FC2ブログ

刀筆の歌

 平三が隅田川を渡った墨東界隈にあるその事務所に来たのは、ある年の春のことであった。
どんな役所の仕事も同じ仕事を数年もやると、すぐに飽きてしまう平三には、その仕事がなんであれ、ただ新しいというだけで嬉しくさえあったのである。
 夏のある晴れた日のことであった。外気の温度はうなぎ昇りに上がり、窓からのぞける空には積乱雲が猛々しく、空の一面を圧する勢いである。
「おい、よー。誰かいないのかー」
 カウンターへ両肘をついて、がっしりとした体躯を乗りださんばかりの中年の男の姿は、職員の目に嫌でも入らざる得ない。狭い所内の職員の顔を睨めまわすといった男の両目には、あからさまな怒気まで感じられ、職員は誰も目を合わさぬように俯いている様子である。
 東南アジアにまで波及した経済危機は、早速に世界経済に影響して、日本でも大会社はいうに及ばず、中小企業はその日の運転資金に難渋する始末で、そのしわ寄せは労働者に及び、行き場のない鬱憤が出口をもとめているようだった。
 労働者の相談を扱う事務所には、朝から毎日のように解雇や賃金の不払いと言った端的な労働問題の外に、子どものイジメ紛いの相談に大の大人が、来所する数は増加する一方であった。
 こうしたハラスメントの類の相談は、陰湿を極めており、相談者も病院通いの者がしばしば見られ、その上はっきりとした証拠がある事が少ないこともあって、こうした相談への応接に、当の職員さえ精神的な疲労を深めているせいで、どことなく及び腰になる傾向がみられなくもなかった。
「はい、はい、なんでしょうかね」
 隅田平三はそんな職員の内情も知らぬ気に、カウンターへ歩きながら、そう言った。
「なんだ貴様は、はい、はいと言ったな。おれを誰だと思っているんだ。てめえはご用聞きなのか!」
 平三はこういう手合いは嫌いではなかった。むしろ前職場の役所内の不明朗で煩瑣な仕事で、思い悩むよりも、ずっと晴れやで爽快でさえあったのだ。
「いや、ご相談なら、承らせて戴きますが」
「ご相談だと、てめえはそんなに偉いのか!」
「いや、ちっとも偉くはありません・・・・」
「偉くないだと、この野郎、調子に乗りやがって、おれをばかにしているな!」
「まあ、まあ、そう怒らないで、話しを聞きましょう。さあ、こちらへどうぞ」
 新米の平三に先を越されたヴェテランの職員等は、内心はホッとしながらも、転入後まだ一ヶ月も経っていない平三の役人らしからぬ、果敢な行動が気に入らなかった。石橋を叩いても渡らないというほどの慎重さが、平三には欠けているような気がしたからだ。
 この日の平三の態度に、誰よりもむかついたのが、平三と机を並べている鼻井銀子であった。彼女はこの道二十年の相談の夜叉という陰口を叩かれるほどの、闊達な官吏でその上に労働組合の幹部であった旦那を頤で使う陰の女猛者であったからだ。この職員には事務所の所長といえど頭が上がらなかった。ましては他の職員、とりわけ同性の者たちは睨まれたが最後、所長を抱き込んでのあの手この手のイジメに遭わないとも限らないのである。
(チョ! よくも余計なことをしてくれ、あたしの面子を汚してくれたわねェー。いまに吠え面かかしてあげるから、待っていなさいよ・・・・) 
と胸にチョロチョロと復讐の焔を燃やしたかどうか、それは知らないが、黒ずんだ顔に不釣り合いな茜色の眼鏡をかけた銀子女史が、相談室に入って行った二人の様子をじっと、見守っていたことは確かなようだ。
 そこでの平三と新規の相談者との内容に触れるまえに、この銀子女史と平三のことに、すこし触れておくことにしよう。
 平三は着任すると、この年下ではあったが相談業務の先輩に一応の仁義を切ったつもりであった。彼女のほうもいい年をして一向にうだつが上がらなそうな平三を不憫に思わないわけではなかった。
 現に数度も、来所の相談者への対応のイロハを、相談室のソファに侍らさせて伝授をしてもらったことがある。また、電話による相談の対応も、じゅうぶんに隣りで聞き、教育指導を授かったはずであった。平三にはそれでいわゆる「相談のツボ」というものの、おおよそのコツとポイントがのみこめた。それに分厚い冊子になったマニュアルにも目を通するほどの入れ込みようである。
 そうした後に、鼻井銀子と平三の机に一台備えられた電話が鳴り出した。その電話を平三が知らぬ存ぜぬで無視していれば問題はなかったのだが、つい平三の手が伸びてしまったのがよくなかった。
「はい、こちらは○○事務所ですが・・・・」
 電話は仕事中に職場の目を盗んでかけているのか、しかと平三の耳に届かない。もう一度、平三は同じことばを繰り返した。
 銀子はなにやら書き物をしながらも、平三の電話の応対に耳を傾けていたらしい。俯き加減の眼鏡の奥から大きく鋭い眼が平三を睨んだ。
「ねェー、その電話あたしのほうによこしてくれない?」
 もう片方の平三の耳にその銀子の濁声が聞こえた、と思ったその瞬間から電話の主からの連絡はどうやら途絶えたようだ。
「この電話はもう切れたようですよ」
 そう言いながら、受話器を差しだそうとする平三へ、
「そんな電話、あたしにはもう用はないのよ!」
 切り口上の銀子の一言は、もうあなたになんか用はないと言わんばかりの、なにやら刺々しい口調であった。
 生来、神経の鈍感なくらいな平三はその微妙なニュアンスを含んだメッセージは通じたようにはみえない。
「どうしたのかな、いまの人・・・・」
 多少心配ぎみのこの平三のつぶやきを、耳にした銀子はサッと椅子を尻で蹴り出すように立ち上がると、トイレのほうへ姿を消した。
 銀子は苛立つ神経を、煙草を吸って紛らわそうとしたのだ。所内は禁煙だが、女子トイレでの銀子の喫煙には誰も文句を言える職員はもちろんいるはずはなかったのである。
 さて、平三は頭の髪の毛を後ろで括ったという、すこしばかり風体の変わった相談者を、隅にひとつ明いていた相談室へ、「さあ、さあ、どうぞ」という態で導き入れた。
 相談室は小さなテーブルを挟んで、ソファが向かい合わせにふたつ並んでいる。隅には内線用の電話が一台、その脇に色あせた造花の花が小さな竹籠のなかに飾られている。ドアの向こうは窓となっていたが、隣りのビル壁が立ちふさいでいるせいで、窓から外の景色が見えることはない。白い壁には、質素な風景画が一枚、額縁に入れて吊されていた。その窓際に、相談者への参考用の資料類が縦を数段に区切って並んでいる。なかには埃に薄汚れた労働組合からのしおりのようなものも無造作に入れられている。
 男は部屋に入ろうとして室内を見渡した。
「いやに陰気くさい部屋だな」
 ソファに腰を降ろしながら、一言ケチでもつけておこうかという調子で男は口を切った。
「暗いですかね。別に節電しているわけではないのですが・・・」
「あたりめえじゃないか、これ以上暗くちゃ、刑務所と変わりねえからな」
 男は「刑務所」ということばだけは、声を抑え気味に発音した。「刑務所?」
 そう口の中で平三は繰り返すと、ぷっと笑いだしそうになったのを、グッと抑えながらソファに腰を降ろし、胸から名刺入れを出そうとした平三を、男はジロリと睨んだ。
 どこかトカゲのような厭な目付きに、平三は一瞬ドキリとした。
「ここには灰皿というものはないのかね」
 目付きに似合わない妙な猫撫で声であった。
「はい。すみませんが、所内は禁煙となっているもんですから」
「禁煙、禁煙とうるさいんだよねェー。なんでそおなのヨー?」
「それは一応、約束というか、そういう決まりになっておりますもので、はい」
 その瞬間、男の目がまたトカゲの目に戻った。
「お兄さんよー。その、『はい』というのはやめてくんない」
 男は頤を突き出し、首をグイというように右に傾けた。すると「ゴキリ」という骨が軋むような音が、明瞭な響きをもって聞こえた。
 平三はもう余計なことは言わないようにして、黙って名刺を差し出した。
「ヘェー。名刺だね。悪いけどおれは持っていないんだ」
「構いませんよ。では、まず当所の性格を申し上げますと、職場での労使関係の相談を取り扱っています。相談の内容は一切外部に漏らすことはありません。でありますから、この部屋ではご遠慮なくお話し下さい」
 冒頭のこのことばは、ほぼ鼻井銀子の語り方を模倣したものであった。敢えて最初から名前を尋ねないのも、銀子のやり方をまねたものだ。相手の出方を窺いながら、銀子は話しの合間にうまい具合に、名前と会社名を聞き取る、巧妙な手法をとっていたのだ。
 男は数年まえから、小さな運送会社でトラックの運転手をしていた。会社が隣りの空き地に建てた古びたアパートを塒にしてくれていたが、会社のほうでは、このアパートを取り壊してしまいたいらしいこと。社員は男(名前は権田原潔と分かった)以外に数人いるらしかった。権田原から聞いた話しでは、社長夫婦が自分を嫌って解雇を迫っており、解雇と同時にアパートから出て欲しいと再三言われているらしいのである。
「おれはいざとなったら、非合法で動くからね」
 と平三の前で凄んでみせた。それは最初のことで、平三と会うたびごとに、次第しだいと平三と権田原の距離は縮まっていった。
 権田原は九州の炭坑町で生まれ、子どもの頃から歌が好きだったことからギターを習い覚え、流しのギター弾きをしながら大阪、そして東京の花街を、この数十年のあいだに転々と渡り歩いていたらしい。一時はある組の傘下で組員となっていた時期もあったらしいく、それ相応な危ない橋も渡ってきたようであった。
 来所のたびごとに、職員はそっぽを向くことに変わりなかったが、本来は相談とは直接関係のない話しにまで、耳を傾けてくれる平三に胸襟を開きはじめだしそうな気配である。
 平三も平三で、怒気をふくんだ鋭い目付きをした、一見変わり者の権田原の凶暴な態度の陰に、ふとみえる孤独な男の生き様が垣間みえるように、平三の胸を掠めるのを感じるようになっていた。
 だが銀子はこの平三との相談者との関係が気に入らなかった。銀子の相談への対応は、平三のように鷹揚なことはしていない。相手に応じて、相談の体様は変幻自在に変えたが、無駄な話しに時間を割かないので、平三に比較して相談の実績件数は、圧倒的に多いのである。また、所内をきびきびと動きながら、職員の情報を集めるのも抜かりなかった。そのうえ、本庁への出張も度々あり関係部署との交流にも活発で、縦割りの役所ではめずらしいほどの情報通であった。
 そうした情報の中に、平三を困惑させた前職でのトラブルの一件も入っていたことは言うまでもなかった。
 もちろん、旦那の組合からの情報もそれに加わったから、事務所の所長は銀子に頭が上がらない。素早く所長室に入ると、内から自然に扉が締められているのを見るのは、職員にはごく自然なことのようになっていたのだ。
 ある日、平三は所長が平三の後ろに立って、肩をつついているのに気がついた。平三はこれまでの事から、お偉いさんが自分の立場を守りかつ高めるためには、どんな理不尽な行為も辞さないことは、もう頭がぼんやりとするほど経験していたことであった。
 刀筆の吏員には、諄々とそれに随うほかないのである。
「隅井さん、いまあなたが担当している相談の状況を、報告してくれませんか。変わった相談者が来ているようだけど・・・」
 平三は銀子から所長へ、なんらかの進言があったのだとそんな妄想をした。
「あなたの相談は危なくて見ていられない」
 と銀子が平三へ直接つぶやいたこともあったが、所内での平三を見る目がすこしづつ厳しくなっていることもぼんやりと感じていた。
「変わった相談というのは別にありません。相談の状況はその都度相談票に書いておりますが、近日中にあっせんに入ろうと思っているところです。いづれあっせんの報告書を書こうと思っていますが・・・・」
「うん、まあ、それはそうだが、この間、カウンターで騒いでいた男の相談はどうなんです。途中経過でも報告してくれないかな」
 平三は、これまでの相談の概略を口頭で話したが、あまり要領のいい話し方ではない。所長は納得しなかったらしく、平三は今度は、それをA4の用紙に時系列を追ってポイントのみをパソコンで打ち出すように指示された。所長はそれでどうにか了解したようだが、平三が興味を懐く相談の醍醐味はなにひとつそんな紙の上に記されることがないことが、平三には少しばかり残念でならない。
 昨日、突然に扉を開けて入ってきた元ボクサーは、平三を見つけるとジャブを入れるように身体をゆすり、平三が座ったソファに腰をかけて、話したことはたわいないもないことであったが、元ボクサーはそれだけで満足して帰っていくのだった。銀子はこの常連客の元ボクサーが現れると、用事もないのに二階へ姿をくらましてしまうのがいつものパターンである。平三は所内のどこからでも見えるソファにわざと座り、立っている元ボクサーには座ってもらうのだった。背の低い平三ににすれば背の高い元ボクサーからパンチを食らう心配もないし、とりとめもない話しを聞くには楽だったからであった。
 相手が座ったらすぐに間をつめて、膝が接するほどに距離を縮めてしまうと、腹にたまった不満を元ボクサーは一挙に吐き出すので、平三の顔にツバキがかかることがあっても、これほど安全なことはない。下手に相談の密室に入ってしまえば、なにがあっても証人がいないので、それを避けたのだとヴェテランの相談担当者の判断だが、平三がそんな計算をするはずはなかった。
 こうした少々おかしくて、多少ヤクザな連中に比べたら、役所のお役人さん(中国では「刀筆の吏員」と呼ぶ)のやることは、平三にはなんとも、滑稽をとおり越して、もう見てはいられないほど、こすっからくて厭でたまらない。
 銀子が探り廻っている前職場のいざこざは、平三には思い出すのさえ嫌であった。あの館長とやらの逃げ足の早さには、平三は呆気にとられてしばらく開いた口が塞がらなかったほどだ。
 すこし早戻しをして、そのあたりのことをちょっぴり話しておくことにしようかね。

 平三が座る机を硬く巻いた新聞紙で、音が鳴るほどに叩きつづけていた男に、平三はただ驚きながら身を縮めているばかりであった。後ろを振り向いた平三の目に、この様子を館長室から怖々と覗いている館長の顔が見えた。いや、館長室の側にいた管理課長も牛乳瓶の底ほどの分厚い眼鏡をかけ、机のパソコンとやらとにらめっこしていて、こちらを目の隅に入れながらなにひとつ対処しようとしてくれないのが、平三には奇妙でならなかったのである。
 男の昂奮がおさまり、平三が立ち上がろうとすると、目眩がした。その傍らの所内の通路を通ってトイレに行く館長の姿が、平三の目にぼんやりと映った。それは大きな蠅が床に平行して移動していくようであった。平三はよろよろと、館長の後を追った。館長はトイレの扉を押して、今にも姿を眩まそうとしているのだった。
「館長さん、なんとかして下さい!」
 平三のその訴えが聞こえたのか、はてそれはどうしたことなのか。
 おどろくことに、館長はトイレの扉ごしに、
「なにかあったのかね?」
 と、そんな一言を言ったのである。
 他の職員たちも男の蛮行に驚き、横目でこの様子を眺めざる得ないほどの出来事であった。それなのに、館長は「なにかあったのかね?」と、知らぬ存ぜぬの風を装ったのだ。
 なにかあったどころではないのである。白昼の役所内で、身に危険を感じるほどの「暴行」があったにもかかわらず、三猿よろしく見ざる聞かざる言わざるというのが、当該事業所の最高責任者なのである。これほど平三を驚愕させたことはかつてなかったのだ。
 隅田平三が昏倒して意識を失ったのは、外出の途上のことで、それから一時間も経っていなかった。気がついたときには平三は病院のベッドに寝かされていた。
「さっき、瞳孔がひらいてましてね」
 白衣の医者が話している会話が、遠間に聞こえてきた。どうやら平三に見えてきたのは、妻の多恵子の強ばった、心配そうな小さな顔であった。
「だいじょうぶなの?」
 そっと近づいて多恵子は、平三へ囁くようにそう言った。
 そして、平三が口をあけ、妻へむかって答えようとしたのだが、声があたまの中で絡まったかのように、出て来ないのである。まるで、ガラス鉢の中の金魚のように、ただ口をパクパクと動かしている自分の姿を、ぼんやりと鏡で見ているような按配であった。
 それから数日、平三は家で自宅療養をしていたが、平三の頭はぼんやりと霞みがかかったのか、声を出そうにも頤の関節がはずれたかのように、明瞭な声が出てこない状態が三日間も続いたのであった。
館ではこの三日間を平三の「無断欠勤」扱いとしたらしかった。

 平三がある日の午後、とある区役所へ出張の相談へ行っている間に、机の中にしまっておいた権田原の相談表が何者かによって、触られたような形跡があった。たぶん、鼻井銀子が所長の命令か、あるいわ、彼女の一存で調べを行ったにちがいないと、書類の乱れかたから平三は想像した。あっせんに入るとそれが終わるまで大概、相談票は担当者の机の中に溜まっていくのが常のことである。メモ程度の書類をみても、普通には大したことは分からないが、銀子ぐらいの経験者には、おおよその想像はつくものであるらしかった。また、現在の所内でこんなことを、平然とやってのけるのは彼女ぐらいしかいないのだ。だが、証拠がない以上、想像でものを言うわけにはいかなかったが、銀子がなにをしようとしているのか、平三には前職の事が思い出されて嫌な感じなのである。
 それは平三が忘れようとしている事を、ほじくりかき回されているような、そんな心持ちを彼にもたらしたからである。

 権田原が働いている会社は、神楽坂から離れた路地をくねくねと入った坂道にあった。道と会社の間に幅広の鉄板がかかっており、坂の上から一望できる崖下には、ごちゃごちゃとした木造家屋がひしめくように軒を並べている。その一角に古びた木造モルタルのアパートが建っていた。そこに権田原が会社から「寮」として赦された一部屋があるのだと、平三はその建物を眺めながら会社を訪れたのである。
 電話で声は聴いていたが、遭えば相当年配にしか見えない社長とまだ若そうな社長夫人が、二人で平三の来社を待っていたようだった。
 型どおりの挨拶を済ますと、二人は平三をソファに座らせ、従業員がお茶をだした。既に訪問の趣旨は伝えてある。
「真面目なんですがねー」
 と社長は権田原潔について開口一番にそう言ったが、その後があった。社長と社長夫人の話しでは、権田原の一風変わった性格が会社では禍となっているらしいのだ。
「他の運転手が彼を怖がってましてー。彼の打ち解けない態度もあるんですがね。なんせ関西のほうでは、これをやっていたそうなんで」
 と、社長は顔に指をあて縦に引いてみせた。
 平三はこころではニヤリと笑ったが、二人の前ではいかにも役人風の態度に終始して、軽くうなずく様子さえみせてやった。役所の中立性をまずは使用者に理解してもらうことが肝要だと平三がそう思ったからである。
 平三は社長と社長夫人が交互に語る話しに耳を傾けながら、ふと、前の職場で平三に楯突くようになり、遂に暴力的な行為に及んだ男のことを思い浮かべざる得なかった。そのうち、その男と権田原が二重になりだしたのに平三はおどろいた。一方は思い出したくもない者であり、もう一方は、当初は荒々しい様子をみせていたが、今では普通の態度での相談に変わって、その延長で平三が会社との調停さえ請け負うことになってしまった者であった。
 平三が思い出したくもない前職の男は、権田原とは逆に最初のうちは平三と和気藹々の交流をしていた時期もあったのだ。そうした頃には上司を交えて、アルコールを飲みながらの歓談をするほどの関係にあった。職人あがりらしいその男の器用な立ち回りに一目も置いていたほどなのだった。それが険悪な関係となった遠因を辿れば、やはり上司さえ黙認していた「必要悪」の書類の操作に関わることに違いなかった。
 こうした慣習は館長においても元より知らないはずはなかった。いや、役所の組織の全体が知っていたことでもあったが、それは知らないという全員の黙契で成り立っていた。その長年つづけられきた黙契が破れ、事の仔細が外に漏れ出すと、組織の風向きは一挙に変わるのであるらしい。
 男の態度が変わったのはそうした風向きの変化に順応した結果から来たもののようであった。館長、いや、組織の全員が男の平三への「暴行」を見て見ぬふりをしたのは、そのためであっろうと思われた。しかし、そこにもうひとつの裏の実情があったが、それを指呼することは役所内では誰もが口が裂けてもできないタブーの領域に属することだった。
 こうした黙契や禁避事項は社会のあらゆるところにあるものにちがいない。蜘蛛の巣のようにそれは軒端の陰に張られて、風に揺れていた。縁の下の地獄アリの巣もまたそれに似て、その巣に落ちた者はいわばトランプのババを引いたことになるのであった。それは社会の至る処にあるのだが、見ても見たとは言えず、知っていても知ったと言ってはならないことであった。なぜならそれは、組織が組織である以上、必要な慣行となっていたからである。
 監査が入るまえになると、経理担当者が神経質になるのがこの一件の書類であった。しっかりとした伝票が付されているかどうか。スケジュール表にその会議なり事業が記載され、その裏付けが確保されていなければならないのだ。
 平三が相談に行った総務担当者は、以前にはまさにその平三が働いていた組織の経理担当をしていた者であった。彼はそうした書類操作があることを、知らないはずはなかった。それが掌を返すかのような態度を平三にとったのは、立場が逆転していたことによる当然の結果なのだ。過去においてそうした操作に加担しながら、立場が変わればそれを禁止する側に廻る。誰もが責任を被ることから、必死に逃げようと腐心するのは、なにも小さな組織に限らない。上は一国の行政組織、また退職と同時に天下った役人が指導的はポストを占める公的なあらゆる団体にも見られる景色であった。
 社長と夫人の前で、平三はぼんやりと権田原の姿を思い浮かべていた。五十歳過ぎと思われる男が、流転の人生の末、現在の職を奪われ、また住んでいる寮まで追い出されようとしているのだ。家族を持ったことは彼にはなかったのであろうか。相談に直接に関係のないことまで、聞くことは平三には躊躇われたが、平三と顔を合わせるごとに、そうしたことを権田原が自分から語りだすのではないかと平三は畏怖をさえ感じたほどだ。それは平三も筆刀の官吏として組織に属していたからであった。
「彼は猫を飼ってましてね。それが何匹もいるんですよ」
 夫人が平三の顔を見ながら、そう言った。
「まるであのアパートは猫屋敷のようになってしまいました。近所から苦情がだいぶあるんですよ」
 猫のことは平三は初めて聞いたことだった。
「いまではあのアパートに住んでいるのは、権田原さんだけなんです。そこで餌をあげているもんですから、あのアパートが野良猫の巣ようになってまして。駄目だと注意をしているんですが、聞いていただけないものですから・・・・」
「他の運転手さんはどうしているんですか?」
「うちは車の持ち込みがほとんどでして、そうでないのは彼ひとりだけなんです」
 社長がそう口を挟んだ。持ち込んでいる車は、みな軽トラックらしかった。そういえば、アパートの前に古びた軽トラックが一台とまっているのを、平三は見たような気がした。
 物品の運送は都内と周辺に限られているようだ。平三は権田原の賃金状況を訊ね、その書類のコピーを取って貰った。少ない従業員での操業のせいか、休息時間にはさほど余裕があるとは思われない。
「会社の車には保険はかかっているのでしょうね」
 社長はおどろいた様子で、そうともそうでないともとれる、なにやらあいまいな返事で、お茶を濁そうとしていた。
「最近は、居眠り運転の事故が多いですからねー。事故ったら業務上過失致死の可能性もありますから恐いですよ・・・。ところで、権田原さんには家族関係はないんですか」
「さあ、口数が少ないああいう人ですから、私どももあの人のことはあまり知らないのです。過去にはいろいろあったようですが、はっきりしたことは知りません・・・・」
「それは関西でのことですかね」
「いや、一時は音楽関係で羽振りのよかった時期もあったようですが、こちらは運送の仕事さえして貰えばそれで充分なんですが、彼がいるんで面倒なことになっておりまして・・・・」
 ここで社長は急に話しを変えた。
「時々ですが、いまもアパートのほうからギターの音が聞こえてくることがありますね」
「数匹の猫にギターか、初めに逢ったあの男には想像もつかないものだ」
 平三はそう呟いてから、権田原が猫に囲まれてどんな音色をギターで響かせているのか、一度聞いてみたいような気がした。
「私らももう歳でして、儲けの少なくなっている仕事を止めて、あのアパートを取り壊しマンションでも建て、隠居生活に入りたいと思っているんですよ」
 社長は夫人にせきたてられたかのように、はっきりした口調でそう言った。
「社長の気持ちも分かります。この景気では利益は上がらなくてさぞ大変でしょうね。でもそうなると、権田原さんも困りますよね。住む場所から放り出され仕事もなくなってしまいます。あの年齢でまた新たに職を探すとなると今の雇用の現状からしては、難しいでしょうね・・・。社長のお話しは、法律的に言いますと会社都合の解雇ということになりますが、権田原さんがもし本件で裁判を起こすとなると、会社の方は解雇する正当な理由が必要となるでしょう。権田原さんが自分から辞めたいと言っているなら話しは別ですが、そうではないのですね。アパートの件はさておきまして、会社都合の解雇が労働関係の諸法規から問題とされることになるのですよ。社長さんもご承知とは思いますが、憲法を根拠として、弱い立場にある労働者は、法律上の保護を受けているという訳なのです」
 平三は言うべきことは言っておこうと、二人を前にこう述べて、会社側に一応の牽制をしておくことにした。あとはまた、権田原の意向を汲んで、会社とどのように折り合いをつけていくことができるのか、それを確かめる方向を探るしかないのである。個人加入の労働組合(ユニオン)を紹介して、会社と同等な立場で交渉してもらうことも考えられないこともない。
 この頃ではだいぶ穏やかな態度で接してきてはいるが、権田原の年齢からいっても、会社の言い分は彼にとり、厳しいものにちがいない。いまの権田原の生活から、それを受け入れることは容易なことではないだろう。彼の当初の強硬な姿勢では、不測な事態もあり得ないことではなかった・・・・。
 平三は権田原がなついた野良猫たちに、餌をやっている彼の姿を脳裏にうかべた。職場では仲間から懼れられ、異端視されている彼に親しい者は誰もいない。話しかけられることもなく、権田原の生活はさぞ淋しいものにちがいなかった。数匹の猫、それにギターの爪弾きだけが彼の生活に彩りを添えるものなのだ。
 平三は会社を辞すると、また崖上の坂から見える風景を一望した。崖下に軒を並べた木造住宅は、すでに半分以上が建設会社の工作機械によって取り壊されようとしていた。その向こうに高速道路が走り、かすかな騒音が聞こえたきた。夏はまだ去らずに、どことなく秋の気配をおびた空に、茜色に染まった雲が一筋流れていた。
「明日も暑くなるな」平三はそうつぶやいた。

 平三は社長と社長夫人を前に話した事が、自分の胸にこだまのように響いてくるのを感じながら、夕暮れの事務所へ戻った。
 事務所はその日は、NO残業デーのため、夜間勤務の者以外、他の職員は残っているものはいなかった。
 机の上に数枚のメモがテープで貼られていた。「権田原氏からの電話有り 鼻井」という一枚のメモが目にとまった。そしてもう一枚の朱書きのメモが銀子と共用の電話機に張られていた。
「所長が御用とのこと」という仰々しい字もやはり、鼻井銀子のものだ。
「帰ってきたのですか。鼻井さんは今すこし前に帰って、所長が残っています」
 夜間勤務の多田がそう言った。多田は一年前に当事務所へ配属となった優秀な若い職員であった。わざわざこうした事業所へ自分から希望する者はめずらしかった。たぶん、正義感にあふれた者か、または司法試験を目指してかの、そのどちらかであるのだろう。
 所長室の扉が開いて、所長が顔をだした。
「会社へ行ったらしいね。どんな情勢になっているのかな」
 よほど権田原の相談の経過が気になるらしかった。平三がまだ若く総務部の職員であった頃、他部に所属していたこの所長と廊下でよくすれ違ったことがあった。若い頃のことで、それから長い年月が経っていたせいか、所長のほうはもうすっかり平三のことを忘れているらしいが、テカテカのポマードで、髪の毛を後ろに撫でつけたヘアスタイルの青年であったのだ。
「隅田さん、これから仕事もないでしょう。軽く一杯やりますかね」
 平三はアルコールはきらいではなかったが、同じ組織の一員と飲むのは面倒であった。家に帰ってから、妻の多恵子と共にテレビの野球でも観戦しての晩酌のほうが心地よい。
「私はあと少しで退職なんですよ」
 所長はそう言いながら、平三のグラスにビールを注いだ。
「それは長いことご苦労さんでした」
 平三は元来こうした会話があまり好きではなかった。だが、その日はさほどそれが気にならなかった。むしろ、冷たいアルコールが喉ごしに快適なせいか、所長のことばが胸に沁みてこんでくるようだ。アルコールがまわってきたためか、所長のことばに長い役人生活の感慨が、自然に吐露されること多くなった。
「無事是名馬なりっていうけど、ほんとうだよね・・・」
「私は・・・無事だったのかどうか、いまだ五里霧中なのであります」
 平三はそう言おうとしたが、過去はもうどうでもいいことなのである。しかし、その過去に興味を持つものがいるから厄介であった。
「鼻井銀子先生のことは、いろいろあるようですが、ひとつ宜しくお願いしますね」
 所長はそうひと言、平三の耳に口を近づけて囁いた。それから改札口に去っていく姿を平三が目で追ったが、酔眼に映じた後ろ姿は朦朧としてもう誰の者とも、見分けがつくことはなかったのだ。

 翌日朝早く、平三は権田原へ電話を入れようとしたが、その前に彼のほうから電話があった。なにやら低い声の男の声が気になった。平三は電話で来所を促すと、その日の午後の早い時刻に、権田原がやってきた。
 後ろで括っていた髪はほどかれ、散髪をしたのかすっきりとしていた。身なりも整えられ以前の彼とは見違えるばかりである。すこし痩せたようで、最初に来たときに見られた荒々しさはみられない。口によく手を当てるのは咳を止めようとしているらしい。
 向かいのソファに座った権田原へ、平三は会社へ行って社長とその夫人に会ったことを伝えた。
「猫のことを聞かされましたよ」
 黙って聞いていた権田原は、照れくさそうな笑顔をうかべた。めずらしい表情だった。その笑顔に吸い込まれるように、思わず平三は訊いてしまった。
「権田原さんは、家族はいるんですかね」
 そう言ってから、平三は失礼を詫びた。
 彼は結婚し、娘がひとりいたこと、だがその細君と別れてしまいそれ以降は、娘とも会うこともなくなったことを、ポケットから汗を拭くために出したハンケチを、小さく折り目ただしく畳みながら、ポツリ、ポツリと話しだした。誰にしても忘れたい過去があるのだ。
「運送の仕事はきついですかね。会社の車を使っているとか」
「最近では、まわしてもらう仕事が、少なくなっているんで・・・。暇がありますから、つい近所の猫を可愛がってやっている、そんなところですよ。あそこには捨てられた野良猫がたくさんいるもんですからね」
「猫がお好きなんだ・・・」
「娘がむかし猫を一匹飼っていまして・・・・」
 権田原はそこで言い淀んだ。思い出すのが苦しいのか、頚をよじって部屋の隅の花に目を注いだ。誰かが古い造花を新しいものに取り替えてくれたらしい。黄色と赤い花が造花とはいえ、部屋を明るくしていた。
「今日は朝から暑いですね」
 ハンカチをとりだし、また、目のうえの汗を拭いた。
「そうだ、昨日、アパートを見ましたけど、あそこには今、あなただけしか住んでいないですか?」
「もうひどいボロ屋ですからね。おれと猫ぐらいしか、住もうなんて者はいないんじゃないですか。聞いているでしょうが、あそこは解体して、その後にマンションを建てたいらしいんで・・・」
 平三はすこしづつ問題の核心に迫っていこうとした。
「権田原さん、これからももちろん、あそこで働くおつもりですよね。合理的な理由がなければ、会社は勝手にあなたを解雇することなんて、法律的にはできないわけですから。あなたの意向を、いちおう確かめておきたいのですが・・・」
「それは答えるまでもないでしょう。おれはこれまで野良犬同然のような生活をして生きてきた。法律なんか知ったことではないね。だが人には義理とか人情とかがあるはずだよ。それを踏みにじる奴は、誰であろうと許せない、ただそれだけの話しなんだ・・・・」
 急に激してきた自分を嗤うかのように、権田原潔はそこでことばを切った。手の指がピクピクと震えていた。その指を一方の手が握り、両手で胸に当てた。胸が苦しいらしい。だがその姿はあたかも見えないなにものかに向かって、お祈りでもするかのように、平三にはみえた。
「一言、言わして下さい。法律はあなたのためにあると思いますがね」
 平三は急いでそう言い添えたが、その間の悪い一言が権田原に聞こえたかどうか、それは分からない。
 それよりも、なによりも、単純明解な男の論理に、平三は横面を張られたような気がした。穴でもあったら入りたくなったぐらいだ。
 平三は荒ぶる男の気持ちが、落ち着くのを待っていた。いや、それは自分自身の波立ったこころが凪ぐのを待つといっても同じことだった。
 顧みれば、平三は自分はいつから、この権田原が身に帯びている、男の灼熱して、どろどろに溶けたササラ鉄の塊のような気概を失ったままに、この五十年という年月を生きてきてしまったのか、とそう思わざる得なかった。
「権田原さん、あなたの気持ちは、よーく分かりました・・・・」
「いや、おれがこんなところに相談になんて来たのがいけなかったんだ。あなたの立場とやらを、おれはバカだから忘れてしまった。済まないね。おれはこのところ、調子がよくなくてね」
「どこかお悪いのですか」
「うん・・・まあ。また来るよ。できたらどこか外でお逢いしたいね」
 平三もそう思った。役所の中ではなく、どこかのんびりと落ち着いたところで、素顔になって、この権田原という男と話しをしたいと思った。
「一献いきますか」
 男は笑顔をつくってそう言った。
「ハッハッハ、それはできそうにありません。残念ですが・・・」
 平三は男の一言に思わずに、笑ってしまった。
「そうでしょうネェー。おれはまたあんたの立場を忘れたようだ」
 権田原は腰をあげ、部屋の扉を開けて出ていった。平三はぼんやりとして、その後ろ姿を目で追った。
 その二人の姿をちょうど二階の階段から下りてきた鼻井銀子と若い多田が足を止め、階段の上から見下ろしていた。

 その晩、平三はこれまでの人生をふりかえり、輾転反側して浅い眠りしかとることができなかった。銀子が調べている前職での一騒動を顧みれば、自分が組織の中で生きていくタイプの人間ではないことは知れたことだった。役人としてうまくやって行こうという気がもとよりない平三には、どうでもいい書類を互いに作り合い、机上に山のように積み上げ、眠たくなるような会議をして、日々をやり過ごす日常が、面白くもなんともなかった。それが相談という業務のうちには、生身の人間を相手にする緊張とそれなりのやりがいがあった。銀子や所長が平三の仕事の様子をみて、ある種の「危うさ」を感受したのは、役人の本能からは自然なことであった。
 「無事是名馬」という酒場の隅で、先夜に所長が吐露したことばは、刀筆の者の名言であろう。少しでも多くの退職金と年金をもらうためには、細心の上にも細心、石橋を叩いても渡らない慎重さは、不可欠なものなのであった。もう五十という年齢を数える平三にも家に帰れば可愛い妻子が待っていた。それを思えば、役所で働いている者の心情は理解できた。だが、彼等は元ボクサーや権田原のような相手の顔はできるだけ避けて通ろうと身構える。電話があるとマニュアルどおりの対応に徹し、型どおりの法律の講釈をした後に、関係機関の紹介をして、一件落着なのである。労働者と使用者との仲立ちをする面倒で危うい仕事は、やらないでも済ますことが出来たからである。
 ひどい場合には、机に脚を上げての電話対応でもよかったのだ。

「いいですか、もう一度言いますが、それは『公益通報者保護法』という法律上の問題ですから、これから申し上げます電話へご相談なさってください。当所ではそういう問題は扱っておりません。ええ?なんですか、あなたの役所での立場、守秘義務との関連ですか・・・・、それはあなた自身が考える問題です。相談の窓口は総務省です。当所では幾度も言うように対応することはできません」
 多田という若い職員が電話の向こうへ、甲高い声で応ずる声が平三の耳に嫌でも聞こえてきた。多田の背後に立っているのは、鼻井銀子であった。まだ新米の多田には銀子の援助を必要とする相談であった。公益と公務員の守秘義務は、きっと非常に複雑かつ微妙な問題を孕んでいるにちがいない・・・・。
 銀子が集めている平三の過去の一件には、妄りに扱えない事実が絡まっていた。それが平三を悩ましたが、銀子が下手に動けないのはそうした事実がそこに秘められていたためであったのだ。
 前職でのある夜のことだ。酒の匂いをぷんぷんさせて、平三の上司が残業をしている彼の前に現れて、平三に囁くように言った。
「君はあの男の履歴を知ってはいないのかね」
 そういうなり、履歴書が収められている管理課の鍵のかかった机の抽斗をあけて、その男の経歴書を探している。しばらく探していたが、その男の一件書類だけはいくら調べても、見つけることができないらしかった。
「おかしいね。この間までここにあったのだが・・・・。アッ!そうかあの館長がどこかへ仕舞ったんだな」
 それからその元上司は、ある秘密の事柄を低い声で平三へ囁いたのであった。
 平三はそれを聞いて、すべての「謎」が氷解していく思いがした。
なぜあの男の蛮行を誰もが目の前にしながら、止めようともせずに、見ても見ぬふりをしなければならなかったかをである。
「あいつはね。そういうわけで、非常なコンプレックスを抱えていたんだ。君が彼のそうした閲歴を知らなかったなんてね・・・・」
 酒に酔った元上司は、平三を訝りながら憫笑すると、素早く夜の職場から姿を消した。・・・・・。

 夏の太陽は衰えたとはいえ、中天の青い空から紫外線をまじえた強い直射日光が、崖下の木造モルタルのアパートに降り注いでいた。猫が数匹、その建物の陰で出入りしているのが、平三の目によく見えた。猫は長いあいだ人間と暮らしているが、あまり人間になついたようにはみえない。猫たちは自分たちの自由を、優雅にのんびりと愉しんでいるように、平三には思われた。
 坂を上がると汗が首筋を滴り落ちた。ハンケチで汗を拭き、来た道を振り返ると、一面の風景がたっぷりと水を含んだ筆を絞り、その水を筆から滴らしたかのように、陽炎がアスアルトの道のうえで強い陽光を湛えながら慄えている。
「熱いところを大変ですなー。あまり効かないクラーですがこちらへ」
 と、ソファに座らされた。事務所の中央で扇風機が盛んに首を回していたが、たしかに会社の事務室の温度は外気とさほどの変わりはないようであった。平三は早速、社長を前に前口上も略して切りだしていた。
「権田原さんの件ですが、彼の腹はどうも人並み以上にお強いらいですね。会社の希望している解雇は断固として拒否されてしまいました。当所は当事者が内々に話し合いを行うのを、側面的に手助けする機関にしかすぎません。そういうことですから、もし会社が解雇をとりさげ、彼の自主退職の条件に、なんらかのご提示をいただけるならば、もう一度彼のほうへそれを投げかけてみることは、仲介者としてできないことではありませんが・・・・」
 社長夫人が冷たい飲み物を出すと、そのまま引き下がった。
「その条件というのは、たとえばなんですか・・・・」
「端的に申しますと、彼のこれからの生活を保障するような退職金等、もろもろではないでしょうか・・・・」
 社長は渋い顔でいまにも笑いだしそうだった。だがそれを押し殺した。そして出来るだけ早期にアパートを出てくれるならば、退職金という名目ではなく、補償は出してもいいとの意向を述べ、それについて検討する時間をいただきたいとのことであった。
「社長もよくご存知のように、彼の性格からこれから彼がどうしたいのかは、私どもも分かりません。先達ても説明したように、法的には認められない解雇ということで、労基署にいくか、簡易な労働裁判に訴えるか、労働組合へ加入しての交渉となるか、或いは、そうした法的な手段のすべてを無視してしまうのか、これだけは彼には止めるよう示唆させていただきましたが、正直、彼がどうするか私ども第三者には分かりかねます。公的な機関としては仲介そのものからも、手を引かしていただくことになるかも知れませんがね・・・・」
社長は平三の言った「法的手段のすべて云々」のことばを耳にするうちに、脣の先がかすかに震えて動くのを、平三は目にとめた。

 連絡が途切れていた権田原潔から突然、夜間に来所したいとの連絡が入り、彼の姿を見たとたん、以前の彼からは一回りも痩せている男をみて平三は吃驚した。
 相談室のソファに座るなり、彼は病院から肺癌により、余命はそう長くはないと言われたことを、問わず語りに婉曲的に平三に告げたのである。平三は腹にボディーブローを浴びせられたのようなショックをうけた。そうした平三を、権田原は涼やかな眼で眺めながら、これまで語りもしなかった自分の過去を話し出した。
 高度経済成長期のあの頃、彼は歌手に成る希望に燃えて、銀座でギターの流しをしながら、一晩に数十万の金を稼いだとのことであったらしい。
 昔、銀座にあった銀巴里にはよく通い、客の要望に応じ、演歌からシャンソンまでどんな歌も覚えていたこと。美空ひばりの歌がどうして誰にも真似ができないほど、あれほどに上手いのは何故なのか。彼女がジャズから学んだものがなんであったかを、滾々と流れるがごとく語ったその後に、ひばりのある歌の旋律を静かに、小さな声で口ずさんだ。
 その歌声を聞いた平三は、権田原という男がいかに微妙な歌の技術を習得しているかに驚嘆したのであった。
 彼は我を忘れて、男に好きな歌を唄ってくれるように、そう男を促した。
「ここでやっていいのかい?」
 男は平三を正面からみつめた。
「なに構わいませんから、やってください」
 平三は即座にこれに応じた。
 権田原潔はしばし目をつぶった。それから床を靴で踏みつつ拍子をとりはじめた。
 はだけた胸に汗が吹きだし、そこに痩せた男の肋骨が平三の瞼に飛び込んできた。
 男は胸にギターを抱いた恰好で、それを爪弾くような仕草になった。ギターの音色は男の耳の奥で鳴っていた。
 それから、静まりかえった夜間の相談室から、「別れの一本杉」が抑制の利いた悲しみをもって歌われ、それに続いて、シャンソンの「枯葉」、カンツォーネの「帰れソレントへ」が、朗々と湧きだすと、次々と流れだした。
 労働相談とはおよそお門違いな歌声に、吃驚仰天した職員が、平三のいる相談室の扉をあけて、不安に脅えたような顔でこの二人をのぞき込んだ。
 平三はこころの隅のその奥のほうから、男を呼びかけ語りかけていた。

「権田原潔さん、近いうちにあなたと一献を傾けましょう。あなたが過ごした人生へのはなむけの気持ちをこめてネ・・・・」

                                              


関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード