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「狂飆」ということ

 友人が呉れた本を一冊もって、浅草のスーパー銭湯で、一日の大半を過ごした。数ある浴槽につかり、ほどよくからだが温くなったころに、階下の一室に並んだベッドに寝転んでその本を読み出した。すこし小難しい本を読みすぎたあたまの疲労を慮っての、友人の本の差し入れには感謝しなければならない。そのことは重々に承知の上で、つぎのようなことを記さねばならないのは甚だこころ苦しいところなのである。その一書を、一行一行、読み継ぎ、読み飛ばし、「美しく、艶めかしく、そして、とてつもなく怖ろしい綺譚集」と帯にある「古典の名作に、濡れ尽くしのエロスを捧げ、到達した官能の極み」なる小説を読んでいったのだ。牡丹灯籠、番長皿屋敷、邪淫の婬、怪猫伝、ろくろ首、四谷怪談、山姥、源氏物語を下敷きに、古典を現代文学に蘇らそうとする果敢にして渾身の時代小説と思われた。
 名前を呼ばれ「高倉健」と冗談を名のり、風呂あがりにからだを一時間ほどもんでもらった後、リクライニングのベッドで仰向けのからだは、ひさしぶりにのんびりとくつろいで、時間はたっぷりとあった。無数にいる日本の現代作家たちの小説は、この頃ではあまり期待することが少なくなるなか、好奇心もあったのだ。序でに言うと、その親切な友人は引っ越しをするというので、先日も段ボール一箱ぶんの本を我が家に車で持ち込み、それでなくとも家の壁は本だらけで、読みたい自分の本が山積みのありさまから、不要な本を置いておくスペースの余裕はないのが実情であった。まあそのことはさておいて、話しを本筋に戻すことにしよう。
 読み始めてすこしたつうちに、だんだんと白けていく感興がふる雪のごとくつもってくる。最後の一編である「白鷺は夜に狂う」の途中まできたところ、活字を追う私の目は白濁した。
「怒りが狂飆のように湧き起こりました。」
 この「狂飆」の二字が私の胸を凍えた風にすさむ心地を覚えさせたのである。それまでもいかにも古典から写したような漢字の使用は散見された。残念ながらそれらの漢字は肌になじむ衣のように文章に溶け込むことが少なく、恰も山道の浮き石のごときすがたを露呈していたのであるが、まあまあと許せる範囲におさまっているとの感慨の裡にあったところだ。余談を弄すれば、漢語が日本の文化から消え、軽い口語文がいかにもこれが現代文であるかのような傾向には違和を感じており、偶々、明治に書かれた「日本風景論」(志賀重昂)の読後、その漢文がいかに日本人の心に沁みるかに感嘆したところでもあり、漢字に単純に反感を懐いたわけではなかった。しかし、ここにきて、私の「怒りは狂飆のように湧き起こった」のである。
 この「狂飆」の二字において、私の肯う文章の限度を越えて感性は闌けて狂ったとも言えようか。
 手元の広辞苑、漢和辞典を引いてもみたがこの二字はでていない。家にある辞典では比較的に多くの用語を含む小学館の国語大辞典に、漸く見つけることができたところで、ごく最近に購入した電子辞書のEX-wordには登載されていたのに、さすがとこちらは驚嘆したところであった。源氏物語の六条御息所にこの語句が出てくるのかどうか、私は調べる煩を厭うことを良とせざるを得なかった。私の予想では式部ならこのような漢語を避けるところだと思われるところである。当節はパソコンによる文章がふんだんに造成されている。作家もプロとなれば多作でなければ、生活の糧を得ることも儘ならぬ世間であろう。一般読者を唸らせる珍しい漢語の使用も商売のうちであることは承知しているつもりである。しかしである。これは少々品下るのりではなかろうか。文章の全体にこの語句を許容するだけのエロスの濃密な風格があるのならそれもいいだろう。私は愕然として、本を閉じた。日没も迫りそろそろ吉原の灯りもちらちらする時刻である。作者の商売の邪魔をする気は毛頭ないが、私の狭い了見もまた良として、作者のご寛容を乞うべき敢えて贅言した次第だである。
 さらにこの著者を純正な作家と見て、この贅言にさらに補足することがあるとすると、私がこの本に真剣にかつ秘かに期待していたものは、帯に記されたキャッチフレーズである「女の答えは、すべてホトにございます」を、女性の作家がその深い洞察と文章の力によって、男の私を説得させてくれるエロスの秘儀の一端でも教唆してくれることであった。それは同時に作家というものの生の本質に関わることになることは言うまでもないことなのであろう。
  武田泰淳は「女について」(昭和23年)のエッセイにおいて、この本質を穿つ幾つかの名言を吐いている。有島武朗の「或る女」の葉子、葛西善蔵の「おせい」、ドストエフスキーの「ソーニア」を挙げて、「女を動物として眺めようが、神として接しようが、それは作家の自由である。しかし女の動物性が彼の動物性を、女の神性が彼の神性を通過し、それによってたしかめられていないならば、彼は動物としての女も、神としての女も創造することはできない。(中略)女が作家にとって救いであるのは、・・・・無限に開かれるのを待つ人間実存であり、男である作家が次ぎから次ぎへと未知の自己を開いて行く、無数の鍵だからである。」と。女である作家にも、これらのことは傾聴すべきことではあるまいか。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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