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「語学」について

 日本人の語学の習い方は、あたかも林檎の皮を剥いているだけで、肝心の林檎そのものの存在を忘れているのではなかろうか、という印象を持ったことがあった。
 あるところに、熱心なフランス語の先生がいたのだが、その先生の授業ではある言葉の用法は、辞書にでてくるような簡単な文章を作るほうがよくて、その言葉で自分の考えを表明しなくてもよいという類いの説明があった。初級レベルの授業なのでこの助言は分からなくはなかったが、ここでは敢えてつぎのようなことに拘ってみたい。
 言葉を覚えるにはまず自分というものがあって、その自分が話したいことでその言葉を使ってみることをしなくては、その言葉はいつまで経っても生きたものにならないのではないか。最初の林檎の比喩に戻れば、林檎の皮を剥くのは林檎を食べるためであって、皮を剥くことはそのためなのだが、皮剥き作業ばかりをしていたのでは私たちは林檎の実にたどりつくことはできない。               
 そこでふと思い出したのが、吉田健一の「英語と英国と英国人」という本の中にある数行の文章なのであったので、それをここに引いておきたい。
「語学を最も的確に習う方法は、文学を通してである。これはどういう言語でも、その使い方の最も見事な例は文学作品にあるばかりではなくて、結局は同じことであるが、文学作品で言葉はその最も生きた形で用いられているからである。」(「語学と文学」より)
 引用しながら恐縮なのであるが、上記の文章は日本語としてどうかと首を傾げる人がきっといるにちがいない。例えば、「結局は同じことであるが」の使い方が一種独特である。この語句をはさんで、同じ事が繰り返されているのではないかという疑問が湧くだろう。だがこの一見繰り返しにみられる文章にある独特なリズムが、吉田健一の文章の特性ではないか。(その後、「吉田健一」長谷川郁夫)に、「同意反復」は吉田健一の特徴との指摘を読んだことがある)。
 さて、ところで吉田健一という人の来歴を知っておく必要があるので、それを簡単に紹介しよう。彼(吉田健一)は吉田茂(日本の総理大臣)の長男として生まれ、外交官の父・吉田茂は外国での勤務が長く、彼はそのために日本人でありながら日本語を書くということを本格的に習いだしたのは、英国のケンブリッジ大学の学生から、父の日本への帰国に伴い日本の地を踏んで、ここから彼の日本文学への関心が起きてからのことであるという事情を考慮しなければならないからである。つまり彼が文学に彼の志望を託してからのことだったという一事を知っておかなくてはならないのだ。それはともかく、彼の言うことの中には語学学習の要点があることは否定することはできない。言葉は生きて使われることによって、はじめてその言葉を使用することの楽しみを味わうことができるのは確かなことで、この楽しみがさらに語学への精進を促すことは間違いないだろう。私がフランス語を独学しだしたのは、社会へ出てからのことで、学生の時はドイツ語を専攻した。だがフランス語に魅惑されたのは、フランスの詩人達の詩に惹かれたからで、例えば、ランボーやボードレールの詩も、それを吹き込み朗読されたレコードを聴いてからのことであった。これはフランス語に限ったことではなくて、英語もドイツ語も中国語も詩の朗読されたCDを聴くことによって、或いは、歌を聴くことによって、語学への関心が昂進されたのである。しかし、フランス語を私はこれまでに文法書の類い(「Le français fondamental」朝倉季雄著)を三度も読み、社会人向けの大学のレッスンを受けたにもわらず、一向に身につくに至らなかったのは、私の集中力の不足にもあったが、それを生きた言葉として使用する機会から遠くににあって、林檎の皮剥きに止まり、その実に齧り付くに至らなかったからだと思われる。
 英語は大学の原書講読でジョセフ・コンラッドの「闇の奥」を、ドイツ語はテオドール・シュトルムの「湖」を読み、後者はその後芥川賞を受賞した柏原兵三先生であったが、それらの文学書の魅力を味合うまでにはならなかったのは、こちらにまだ小説の魅力を受容する用意がなかったせいに違いない。私が世界文学に入れ込みだしたのは、60年代からの大学紛争が激化して授業がない日々に、偶々、コリン・ウイルソンの「アウトサイダー」を読んでからであった。そして、実存哲学研究会に参加してサルトルやカミユ等の哲学書と小説を読み出してからであったのだ。実にこの大学には多種類の同好会やサークルがひしめいて、活気を呈していた。それで私は正規の授業をそっちのけで、サークル活動に熱中した。ために専攻した学部のクラスには紛争もあって嫌気がさし、親しくは交われず社会へ出ても友人でいたのはサークルにいた数人しかできなかった(その少ない友人もみな早死にをして誰一人いない)。
 吉田健一はフランス語ではモーパンサンを読むように推奨していて、私も対訳で「首飾り」の一編を読んだことがあるが、さすがフローベールの弟子の文章は洗練されすぎており、かつまた、いまでは古くさいという趣きもあり、あまり勉強にはならなかった。それでいまはアゴタ・クリストフの「悪童日記」を読んでいる。彼女はフランス人ではないにもかかわらず、フランス語で小説を書いているため、外国人でも取っつきやすい文章を作っているのだ。
 NHKのラジオとテレビのフランス語講座もこれまでに幾度となく挑戦してきたところだが、これからも続けることになるだろう。電子辞書も新しいEX-WORDを買い、テレビとラジオの録音機器も手に入れた。あとはどれだけ語学の学習への集中と継続ができるかに懸かっているわけである。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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