職場のある周辺の環境からすれば、そうした風景は別段に不思議ではない。事務所の前にはこの界隈で知らない者はいない「職安通り」と呼ばれている道路が走り、大久保の近辺へ行けばまた同類のあやしげな繁華街が迷路のように広がっているのだ。
「米田さん」
 背後から女の声がした。名前で呼び止められたので、すこしおどろいた。振り返ると事務所の新妻さよ子だ。既に子供が二人いる三十半ばの同僚だ。もちろん夫を持つ中堅の職員であったが、夫とはどういう事情か、一年まえから別居生活をしていた。狭い職場なので、そういう情報はすぐ耳に入った。
 職場への坂道を上がりきると、中位の広さの公園が開けていた。まばらな木立が冬空へ伸びて、淋しい秋の夕暮れの公園の隅に、西日を浴びたホームレスの男女が、かたまり合いそこから談笑が聞こえてくる。すでに酒でも入っているのだろうか。
 そのホームレスのたまり場の公園と小径を隔てた角に小さな茶店があった。床が油の滲みた板張りなのがどことなく、懐かしさを感じさせた。
「珈琲でも飲んから帰る?」
 米田は毎朝、その店のカウンターの窓から外の景色を眺めては、一杯の珈琲を飲むのが常であった。窓際には植木鉢の花がところどころに据えられている。その狭い茶店の椅子に腰掛け、濃い珈琲を啜る時間は、米田の一日が始まるまえの、わずかな安らぎのひとときであった。
 その茶店に午後も遅い時刻に女とともに、重い木の扉を開けるのは米田にしてはめずらしことだった。
「あら、いらっしゃい」
 六十を疾うに過ぎた女主人はすこしおどろいた様子で、すぐに後から入ってきた女性を一瞥した。
 米田は窓からすこし離れた壁際のテーブルに腰を降ろした。そこからでも公園の景色は窺えたが、やはり磨りガラスで縁取りをした格子風の窓からの遠望はあまりきかない。
 それよりも新妻さよ子の顔をこの店の中で見ることに、米田はよどんだこころに、新鮮な空気が流れ出すような感覚をおぼえた。
「それでどうだったの?」
「えっ?」
「あの件で出張したんじゃないの?」
 相談の内容は職員のあいだでも、あまり口外しないのがたてまえにちがいないが、複雑な相談となるとそうはいかない。ちかごろではとみにその傾向が強くなっている。
「あの女性の言うことがだんだんと、わたしには分からなくなってきたの・・・」
 新妻さよ子は辺りを窺う視線を走らせると、珈琲カップで隠れた口元から言いよどむようにことばを洩らした。
 やはりそうか、と米田は思った。
 二度ほど、新妻さよ子と二人で米田は、相談室の中で男と女から、一回づつ個別の話しを聞いていた。
 男のほうはまだ若い神経クリニックの開業したての医者であった。女のほうはさらに若く、褐色のどこか東南アジア系の風貌を思わせる看護婦で、南洋の花が匂うような色気を漂わせていた。
 女の訴えで調停の可能性が大きいと米田は判断した。調停といっても正式の司法手続きではない。当事者双方の労働紛争の話し合いを、役所のサービスの一環として側面的に援助するだけである。それで双方の合意が得られれば、協定書を作り、担当者が立会人として署名・捺印して、一応紛争は一件落着となる。一種の紳士協定でしかないが、世間ではあまり知られていない。
 しかし、単純な賃金不払いや解雇問題ではなく、「セクシュアル・ハラスメント」となると、調停は手間がかかるのが一般的傾向であった。それは事実関係が容易に特定できず、また、当事者の言い分が、根本から異なることがままあるからである。そこに男と女の複雑な感情が絡んでくると余計に事態は、不透明なものとなる。
 この法的な概念は、訴訟大国とも言われるアメリカから輸入されたもので、いまでは誰も知らない者はいない。いくら日本が近代化を遂げた国とはいえ、義理と人情のしがらみがまだ日本人のこころの深層に、破れかけた蜘蛛の巣のように残っている社会では、既成服に合わせてからだを改造するような、無理なところがないではない。が女性の社会参加が進む状況から、「セクハラ」ということばだけは急速に浸透した。事実、「セクハラ」の訴訟の実態は、その加害者への損害賠償額と同様に増加の一途を辿っている。
 ある日の午前、酒井園子という名の女性が女親を伴って事務所の相談室のソファに座った。
 開口一番、まだ若さを豊満なからだに漲らせている女親が悔しそうな声を放った。
「結婚まで約束したんですよ。それがどうして娘をおっぽり出す真似ができるんでしょうか。娘が可哀想で・・・・」
 と声をつまらせ、米田の同情心を誘おうとの必死の形相であった。
「お母さん、もういいから黙っていて」
 そう娘に諭されると、不満な様子で全身を河豚(ふぐ)のように膨らませたが、その後二度とその女親は顔を見せなくなった。
 その若い女性の話しでは、医院の開業以前からその準備を手伝い、いづれは結婚する約束を交わしていたという。男の方に妻がいることは承知で、いわば不倫の関係であった。まだ客もそんなに来るはずもない開業したばかりの院内で、好き合った同士の医者と看護婦が愛情を深める間は充分すぎるほどであった。これまで男の方は、大学の総合病院に勤めていたが、緊急外来の患者の対応に疲労困憊していた。妻は病気がちでもあり、どこか適当な場所で開業医として仕事をしたかったのだ。五年も経っていたが妻に子供ができる気配はなかった。男はいつの間にか、酒井園子という看護婦と深い関係となったらしい。
 医師の逸見裕次は、酒井園子の相談を受け、来所して欲しいとの役所の電話に気軽に応じてくれた。相談室で面と向き合うとなかなかの好男子で、これなら酒井が惚れてしまうのも無理もないと思われた。
 新妻さよ子は相談者の酒井園子の申し立てる「セクハラ」に、納得がいかないらしかった。セクハラは異性の相手が不快と感じることを職場等で行ってはならないというのが、その法的な定義である。相手のこころに変化が生じ、好きだった感情が反対の嫌だとなったときから、異性の言動はハラスメント(嫌がらせ)の領域に入るのである。
 ベテランの相談担当の新妻が言った一言は、米田も思案中のことだけに、興味を惹かずにはおかなかった。なまじ法律などを囓っていると、とかく常識的な判断を法律の枠内に押し込めて考える偏向に陥りやすい。
 「セクハラ」という行為が、いままでさほどに疑念ももたれなかった異性への言動に法的な制約を課されることになったのである。男と女の意識もこの法律が浸透しはじめると、互いにぎゃくしゃくとしだしたのは当然であった。これまで慣れ親しんできた常識やら習慣が、法律の俎上に乗せられ羽目になったからだ。一方の「愛情」表現が他方には「違法」となり、司法の場では、損害賠償や慰謝料の対象となるのだ。
 だからといって、すべての男女関係をこの法律の目で見てしまうこともまた、男女間の親しげな感情表現に規制の枠をはめることになるのも知れない。そういう考えが米田の胸に、風に舞う枯葉のように渦を巻きはじめていた。
 秋の夕陽が陰りはじめ、しだいに暗くなっていく公園に、数人の若い男女がバスケットに興じる光景が、米田の視線を捉えている。
すると一人の若い女性の姿が髣髴を胸にうかんだ。その女性はいつもぽつんと地下道の踊り場に佇んで、虚ろな視線を床に落としている。誰も通勤に忙しくちらりと見ては通り過ぎるだけである。服装は黒系統のワンピースで顔立ちは少女のようだが、年齢は二十歳をとうに越えていよう。誰を待つでもなく、ただぼんやりと立っているだけである。誰も奇異に思って目をとめるが、いつも同じ場所にいる。
 米田には、その娘の姿がいま公園で運動を楽しむ男女と、あまりに明暗を異にするように思われてならない。なにがあの女性をあのような境遇に陥らせているのであろうか。だが米田の想いはそこで止まることはなかった。そんな境遇のうちにあってあの娘には、どうしてだか人の手を触れさせようとしない、どこか清心で無垢な一個の星のようなものが感じられるのは、いったい何処からくるのであろうかと。
 新妻さよ子に促されるように、二人はその茶店を出た。晩秋の夕暮れの涼しさが頬を撫で、公園の樹の枝から鴉が数羽飛び立った。
 エレベーターに乗ろうとすると、一階に降りてきた隣のエレベーターが開き、早番の同僚二人と目が合った。この頃は、残業は極力やらないようにとの文書が本庁からきたばかりで、定時に帰宅する職員が増えていた。だが、次々と相談者の数は増加し、相談者の持ち込む内容は複雑となり、仕事は溜まる一方であった。新しい法律の成立にともない、旧来の労働法規の改正が相次ぎ、その上に重要な判例が目白押しに出てくるのである。
 相談室は相次いで訪れる相談者でいつも満室である。電話は一日中鳴り放しという日も稀ではない。会社も生き残りをかけて、経営の合理化に必死であった。
 事務所の隅のほうから、中堅の職員が電話で応対する声が聞こえてきた。
「人の首は大根を切るようには、なっていないんだよ。ちゃんとした理由を、あなた自身が会社から聞かなければ誰がやってくれるというの。法律では解雇するにはそれ相当な理由がなければできないのだよ。そして解雇された労働者から求められたなら、使用者はその理由を書いた文書を労働者へ出す義務が課されているんだ。その証明の紙を会社から貰ってだね。違法行為を取り締まる労働基準監督署へ申告をしてきなさいよ」
 片足の膝を机に凭せかけ、まるで電話の向こうの者に、教えてやるという口調で喋りまくっては、受話器を強引に切る担当者の声が、事務所の空気を荒ませている。米田はまた彼奴がやっているのかとその長髪の男の顔を睨んだが、男は鉛筆を片手に、相談票に相談内容を走り書きにすると、机の抽斗にその紙を投げ込んだ。労働者を保護する法律の詳細など、知らない相談者はことのほか多いのである。そうした相談者の電話へ、米田の耳にした男の対応は突き放した感じが拭いきれない。だがそうした相談をするタイプの職員が居ることも確かであった。
 相談者と会社の仲立ちは、両者の承諾があれば可能となっているが、なにもそこまで踏み込む必要もなく、また、それを避けようとする職員もいた。その方が気楽であり、利害の対立する労使のあいだに入り込んで苦労を背負ってみたとしても、それで給料が良くなるわけではない。場合によっては双方の相談者に逆恨みをされて、妙な言いがかりをつけられないとも限らない。弁護士のような成功報酬があるわけでもないのだ。
 それでも米田や新妻のように、そうした困難な仕事を自分から進んで引き受ける者が、なぜかこの職場には少なからずいる。中には相談漬けになり、自分がなにか特別な存在になったと錯覚する職員もいるのである。
 斡旋ができるのは公的な権威の後ろ盾があればのことで、それを忘れて自分一人が偉くなったように思う職員は、所詮、公権力の末端にいることに麻痺して、役人風を吹かせる愚かな輩であることに違いなかった。公的な組織を離れれば、ただの一個人であることを想像したこともないのだ。
 なんの権威の後ろ盾も持っていない個人が、労使関係の仲立ちができるはずはない。喧嘩の仲裁さえよほどの度胸とテクニックがなければ不可能であろう。また、相談者によっては役所の一機関に過ぎず、なんの強制的な権限もないこういう職場に過剰な依存を期待する者がいたが、そういう相談者に限って期待が裏切られると役所に言いがかりをつけてくることが多いのだ。

米田が各所の相談を統計資料に打ちこむ専用パソコンに向かっていると、後から新妻が近づいてきた。
「今日、例の女性の相談で男のほうの医院へ行くので、一緒についてきて欲しい」というのである。
「時間は?」と訊くと、午後四時とのことであった。
 めずらしく、米田の日程が空いていた。
「今日の現場でのポイントは?」と米田は、新妻に確認した。
「女性が相談しているセクハラの有無ということかしら」
「それは難しそうだな・・・・」と米田はことばを濁した。
 相談の主導権は新妻に任せて、米田は隣でやり取りを聞いているという役回りに徹していた。一人の相談者へ二人が同時に対応することには問題があるからだ。相談者への心理的なプレッシャーになることもあれば、相談担当者各人の思惑も微妙に異なることもあるからであった。話しの内容によっては、米田は相談室から退席した。
 性的な行動の詳細となると、男の存在は邪魔にならざる得ないからだ。また、男の話しでは男同士でないと話せないこともあったのだ。
 米田は先日茶店で聞いたこともあり、男と女の側へ相当突っ込んだ内容を聞かなければならないと思うと、気が重かった。
 
 結婚の約束を反故にしてから、酒井園子への逸見裕次の態度が急激に変わったのだ。それまでは妻のいる男との双方合意の不倫関係に障碍になることはなかった。問題はそれから後のことであった。女の男を見る目が変わり、むしろ不信を懐きながら、同じような深い関係がどのぐらい続いていたのか。酒井が逸見へ関係解消の意思をいつ、どのように表明したのか。そうした事実のありようが、重要なポイントだった。

昼食に米田はいつもの店に入って、スタンドの丸椅子に腰かけていた。
「あの若い娘さんは死んだらしいね」
 蕎麦屋の隅から、老人らしい二人の男の声が聞こえた。米田はふとおどろいて声のするほうへ目をやった。
「食べるものも摂らないで、餓死したらしいや」
「あの子は偉かったね。最後まで客を全然とらなかったそうだ」
 草臥れた服装の老人二人は、それ以上話そうとしなかった。互いにしばしの黙祷のなかにいるような沈黙がつづいた。
 米田は町のそこここで目にする、あの星のような感じの女の子ではあるまいかと、聞き耳を立ててた。
「ホームレス」とは現代の用語だが、それは「セクハラ」と同様になにか肝心の実を殺ぎその殻だけを形容する類の、いかにも軽妙な言葉に思われた。二十年まえには、家のない路上生活者の女のそうした姿を見ることはなかった。だが近年では高齢者から若いものまで、その姿をさらけだすようになっている。ただの生活の貧困だけではない、精神的な障害が必ずそこに随伴していたからだ。現代の貧困は恥じらいまで精神的な障害が腐食させてしまうにちがいない。

 新妻と米田の二人が、新宿歌舞伎町の横断を渡ろうとした時だった。路地裏の手前に人だかりできている。路地の奥へ視線が集まっていて、自転車数台がその路地に入れないように塞いでいた。米田が数台の自転車の柵に近づき路地の奥を見ると、ビルの壁を背にへたり込んだ若い男へ、背の高い男が長い足で、顔と腹に蹴りを入れていた。そのくぐもった衝撃音が間をおいて聞こえる。身なりからホストを生業にしている若い男達の内輪もめに思われた。暴行を奮っている男のまわりを数人の仲間が壁をつくりそれを見守っている。壁に倒れ込んだ男はもうなんの抵抗もできないほどにダメージをうけているらしい。それを通りがかりの群衆が遠くから黙って見つめている。米田は何を思ったのか、並べられた自転車の隙をぬい、加害者と被害者の二人の側へ、ゆっくりと距離を詰めていった。仲間の一人が近づくなと米田へ低く声をかけてきた。その声が聞こえないのか、米田の目は吸いつけられるように被害者へ向けられ、じりじりと現場へと距離を縮めていく。あと数発の蹴りが致命傷になるかも知れないが、被害者の抵抗する力はもうなかった。米田が無抵抗な男へ近づくに連れ、取り巻きの輪が散りだした。それに紛れるように加害者も逃れ去っていった。
 不思議なことに、これだけ人だかりがしている歌舞伎町の中心街の暴行現場に、一人の警官の姿もなかった。パトカーの近づく音も聞こえない。この地域ではこんないざこざは常時のことであり、いちいち、警察がかかわっていられないということなのであろうか。
 新妻のところへ戻ってくると、彼女は硬い表情になって言った。
「なんであんな中へ入っていったのよ」
 それは心配と同時に、下手をすれば飛んだとばっちりをうける無謀なことをする米田への叱声と、あんな行動に出ていく気が知れないという単純な女性の驚きだった。
「なぜだろう。おれにも分からないよ」
 ぽつりと米田はそう答えて、ニタリと笑った。その照れた苦笑いをする米田を見る新妻の表情には、恐怖とともに密かな称賛の気持ちが混じりこんでいた。
 道々、彼女は自分たちの仕事には、米田が洩らした「分からない」という疑問符のまま、頭より先に身体が前へ動いてしまう要因がどこかにあるのではないかと、腑に落ちた気持だった。そうでなければ、事務所の椅子に座って法律の講釈と関係機関の紹介をしていれば、それで役人としての義務は果たされるはずだからである。あの長髪の男、小権力の威張り腐った番犬のように。

 医院は山手線からバスに乗り換えて十分ほど行ったところにあった。一階の道路から階段を上がった二階の扉を開けると、ひっそりとした感じの院内の様子が窺えた。逸見裕次は白衣をひっかけて、客の来ない病院で二人の来るのを待っていた。これが酒井園子も手伝い半年まえに開業した医院であった。二階の広い間取りに、西日がふんだんに射して明るいが、逸見裕次の白衣だけがちらつき、どことなく院内が寂しげにみえる。ここに酒井園子がこの間まで一緒にいたのだと、二人は部屋をみわたした。
 逸見裕次は、馴れない手つきで珈琲を淹れてくれた。
 早速、新妻がノートを鞄から出して、用件に入った。
「逸見さんが、酒井さんへ結婚の約束をしたと聞いたのですが、それはいつごろのことですか」新妻の質問は単刀直入だった。
 逸見は唖然とした驚きの表情を、その優男の顔にうかべた。すこし間をおいて、逸見が答えた。
「結婚の約束というような、そんなはっきりとしたことを話した覚えはありません。彼女がそんなことを言ったのですか?」
「はっきりと言わないまでも、そんなニュアンスのことをお話ししたことはないのですか?」
「・・・・・」逸見は考え込む様子になった。
「結婚ということばは、一度も言ったことはありません。ただ・・・・」
「ただ、なんですか?」
 新妻はどことなく、甘い声で囁くようにそれをうけた。まるで子供の悪戯を赦してやる母親の声であった。これは新妻の相談上のテクニックでもある。
「五年も経って、妻に子供ができなかったので、両親が・・・子供、いや、孫の顔が見たかったのです。そんな話しを彼女になんとなくしたことはあったかと思いますが・・・・」
「ところが、妻が妊娠したことをあなたは知った。そのことを、あなたは彼女に知らせてはいなかったのでしょうか?」
「それはありません。妻と彼女とは別個の人間だから・・・」
「別個とはどういう意味ですか? 逸見さん、あなたは妻がありなら別の女と深い関係を持っていた。それはそんなに短い期間のことではありませんよね。こういうことばは好きではありませんが、世間で言う不倫をあなたはしていたということですよ」
 そのあまりに無体な話し方に、米田は割って入った。事実はたしかにその通りだが、新妻の質問口調には、男の急所をあまりに狙いすまし、これではどんな男といえどこころは硬直するばかりと想像された。こちらがやることは検察の訊問ではないのだ。単なる双方の話し合いの側面援助をすることが主な仕事である。お互いの相談者が感情的になられたら、和解することができる話しも、物別れに終わってしまう。紛争の間を取り持つには、双方のこころを和解に向かって開かせてやらなければならない。そこから、双方の面子が立つ落としどころを準備しておく必要がある。
「私も男ですからね」と米田は緊張気味のところに、ゆっくりと弧を描くスピードを殺した球を放り込んだ。逸見の顔に微笑の小皺がうかんだ。
「よく分かるのです。妻がいながら別の女性に惹かれる、そういう罪づくりの男のこころがね」
 と言って、逸見裕次の横顔をみた。笑いながら、頭を垂れている逸見という男の内面の葛藤を、米田はそこに見た思いがした。この一言から相手のこころの扉が以前より開きはじめた様子が見えはじめた。米田の判断では、逸見が「別個」ということばでしか表現できない、その底のほうには、なんとも表現しようがない世間の規矩から外れる男の肉体と心理が発動する領域があると、米田は想像した。
 それは男だけではない。女にも同様な世界があるはずだろう、と米田の考えは逸れていった。急に米田は夫と別居している新妻の横顔をじっと覗きみた。
 するとその気配を感じたのか、新妻がノートから顔をあげて、逸見へ質問を始めた。
「ともかく、一緒に仕事をやっていけないからという理由で、看護婦の酒井さんとの雇用関係を打ち切ったことは、事実ですよねー」
「それはたしかです」
 これはすんなりと、逸見裕次は認めた。
「労働基準法上・・・」新妻が話し始めるとすぐに、逸見はそれを引き取った。
「私は法律上のすべての義務を果たすつもりです。その上、彼女がそれ以上の要求をするのなら、できる限り応ずるつもりなのです」
「逸見さん、それ以上の要求に応ずるとおしゃいましたが、それは具体的にいうと、どういう意味ですか?」
 米田も新妻がそう言った瞬間に、逸見裕次の顔をうかがった。法律上不当な解雇をしながら、労働法上の最低の義務は勿論、それ以上の補償をすることを、自分から言う使用者はめずらしいからであった。いくら金銭的な余裕があるといっても、普通はそこまで自分から言い出す者はいない。
 新妻が米田の顔をちらっと窺う仕草があった。それはこれから例の酒井園子の主張する「セクハラ」の疑惑を解明するための用意に入るという合図にみえた。
 硝子張りの診療室には、所々に鉢植えの洋蘭の花が、これでもかというように花弁をひろげていた。それは気味の悪いほどに性的な放恣をさらけだして、誇り高くさえみえる。三人が座るソファの後に銀色の立派なノブのついた扉の一室があった。それはこの部屋を最初に眺めた時に、目に入ったものだが神経クリニックにはあっても不思議ではなかった。だがこの幾鉢も置いてある、性的は刺激を誘う蘭の花びらには、そこが医院というより、開放的は性的な空間のような異常な印象を与えずにはおかなかった。
「簡単に言って、解雇した理由はなんなんですか?」
「前にも言ったと思いますが、この医院で一緒に仕事ができないと思ったからです」
「でもそれって、一般的にはおかしくはないですか。どんな小さな医院でも一人位は助手の看護婦が必要ではないのですか?」
 もう分かり切っていることを、新妻は再確認をするように訊きただした。この医院の中で不倫の関係が深まっていったことは、酒井の話しから新妻さよ子は、仔細に知っているはずであった。だが、その相談の相方にあたる逸見裕次からは、そのポイントになる事実関係は糺されてはいなかったのだ。
「彼女の代わりに看護婦を一人雇いました」
 涼しげにそう答えた逸見裕次という男が、このことばから米田には見えなくなりだした。いったいこの男は、幾人の女性から果実を啜ろうとしているのか・・・・。
 だが、新妻は極めてまっとうな質問を逸見へ投げかけた。
「一緒に仕事ができないとは・・・?」
「・・・・・」
「邪魔になりだしたということでしょうか?」
「というより、私の両親が目が厳しくなりだしたので・・・」
「なるほど、奥さんが妊娠なさったからですね」
 それに応えず逸見はどことなく苦しげな表情をうかべた。
「酒井さんと仕事の縁を切ったあとに、酒井さんと逢ったことはありましたよね」
 やんわりとではあったが、そこには「ない」とは言わせないという新妻の迫力がうかがえた。
「それはいろいろと話し合い、彼女の納得をいただくうえの、手続き関係でここへ来てもらったことはありました」
 ここで新妻は米田の俯き加減の顔へ視線を注いだ。米田がそれに気づいて頭をあげた。
「彼女は喜んでやってきたのですか?」
 米田がわざと咳をひとつした。新妻がこだわりたいのは分からないことではないが、その言い方があまりに露骨に聞こえたのだ。
「ここに彼女が来たこともあり、外で食事をしながらということもありましたが、ここへ来たのは彼女が私物の整理のための一回だけです・・・」
「その時は、もう新しい看護婦さんがいらしたのですか?」
「そうだったと思います、あまりはっきりと記憶していませんが」
「では何日付けで、酒井さんの代わりの看護婦さんを雇ったのですか?」
 新任の看護婦が来た以降にも、二人の性的な関係が続いていたという事実には、微妙かつ肝心な酒井園子の相談の要点が潜んでいた。もしその時点でまだ酒井園子との雇用関係が切れていなければ、セクハラの問題は完全に消えたことにはならない。解雇が為されていれば、解雇の根拠が問われることになり、いなければ雇用の制裁与奪の権力を握る使用者である逸見のセクハラの疑惑が浮上してくるのだ。不当解雇とセクハラが一体となる法律上の重要な問題となるのである。
 米田は押し殺しているが、こんなに感情を表に出して、詰問口調の新妻の姿を見るのはめづらしいと思った。よほど腹の虫が治まらないことでもあるのであろうか・・・・。
 逸見裕次は席を立った。同時に米田もトイレを借りに、場をはずした。新妻が知りたいのは、逸見裕次が酒井園子といつまで深い関係を持ちつづけていたのかを、たとえそれが真実でなくとも、確認しておきたいことだとおおよその想像はついたが、解雇後であればそれは労働法から離れて行かざる得ない。反対にその以前にそれが職場内でなくても、勤務の延長と見なされる場所であれば、セクハラとの関連がでてくるのだ。このあたりでの、新妻の見解はどうなのであろうか・・・・。
 米田はトイレの鏡の前で、時間をつぶしていた。その間に新妻が逸見から、聞きたい言質をとってくれればそれでよかった。彼女がこだわっていることは、職場の性的な関係が二人の合意で始まったが、それがいつ頃から逸見裕次には重荷と感じだし、それが解雇へと発展していったのかというその一点であった。それが法的な明暗の分岐点になるからである。だがその言質を逸見裕次からとるのは至難のワザだろう。
 米田がトイレから席へ戻った時だった。
「今日は新任の看護婦はいらっしゃらないようですね?」
「ええ、午後は休暇で帰りましたから」
「逸見さん、くどいようで恐縮ですが、その看護婦さんを雇った正確な日付を知りたいのですが・・・・」
 逸見裕次はカレンダーへ目をやり、額に拳を当てて考え込んだ。「あれは八月の中旬頃でしたでしょうか・・・・」
「求人はどこかへお出しになったのですか?」
「以前にいた大学病院で知り合った友人からの紹介ですよ」
 あっさりと逸見裕次が答えた。
「新しい看護婦さんへは、雇用関係の書類はお渡ししていますよね」
「もちろん、渡しています」
「それではすみませんが、酒井さんへの解雇証明書とこれまでの賃金台帳、それと新任の看護婦さんへの雇用関係書類一式を事務所へファックスで送ってくださいませんか?」
 逸見裕次は了解した。
 新妻は事務所の名刺を渡し、ファックス番号をボールペンで教えてから、とりあえず、形式的に確認すべき事項に関する話しはすべて終わったというように、米田を促した。
 既に新妻自身が酒井園子の主張に疑いを懐いていた。それなのになぜ、一時は相思相愛の関係にあった男女に、「セクハラ」などという違法行為を探索しようとするのだろう。たとえ、酒井園子が逸見裕次から仕事での関係を絶った後にも、酒井を追い回していたならそれはストーカーとして酒井は警察へ訴える事項となるだろう。
 酒井園子が役所に相談にきたのは、既に雇用関係がなくなった以後のことであった。そして、彼女は解雇の無効性を焦点にして相談に現れたのではなかった。酒井の法律上の認識がいづこにあるか分からないが、「セクハラ」はあくまで職場における人間関係を基礎にした、被害者本人の意に反する性的な嫌がらせという事実が、加害者が認めるか、第三者の証言等によって客観的な裏付けがなければ損害賠償の履行の義務づけは弱いものになるだろう。もし酒井があくまで「セクハラ」を問題にするなら、いつ、どこで、どのような男の行為が本人の意に反したかの事実を、できる限り具体的に報告して、そのことが可能な限り客観的に証明されなければならない。それはあくまで、相手が性的行為を否定した場合が前提であったが・・・・。
 新妻さよ子が、酒井園子の訴えに疑問符をつけるのは、そうした報告を聞いた上で、その供述の眼目があまりに曖昧模糊としていることに納得できないことにあるのに相違なかった。自分の愛情を裏切った男への怨恨なら、単なる個人間の恋愛問題に過ぎないが、解雇は明らかに労働法上の問題である。ましてその理由が性的な関係の解消を狙ったものなら、解雇の不当性には別の重みを増してくる問題であった。
 深浅の相違はあれ、男女関係にはそうした事例は腐るほどあるだろう。それら様々な様態、男女の心理的葛藤、他殺自殺まで含む事例は、あるものは恋愛小説に山のように書かれ、また日々週刊誌を毒々しい記事で飾っていた。
 証明もできない事柄を本訴にすれば、酒井園子は名誉毀損で、逆に相手側から訴えられないとも限らないところだ。
 今のところ、事務所への相談事例として、問題は内々の事柄で済んでいた。余りに新妻が逸見裕次の神経を逆なですれば、逸見裕次が話し合いでの解決をいつでも拒むことができるのである。公的な司法の場は別にあるので、内々の話し合いが打ち切りとなれば、元も子もないのである。米田が懸念するのはそのことであった。折角話し合いに引きずり込んでおきながら、すべての苦労が泡となってしまう危険性があった。
 既に時間は二時間に及ぼうとしていた。役所の定時を過ぎていた。
 米田は席を離れて、事務所に電話を入れた。案の定、数件の相談者からの伝言があったことを知らされた。

 逸見医院を後にして、二人は線路づたいの坂道を登っていた。米田はある種の直感でしかなかったが、逸見裕次はまだ酒井園子との関係を解消する積もりはないことは予想できた。多分開業費用の大半は両親から出して貰ったものか、妻の実家からの援助によるものだろう。だが、金銭問題からだけではなく、酒井園子とは別個に逸見は自分の妻をも愛し始めているにちがいなかった。それが一人の男をどんな錯綜した迷路へと導いていくのか、それは推測すべきもなかった。
 隣を黙って歩く新妻さよ子もなにかを思案中であった。別居中の夫のことか、子供のことか、それとも夕食の献立でしかないのか・・・・。
 人間のこころの扉は二重三重になっていて、その家の中には本人しか知られない幾つもの部屋がある。米田はそこにある種の抗し得ない関心と、底知れない深い闇の中を覗き込んだときの眩暈とを二つながら同時に感じて、両足が宙に浮くような不安を覚えた。
 線路と舗道とのあいだに茫々と芒の穂が風に揺れ白く光っていた。その傍らに淡いピンクと白のコスモスの花弁が点々と見え隠れに咲いている。あの植物にはこうした人間のこころというものはない。ただ花をつけそれが枯れれば、そこで一つの季節が終わるのだ。なんと単純で豊かな生命の循環だろう。こうした相談で他人を煩わせることもなく、儚く短い、濃密で単純な生と死があるだけなのだ。
 線路を轟々と電車が過ぎていった。車内の白い吊革の輪の数だけ人生があり、時によりそこに人生の規矩を逸脱した相談事が生まれる余地があるのかも知れないと、米田は想像した。
 夕暮れの風が吹いた。いかにも秋らしい涼気が肌を粟立たせて吹きすぎた。
「すこし疲れたな。お茶でも飲んでいこうか」
 と、米田は新妻を誘った。彼女はものも言わずに黙ってついてきた。
 駅前の喫茶店にしては、なかなかシックな作りの室内であった。
 椅子に腰を降ろすとどちらともなく溜息が洩れた。
「さて、どうなるのかな?」
 と、米田は新妻の反応をみた。とんでもない藪の中に誘い込まれたような気がしたが、新妻はそんな様子は毛ほども見せようとしなかった。
 新妻はしばし黙っていたが、やがて口を開いた。
「酒井さんはきっと、金銭での和解に応ずるだろうと、私は思っているわ。解雇の不当性は逸見さんは充分に知っているだろうし、酒井園子さんへの慰謝料も高いものになるに違いないでしょう。ただ女はそれじゃ済まないのよね・・・・」
「ああ、そのことなら男の逸見裕次にしても同じだろうよ・・・・」
 いずれにしても基本的には、セクハラの有無は二人の男女にしか知り得ない奥に隠れて明瞭ではない。単なる男女間の不倫の恋愛関係が、ある時点からそうではなくなった可能性が高いと思われた。しかし、それをいったい第三者の誰が証明できるというのだろうか・・・・。そういう疑念が米田を妙に重苦しい場所に佇ませずにはおかなかった。
 お互いに、愛欲に憑かれて別れられなくなっている男女。その限度を知らない情欲の炎に不安を感じ、かつ、上司でもある男の心情を忖度しながら、そのどうにもならない気持をぶっつけに、酒井園子が事務所にやってきたのであろう。そのように、新妻さよ子に言おうとして、米田はふと口を噤んだ。
 新妻さよ子の横顔が憂愁の翳りにつつまれているのを見たからである。
 まだ明るさを残した夕空に、星が一つ瞬いていた。
 そして米田はまた思った。あの夢の中から現れたような娘はどうしているだろう。あの昼食時のスタンド蕎麦屋で、男たちがささやき合っていた娘がもし、彼女だとしたらもうこの世にはいないのである。だがこの世の縁に居てどこか聖なる光りを放っている、あの中性的な一個の星のような存在。虚ろな黒い瞳を開き、この人間世界から遊離して数奇な鉱石のような人形に似た娘は、日の光が陰りだした夕暮れに瞬く、小さな宝石のように、この都会のどこかに、ひっそりと存在していなくてはならないような気がした。
 毎朝に米田が寄るあの公園まえの茶店、その壁の小さな額縁の中の一枚の絵のように。
 重い扉を押して外へ出ると、ふと冬のたしかな気配を感じ、公園を眺めると、そこにはもう誰の人影もなかった。
 


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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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