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なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか

 1999年、アメリカのウォシャウス兄弟が監督した「マトリックス」という映画を観た者は、人類がコンピューターに支配された「仮想現実」と戦うハッカー青年ネオ(主演:キアーヌ・リーブス)の、CGを多用した高速度で縦横無尽の活躍をする香港映画そこのけの死闘場面のシーンだけは記憶しているにちがいない。この兄弟は明らかに、フランスの「社会学の死」を宣告した「社会学者」、ジャン・ボードリアール(以下「JB」と略す)の才知に富んだ思想に影響を受けて、あの映画を作ったのだ。
 1970年代から80年代にかけて、JBは記号論の視野から現代の消費社会を鋭くかつ巧みに分析してみせくれた異才の思想家といっていい。「象徴交換と死」(1976年)は旧来の<経済学の死>を告げ、9.11のアメリカへの自爆テロを、透徹した眼差しで抉った「グローバリゼーション」と「テロリズム」という現代世界の構図を、第四次世界戦争とまで言ってのけたのだ。なぜなら、JBはソ連とアメリカの二極構造のあの「冷戦」と呼ばれた世界を、すでに第三次世界戦争と位置づけていたからだ。そして、「グロバリゼーション」という世界をデジタルな均一な仮想空間に置換することによる世界制覇のシステムが、必然的に「暴力」の誘発を内包した世界を生み出すことを示唆し、善と悪が均衡していた対称的な伝統世界が消滅した現在、ハンナ・アーレントが「人間の条件」(1958年)で指摘したあの「アルキメデスの点」に目を向けさせるのである。
 すなわち、「ガリレーによる望遠鏡の発明」により地球外の天体を観察することができるようになったことで、人間は「地球の上に立ち、地球の自然の内部にいながら、地球を地球の外のアルキメデスの点から自由に扱う方法を発見した」。このときから、人間は世界と決定的な分離を果たし、「世界に現実性としての効力をあたえたうえで、世界を追放した」のであり、人間が自己の内面の精神世界と外部の現実世界を峻別し、後者を前者の認識の対象とする段階(近代性)に到達したとき、「現実は概念の中に消え失せた」と論述するのである。
 JBは、私たちは視覚を通じて「現実」を目にしているが、それが「現実そのもの」ではなく、感覚器官が送信する情報を記号化して脳細胞が再構成した「記号化された現実」であることに、人類は「アルキメデスの点」を発見した段階で、すでに気づいていたことだとし、その後、この事態が個人の出来事を超えて社会全体に拡大したことで、「シミュレーションの時代」を出現させたのだ、と宣言したのである。
 写真家でもあるJBは、「現実の消滅」という例示を、アナログからデジタルへの移行によるイメージの消滅にみて、ネガ=陰画の消滅は、写真という一回かぎりの行為の終わりをもたらし、イメージは特異のモノ=客体であることをやめて、データ処理の過程をつうじて原理的には無限に反復され、修正され、加工され、あるいは消去されてしまうこととなると述べている。
 ここで、詩人であり日本の代表的な思想家である吉本隆明と、一九九五年、紀伊国屋ホールに来日したJBとが行った対談「JB×吉本隆明世紀末を語るーあるいは消費社会の行方について」という一冊の本が思い起こされるのだ。この対談は阪神・淡路大震災後と地下鉄サリン事件が起こる前、そのちょうど中間時点で開催された。
 この対談の冒頭講演で、JBは「眩暈」の著者であるエリアス・カネッティーのことばを引用している。
ー時代のある一定の地点を越えると、歴史はもはや現実ではなくなる。全人類は、自分でも気づかないうちに、突然現実から離れてしまうだろう。そのあとで起こるすべてのことがらはもはやすこしも真実ではないのだ。われわれはそのことを理解できなくなっている。この地点を発見することができていない以上、われわれは現在の破壊的状況のなかで堪え忍ばないわけにはいかないだろう。

 若い頃に、カフカの文学によって底のぬけた奇怪な世界を知らされ、その眩暈から抜け出せずに貧寒とした靄の中を彷徨させられた経験を、私はここで思い起こさないわけにはいかないのである。それは「審判」や「城」という作品のなかにある「寓意的」な世界であったが、タガが外れてしまった一種の精神の陥没状況であった。
 カフカの読書体験こそは、私の「青春」をその内面から挫折させた契機になっていたのかも知れないが、いまでも、その原体験を客観化することができないでいる・・・。ひょっとして、カフカは、JBの言う「現実の消滅」後の世界をすでに現体験していたのではないのだろうか。いまそれを、カフカの著作に基づいて云々することはできないが、私の精神がその影をいまもって引き摺っていないとは言えないのである。
 「現実」が現実感を持たないのは、青年期(アドレッセンス)の「生」の特徴のひとつかも知れないが、JBの予言的な言説に対し、対談の相手である吉本隆明はつぎのようなことを言っている。
ーこの消費資本主義社会がもっと進んでいって・・(中略)・・九割九分の人が自分が中流だ、つまり、なすことやること悪いことはひとつもないという・・・意識になったときには、社会の≪ 死 ≫がくるわけです。だけれども、そこで世界は終わりということではなくて、あとは死後の世界がきます。・・・21世紀の初期には、消費資本主義の社会はそこに到達しているだろうと考えています。
 さらに、吉本はこう続けている。
ーぼくらはやっと社会の<死>の姿が見えるようになったところですから、あとは臨死体験みたいなものを介して、アップアップしている自分を含めて見える社会がどうなっていくか、それははっきりつかまえたいということが、ぼくらの課題になっております。
 この吉本のいう課題に照応するがごとく、JBはこのブログの表題のようなフレーズを問い、それは「現実の消滅」と「人間の消滅」が世界の終わりではなくて、気づかないうちに「消滅後」の世界に生きていること。そこでは、人間精神に主体として位置をあたえたあのアルキメデスの点は逆転され、「人間が世界のことを考えるのではなくて、世界が人間のことを考えている」(JB「パスワード」NTT出版)そうした状況が、すでに出現しているのだろうか、と書いている。
 たしかに、カフカはこの逆説をつぎのような、現在では有名はことばで表現していたのだ。
ー人間と世界の戦いでは、世界に支援せよ!
 あの毒虫に変身したグレゴリー・ザムザに、この世界をまるで裏側の反世界の角度から眺める、透明な視線を感じたのは、果たして私の若き日の特異な読書体験だと済ますことができるのであろうか。
 もうむかしのことになるが、勤め先のある有楽町駅前のロータリーの歩道を渡ろうとし、前から前進してきたバスの巨体に、私は一人の人間の巨大な身体をたしかに実感したことがあったが、そのとき、オーストリアの作家の小説「特性のない男」がふと、あたまを掠めたことがあったのを忘れることができない。
 そして、やはりというように、JBはこの同作家の未完の大作から、主人公ウルリヒの独白を引用する。
ー今日では、責任のこの重心は、もはや人間の中にあるのではなくて、ことがらの相互関係の中にある。体験が人間か ら引きはがされてしまったことに、人々は気づかなかったのだろうか。
 C’est genial mais c'est dingue!( 気が利いているが、変わっているね!)と呟かざる得ないJBの主張と著作活動は、2007年3月、77歳の彼の死によって完了したが、JBの「死後の世界」は終わることはないであろう。
 1999年にアカデミー賞をうけた映画「ブレッドランナー」は、CGによる斬新な映像と深いテーマ性で、観客を震撼させたが、監督は「マトリックス」と同じウォシャウス兄弟であった。原作はフィリップ・K・ディックのSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」であるが、この映画はアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存され、全米週末興行収入成績第2位を記録したという。そして、現在、ジェームズ・キャメロン監督の3D映画「アバター」も多数の観客を動員していると報じられているが、フランスに在住中のCGの専門を業とし「ヘービーレイン」の制作に携わった私の娘によると、構想から14年の歳月をかけたこの映画にはCG技術に相当額のコストを費やしているらしく、また、私の友人は3Dの映像でこの映画を観て、目の疲労と同時に特殊撮影が凄いとの感想を洩らしていた。
 3D映画は20年ほど前に、偶然に入った映画館で観たこともあり、私はその時に、普段は気がつかない人間の視覚活動の「調整能力」に逆に驚嘆したことで、絵画芸術(当時、私は「マテュス論」を構想中であった)にある示唆を得たことを覚えている。そして、「アバター」を観に、私も上野の映画観へ駆けつけたのだが、残念ながら3Dではなかった。しかし、この映画の浮遊感にはある強烈な印象をうけたのであった。なぜなら、この浮遊感は海をダイビングした経験のある者なら、みな知っている愉悦の感覚だからである。いや、そればかりではない。この映画に登場する衛星パンドラの世界には、なんと多くの海の中にいる生物の表徴で満ちていることであろう! 
 そこには、「ツアラツゥストラ」(ニーチェ)のあの「舞踏する星」を、諸君は見なかったであろうか。「重力の霊」に支配された悪魔から解放される、あの軽やかな飛行感覚に、諸君は陶酔しなかったであろうか。
 映画のストーリーはあまりに単純なものである。しかし、「ブレッドランナー」から「マトリックス」、そして「アバター」を貫くSFの想像力が提示する「夢」の世界は、人間を抑圧する重力に抗して、あまりに貧しくなってしまった諸君の夢の彼方に、名づけようもない「虹の橋」を垣間見せはしなかったであろうか。それが例え、束の間の眩暈に過ぎないとはいえ、これこそ前世紀までの「死後」の産物にちがいないのではあるまいか?


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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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