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ネコと遊ぶ

 60年ぶりに子猫と遊ぶことができた。息子が彼女を通じて、貰った二匹のメスネコちゃんだ。まだゼロ歳だから、フランスにいる娘の息子とおんなじ。家人と仔猫が暖まる電気ざぶとんを買いに行った。名前はトラ模様のほうが杏子、白とクロの模様がミントという。まだ名前を呼んでも反応がない。声と匂いを覚えてもらうしかない。子どもの頃に、黒いネコを飼っていたことがある。ネコの性格は分かっているつもりだ。この二匹は捨てられていたらしい。メスだからかな。メスは避妊手術でめんどうだからね。
 子どものころネコを捨てにいった。まだ原っぱがあった時代だ。そこへ置いてきて、走るように帰ってくると、親のクロがいなくなった子どもを探してひときわ大きな声をだしているのを見ると、胸が痛くなった。捨てないで済ませられたらどんなにいいだろう。だがそうはいかないのだ。それでなくても、ネコを飼うことには母親がよく思っていないので、子どもながら苦労していたのだ。兄が拾ってきたのだが、いつのまにか自分が面倒をみるようになった。子どもが生まれる時期になると、その場所を作ってやらなければならなかった。勉強机の一番下の抽出の下にすこし余裕の空間があった。そこに新聞紙をひき温かくなるように襤褸布を入れてやる。やがてクロが妙な鳴き声とともに、数匹の子猫を産むのである。親は生まれたばかりの子どものからだを舐め回わす。おっぱいをやる。すこしづつ大きくなる。そのうちに捨てにいかなければならない時期が迫ってくるのだ。これが子どもながらなんとも辛い体験だった。人がいうようにたしかにネコは美食家で、犬のように主人になつくことをしない。お腹がすいたときは足にまとわりついて、ご愛想のいい鳴き声で主人から離れないのだが、たいていは自分の世界に生きている。主人を忘れたわけではないが、犬のような服従心を特に示すようなことはないのだ。自分の嗜好のなかで結構元気に生きていく。そして死が間近になると、いつのまにか自分から姿を消してしまうのだ。
いまの世代のネコはしらないが、クロはそうだった。あるときいなくなった。そして、それから永遠に遇うことはないのである。「異邦人」の作家、アルベルト・カミユがネコを抱いている写真をみたことがあった。「ホテルでひとり死んでもいい」といったカミユらしい姿だった。また、「夜の果ての旅路」の作家、フェルナンド・セリーヌが窓辺でネコを抱いている写真をみたことがあった。あの痛烈な作品を書いたセリーヌは、戦後、様変わりした世間から非難を浴びせられた。ネコを抱くというより、ふてぶてしい野性味をにじませた両目で正面をむいている。まるで自分の孤独を抱きしめているようだ。
 ああ、いいなと思った。詩人やある種の作家は、ネコが好きなようだ。なぜだかわからないけど・・・・。
ネコを写真に撮るのはたいへんだ。寸時もじっとしていない。二匹でじゃれ合い、疲れるまで遊んでいる。それから、しばしのあいだ寝入る。自分かっての自由を楽しんでいる。とても平穏な日々を暮らしているこのネコをわたしは嫉妬をしているのかもしれない。
 
   ネコが二匹家を走りまわる
   寝ている顔のうえを歩く
   遊びつかれた彼女らは
   ちいさな頭をもたせかけて
   わたしの 枕のうえで ねむる


   
DCIM0416 - コピー DSC04339.jpg じゃれ合い


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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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