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チューリヒ美術館展

 先日、六本木の新国立美術館で開催中のチューリヒ美術館展に行った。「印象派からシュールレアリスムまで」と銘打たれていたこともあり、是非に行きたい気がしていたのだ。昔、マックス・エルンストの絵画に一時惹かれていたこともあり、シュールレアリスムは文学ではアンドレ・ブルトン、ピエール・ド・マンディアルグ、ルイ・アラゴン、アルフレッド・ジャリ達の作品、「ナジア」や「イレーヌ」や「オートバイ」や「超男性」などを渉猟していたことがあった。だからといってリアリズムの芸術をきらったわけではもちろんない。
 今回の作品では、点数こそ少ないが、具象から抽象、そしてシュールレアリスムの絵画がずらりと並んで、それらの一点一点を見て歩くことが、まるで絵画と自分との歴史的な時間をたどりなおすような体験でもあったのだ。
 まさかスイスの画家、セガンティーニをのっけから見られるとは想像していなかったので吃驚した。つぎにモネ、ドガ、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルソー、現在上野の西洋美術館で開催のホドラーには眼を奪われるものがあった。若き日に好きだったボナール、初めて見るバルラハ、そしてベックマン、ヴァラントン、ムンク、キルヒナー、ココシュカ、とりわけアンリ・マテュスの「バルビゾン」と「マルゴ」の2枚は私には特別なものであった。なぜなら、マティスの絵画によって二十代の精神的な危機を脱することができたという経験があったからだ。ある意味では文学以上に造形美術が私の視野を拡大して刺激を与えてくれることが少なくなかったと思われるからだ。なぜマティスの絵画が私の救いとなったのであろうか。たぶんそこにある精神的なある〈秩序〉への志向性が、私の混乱を鎮めたのではなかったのではないだろうかというのが、展覧会場での私の寸感でしかなかったが、少なくともそこに私の美的な根拠の一端があることは確かなような気がした。一時、〈抽象的な法規範〉なるものに、私が牽引されたのもそのような関連があればこそではなかったのか。でなければ、エリオットの「聖杯水曜日」の詩の末節に私が賛同するわけはなかったのだろう・・・・。
 ブラック、ピカソ、クレー、モンドリアン、そしてシャガールの「パリの上で」に私は幻想と現実との美しい結晶を見たのである。あのマルロー文化相がパリのオペラ座の天井の壁画をシャガールに委ねたのに誤りはなかったのだ。
 そして、ジャコメッティーのデッサンと彫刻がシャガールと同様に、空間の比類のない抽象の具象化であることの戦慄を私は数十年を隔ててまた目前としたのである。ミロ、タンギ-、マグリットとみて、マックス・エルンストのたった一枚ではあったけれど、「都市の全景」にうかぶ浅緑色の太陽が、この地上に生命なるものが存在した初源の刻から、たとえこの種としての人類が消滅した以後も存在つづける未来の刻まで、この地球のあるべき処へ静かに光を照らし息づかせてくれる、縹渺とした表現を獲得しているように思われてならなかったのだ。





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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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