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「イスラーム世界と日本」―韃靼の獅子の夢

 文化講演会(1914.12.8 USAホール)
   講師;東京外国語大学特任教授 小松ひさお

 三十数年の昔、私はトルコのアンカラの古本屋で、オスマントルコ語の一冊の本を手にした。そこには日本の写真が幾枚か載っていた。買い求めて持っていたが、あるときそれを読む機会がきた。
1909年の明治末期に日本を訪れたタタール人、アブレヒト・イブラヒム(以下「イブラヒム」)が記した旅行記であった。そこには日本に寄せる思いが詳細に綴られていた。
  彼の生涯をたどると、そこにはイスラム世界と日本の出会いの数々が読めた。このイブラヒムとは何者かというと、帝政ロシアにおけるイスラムの統合を目指した運動家、筆の立つジャーナリストであった。ロシアとイスラムは一見かけ離れているが、広大なロシアにはイスラム地域があった。イスラム教徒はロシア国民の10数%の人口を占めていたが、政治的な権利等は制限され、経済的にも苦しい立場にあった。イブラヒムは1905年のロシアの変革時に、イスラム教徒の権利拡大の運動のリーダーとして活躍、将来的にはイスラム教徒の自治を主張した。サンクトペテルブルクで新聞社をもっていたが、ロシアから刑事訴追を受けた。政党を作り、オスマントルコと戦いには、同じトルコ系の民族、かつイスラム教徒同士が敵対することに反対したが、ロシアはそのイブラヒムの主張を認めなかった。ロシアに居ることができず、イブラヒムはユーラシア大陸を周遊する旅に出た。彼は一箇所に留まることができない達の人間であったようだ。シベリアのウラジオストックから日本へ、船で朝鮮に渡りそこから中国へ、シンガポールへ、そしてインドを経て、アラビヤ半島のメッカに巡礼し、オスマントルコのイスタンブールに着く旅であった。そうしてイスラム世界を一巡したのだ。同時代のイスラム世界の状況を自分の目で見たいがために、そうした大旅行をしたのである。とりわけこの旅行で長く滞在し、関心を持って記述をしたのが日本であった。1909年の2月から6月、横浜と東京に滞在し、日本と日本人を見聞した。旅行記「イスラム世界」は、副題が「日本におけるイスラーム教の普及」であった。ロシアから来たイスラム教徒、年はとっていたが意気軒昂なイブラヒムは当時の日本の新聞や雑誌に注目された。日本でつけられたニックネームは「韃靼の獅子」。ロシアの大地で鍛えた健脚は横浜と東京を徒歩で往復した。イブラヒムが最初にやったのは、日本の新聞社の訪問で、自分をアピールすることであった。国民新聞の徳富蘇峰に会い自己紹介をした。そうした活動から日本の人脈を広げていった。政治家では伊藤博文、大隈重信、犬養毅という錚々たる人物がいた。伊藤はイブラヒムにイスラーム世界を記した地図を求め、イスラム教がどういうものかを率直に質問したという。特に、イブラヒムが親密に交際をしたのは、列強の支配からアジアを解放する日本のいわゆるアジア主義者達であった。頭山満、福島いわお、大山元帥、福島やすまさという軍人達がいた。福島安正はドイツの留学の帰途、ベルリンから馬に乗って、ロシアシベリアを横断した英雄として日本で讃えられた人物であった。ジャーナリストでは徳富蘇峰、三宅雪嶺に会った。日露戦争後の日本にはロシア語が出来る人間がいて、そうした一人が同行して通訳を務めた。やがてイブラヒムは日本語とトルコ語は文法構造が似ていることから、通常の会話が出来るようになった。日本の団体との親密な交流もあった。徒歩主義同士会との交際もあり、内藤めんせつ(正岡子規の門人)たちと青梅の梅林を鑑賞した。その時の内藤の一句がある。「梅のごとき人に逢うたが日よりかな」。日本人と交流した中に、歴史を談ずる会があった。そこでイブラヒムは「日本は日出る国、西洋は落日の場所である」と巧みなスピーチを行い、ムハンマドの言葉を引用。「学問は中国にあろうともこれを求めよ」。イスラム世界の知識人が好んだ言葉であった。また「中国になければ日本に求めよ」と言った。イスラム世界はヨーロッパの科学・技術を求めようとした。川越の桜をみに行ったこともあった。滞在中は毎日見聞に歩いていた。教育機関に関心を示し、早稲田大学や東京帝国大学などを訪問した。科学の実験室や図書館を見て歩いた。アラビヤ語の辞書にサインをしたが、それは関東大震災で焼失した。東京美術学院、学習院などの女学校も尋ねた。イブラヒムは特に、日本のアジア主義者と意気投合した。当時のイスラム世界は列強に支配されていた。列強からどうしたらイスラム世界を解放できるかがイスラム世界の悲願であった。日露戦争に勝利した日本は、これまでの列強が作ってきた秩序を大きく変えていくだろうと期待したのだ。イブラヒムは日本人の特性を見て曰く。「明治以来ヨーロッパの文物を受け入れながら、固有の文化と伝統を失うことがなかった日本人は生まれつき、イスラムに近い民族である。道徳は日本人には自然に備わっている。清潔、羞恥心、忠誠、信頼、特に寛大さと勇気、日本人においては恰も天性のもののごとくである(日本の通訳はこれを「大和魂」と言ったらしい)」。ここにひとつのエピソードを紹介しよう。ある朝、道すがら茶店で茶を所望し、一銭の金をおいて去り、帰りに店の前を通ると、娘が近づいてきた。一銭では足りなかったのかと思いきや、6厘のお釣りを返されたという。こうした話しをトルコへ帰って話した。スレイマン・モスクにいたアーチスという人が詩を書いた。「日本人はイスラム教徒としての資質は充分に備えている。唯一欠けているのはアッラーへの信仰である」と。アジアの諸民族の連合を日夜努力し、韃靼によるアジアの自立の団体を作って活動するべきアジア議会という団体で活動し、オスマンのスルタンと結びつけようとした。こうした活動が日本陸軍の注目を浴び、対外的諜報活動を指揮していた宇都宮太郎(宇都宮徳馬の父:起草者注)は日記の中に書いていた。「余の胸中には、イブラヒムの何者かは知らぬが、耶蘇強国と一戦あるときは利用できるだろう」。彼はイスラム世界の重要性を認識し、アジアに広がるイスラム勢力を視野にいれていたのだ。福島やすゆきは中東を歴訪して、日本人もメッカの巡礼が必要と考え、山岡みつたろうを派遣し、インドでイスラムに改宗してメッカを日本人として初めて巡礼した。
  やがて、イブラヒムはイスタンブールで、イスラム世界の統一の活動を行う。第一次世界宣戦が始まると、戦争へ関与していく。ロシア軍の捕虜の中に、イスラム人がいたので部隊を編成してイギリス人と戦う。戦争の結果、オスマンが敗北し、ロシアに革命があり、ソ連が誕生した。イブラヒムはロシアに戻るが、イスラムという宗教は否定されていた。日本に来ようとしたが、トルコでも大変動があり、ケマルクは共和国をつくり、政治と宗教を分離した。イブラヒムは世界のイスラムを統一しようとしたが、折り合いがつかずに、トルコ政府からやっかい者扱いされ、トルコのコンヤという地に逼塞を余儀なくされた。ここはかつて帝政ロシア時代、オスマントルコへ移住したタタール人が多く棲んでいた処であった。日本の参謀本部が、日本に来てはどうかとイブラヒムを招請した。こうしてトルコでは国籍を剥奪されたイブラヒムは、東京で死ぬまで生きることになる。新日本通報に「ジハード」というタイトルの論説を発表。内容は、イスラム教徒は戦争に協力したが得るところはなかった。やがて、もうすぐに世界戦争があると予想した。その時、イスラム教徒はどうすべきか。日本共に戦おう。1938年に、東京にモスクができ、亡命タタール人が集まる場所となり、イブラヒムはこのモスクのイマームとなる。現在代々木にあるモスクは改修され、トルコ様式になり昔のものではない。イブラヒムはイスラム勢力である大日本回教教会に協力した。世界には3億のイスラム人がいる。東亜に新秩序を建設しようと、宣伝の映画を作ろうとしたが、体調をくずして遂に亡くなった。最後のことば、私はイスラム教徒だ。生涯、イスラムの統一に働いた。日本の火葬場をみたが、神よ、守り給え、この火葬場はなんと哀れなことだろうと嘆いた。遺体を焼くのは地獄を連想させたからだ。イブラヒムは多磨墓地に埋葬された。ここにイスラム教徒の専用の墓地があったのだ。政治とは別に、日本の若い学徒に出会った。その人が井筒俊彦である。このことを井筒が司馬との対談で話した。井筒はその当時は大学の助手、生きたアラビア語を勉強する機会はなかった。井筒の度重なる要請に、イブラヒムは大きな仕事があると拒否したが、そこをなんとかと頼まれ、アラビヤ語を教えることになった。井筒俊彦は日本で最初にコーランを訳した。
  さて、イブラヒムの活動をたどると、ユーラシア全域に話しは及び、20世紀の動乱をみることになる。彼はオスマン帝国、ロシア帝国、大日本帝国の終末をみた。1944年に亡くなった彼は、最後までイスラム世界の動向を追っていた。自伝を書きたいとしていたが、残念ながらそれはできなかった。イブラヒムの活動をたどると、明治の末年から昭和19年、日本の近現代史と彼を介した世界をみることができる。日本の歴史を世界史の中に見ることができる。
  イブラヒムは没後、長いこと忘れられていた。ロシアでは反イスラムの研究はタブーであったが、ソ連の解体後は故郷のカザルスタンで再評価が進んでいる。トルコでも歴史研究で、日本との研究にイブラヒムへの関心が高まっている。新たに評価をうけている。戦前の日本とイスラム世界で登場している。20世紀から現代までを見ることができる。波乱万丈の人生を送った彼は近づきがたい人物だが、「イスラム世界」はトルコで今も読まれている。日本への評価はトルコにいまもある。この本は日本のイメージの源泉となっているが、現代トルコ語で読める。本が書かれてから、一世紀が経つが、内容は貴重なものである。明治の日本を書いたものは欧米にはたくさんあるが、イスラム教徒が書いた著作はないのである。ご静聴ありがとうございました。


(註;上記の文章は1914.12.28のNHKラジオの文化講演を起こしたものです。所々、講演の口語体に修正を施し、名前は不明なものはひらがなにしました。その他、話者の言葉をできるかぎり尊重しましたが、至らぬ不備等が少なからずあろうかと思います。平にご容赦をお願いします)




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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