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「嫌がらせ」の構造

 人の世の平和を考えるには、なにも戦争にまで話しをひろげる必要はなく、ただ他人に好意的にふるまえるかどうかにかかっていて、そこからすべてが始まるのではないだだろうか。それは家庭での朝の挨拶から始まって、親しい知人への簡単な礼を交わし合うことで尽きるように思われる。礼法だとか道徳などという形式張ったことではなくて、ごく日常的なおつきあいの折々に、そうした仕草ができれば日々は平穏に治まり、そこに平和な風景が広がるように思われる。といえば、それは平和というものではなく、日常の生活のレベルの話しで、民族や国家という大概念を捨象して「平和」を想定することはできないという反論が生まれるだろう。
 「おはよう」という小津安二郎監督の映画を、いまはなくなってしまった映画館でみたことがあった。平凡でユーモラスな人びとの暮らしが描かれ、笠智衆の演ずるお父さん役の、ほのぼのとした人柄が忘れられない。「こんにちは」「いい天気ですね」などという挨拶が頻繁に交わされるこの映画には、特にこれという印象はなかったが、日本の昭和三十年代に、小津安二郎はなぜこんな映画を撮ったのだろうかと、ふとそんな思いに誘われる。
 さて、これから一転して、あの時代から六十年を経た現代に話しを移すことに、どうかご勘弁を願いたい。小津監督が一見平和で呑気な映画を撮った背景が見えてくるような気がするからだ。「いじめ」によって被害者を自殺まで追い込む小中学校の事件は、いまでは知らない人はいないだろうが、これは大人の社会でのお話しなのである。
 主に職場の相談や助言をしている旧友から、こんな話しを聞いた。
「嫌がらせ」を英語では「ハラスメント」というらしいが、どうも馴染めない英語である。生々しい事実の意味合いを、小賢しい外国語で覆い隠そうという、戦中とは逆の言葉扱いをしているのではないか。まあそれはどうでもいいこととしよう。
 だが旧友の酒を飲みながらの小咄は、実は深刻な大人の世界の事柄であった。
嫌がらせは精神的な暴力に等しいのだが、一人の人間に対して大勢でそれを行う場合は、加害者各人はその行為について、加害者意識を持たないで済む。いやむしろそれを楽しむことさえあり得るのである。むかしの江戸時代の刑罰に犯罪者を道ばたに首だけをださせて埋め、そこを通る通行人は地上に出ている罪人の首を、ノコギリのようなもので少しだけでも斬らないと、その道の通行を禁ずるという刑罰があったそうだ。あまりに残酷で不評なのでその刑罰は廃止されたそうだ。嫌がらせにもこれと同質な所業がある。
 旧友がその重たい口を開けて漏らしたのはこんなことであった。
被害者はまだ若い女性であったそうだ。旧友の前にその女性が現れたときには、自分の体験を話す力さえ失い、痛々しそうなその女性の姿を見るに忍び難いものがあったそうだ。日々の嫌がらせに堪えているうちに、とうとう精神的な病状を呈して病院通いとなり、その女性は職場に出ることができなくなり、長い休職をとるようになった。そのうちに辞職をせまられたいうことだそうだ。その職場というのが、誰もがその固有名詞を出せば、知らないはずもないカトリック系の優秀な女子大学であったそうな。
 いろいろ話しを聞いていくうち、旧友はその嫌がらせの元凶がその職場のトップの者にあることに気付くことになった。しかし、その明白な証拠を掴むことができないかぎり、加害者への慰謝料等の請求の可能性がないため、いろいろと骨を折って思案を重ねたようだった。
 そうした相談には性的な嫌がらせ(セクシュアル・ハラスメント)も暴力的な嫌がらせ(パワーハラスメント)も勿論持ち込まれるが、これは「雇用機会均等法」をはじめに、違法行為の禁止や処罰規定が存在するので、これについてもいろいろ聞かされたが、ここでは触れないことにしよう。ついでに言い添えておきたいが、性的・暴力的な嫌がらせというのは、働いている職場に関連することで、そうでない場合は労働法上の問題から外れた刑法的な事項になるのだが、どうも「セクハラ」「パワハラ」という言葉が一人歩きしているようであるとは旧友のぼやきであった。
 さて、嫌がらせほど一人の人間の人格を毀損しながら、その加害者を特定することが困難な事例はないらしい。その学校には立派な弁護士がいて、旧友とは話し合いの機会を幾度ももったという。勿論、弁護士はそこが法廷であろうがなかろうが、明白な証拠の提示がなければ全面的に事実を否定するのは当然だろう。
 旧友はそこで想像を働かせた末に一計を案じたらしいのだ。その被害をうけた前任者はどうであったのかと、その女性に問うてみたそうである。意外な表情をうかべた女性に、是非、前任者へコンタクトを取って、その人からの情報を聞き出してみて欲しいと提案したらしい。暫くして反応が返ってきた。意外にも前任者もその前々任者からも、嫌がらせがあった背景が浮かび上がって来たという。すでに海外にいる一女性からは、職場の嫌がらせが、なんとトップの一声から行われていることの情報が寄せられた。嫌がらせの内容はあまりに陰湿を極めているので、ここで敢えて縷々申し上げないことにするが、典型的なのはまず、被害者を孤立させることであった。それは朝の挨拶の無視から始まり、全員による被害者への黙殺であった。古いことばで言えば、村八分にちかい対応が、トップの態度ひとつで全員がそれに従う空気が出来上がるのが、日本的な風土では考えられないことではない。例えば、学校でいえばクラスの担任の先生の態度ひとつが、多くの生徒のその対象者への反応に、無言の影響力を持つ場合があるのだ。「シカト」はそれを受けた子供が繊細であればあるほど、その効果は絶大である。子供は萎縮する。そこへ他の子供が嵩にかかれば、渦中の子供は完全にそのクラスでの孤立を余儀なくされることになる。
 旧友が話した大学の事務室は、大学のカソリックという宗教的な教育とは、隔てられた場所であった。大学から精神的に孤立していたのは、まず、その女性が籍をおいたその職場そのものであった。そこにどういうわけか、その大学の卒業生が勤務できるポストが用意されていたらしい。事務室は教育現場では特殊な位置にある。そこの事務長が大学において、いかなる立場にあったかは、想像に難くないのだが、そこに一人当大学の卒業生が存在することで、事務長が当該の卒業生へ恒常的に嫌がらせを行わせる下地は、充分すぎるほどに整っていたといえようか。
 旧友からの結論を急ぐと、大学の弁護士へ相談者が訴える嫌がらせの事実を裏づける証言が複数でたこと、なかには一通の証言書まで確保したことを告げ、大学の対応次第では、被害者の両親は大学を相手取って提訴も辞さないそうだと宣告したという。その途端に弁護士の態度は一転して、違法な解雇通告、病気療養中の給与の保証及び精神的な苦痛を与えたことによる慰謝料を支払うことで、急遽、和解が成立したということであった。
 小津の映画との関連ということになろうが、少しだけ示唆をすると、日常の挨拶というものの社会的な有用性ということになるだろう。平和そうにみえる日常に、じわじわと見苦しい言葉や行動が蠢きだし、人びとがそれになんの痛痒も感じなくなることから、平和の根幹は蝕まれいくのではないか。その最終場面に戦争行為が現れる。二人が三人となる場面から政治が頭をもたげてくるが、それが国家単位に制度化されたものが国政に他ならない。自然の中で最も弱い葦のような存在の人間は考える前に、感ずる存在である。この感性は定義に収まらない。ここに詩や歌や文学なるものが登場する。戦争の定義に、それが政治の延長というものがあるが、政治、特に外交の段階は軽い挨拶程度の立ち話から、一国の首脳会談まで様々にあるだろう。小津監督は昭和30年代に、平和である日々の、日常の夢のような光景を、細やかな感性を息づかせて確認したかったのではないだろうか。その映像のなかから、いまは遠くなった、ホッとするような、ほのぼのとしたユーモアが立ち上るのがみえるのだ。



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はつよろです♪

なんだかファンになっちゃいました(´ェ`*)

わたしですね…このところついてなくて(汗)
すべり台を滑っても滑ってもゴールが無い感じなんて言えば少しは伝わりますか?
ものすごい急降下中なんです。。

そんなこんなで色んなブログ読み漁ってたらここで足が止まりました( ´∀`)不思議と心惹かれたんです。
masuryuuさんも色んな時間を過ごされてるんですよね。きっと。。

急なお願いで戸惑わせてしまうかもしれませんが
話し込んでみたいというか話しを聞いてもらえたらって気持ちを持たずにはいられなかったんです(○゚ε^○)

連絡してくれたら有難いです。
もしも迷惑であればコメントごと私のこと消してください。
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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