FC2ブログ

 高級だが好きになれないホテルがある。
ローマのボルゲーゼ公園を眼下に眺められるそこは、大理石の玄関といい、天井の高い部屋といい、申し分のないホテルにはちがいなかった。
 しかし二人は夕方になるとそこを出た。人通りのないホテル前の寂しい坂道を下り、できるだけ客の大勢いそうな街中の小さなレストランでの夕食を好んだからだ。
だが長旅の疲れのせいか、逢ったときは楽しかった会話も次第にしめっぽくなってきていた。
「あんなホテルなんか出てしまいましょうよ。あそこの経営者はきっと元ファシストなんかにちがいないわね」
 若い女は自棄になってそんな冗談を言った。それから好きでもない煙草をしきりに吸い、あげくに男の咥えているパイプを吸わせてほしいときた。女のパイプなんて様にならないし、それにパイプの吸い方を女は知らなかった。
 女がパイプをきつく吹いたので、テーブルのうえにきざみの燃え滓が散った。あたりの客人たちが一瞬まあまあという咎めるような目つきで二人を見た。
「パイプはそっと吹かすものだよ」
男は娘をさとすようにそう言った。
 女はパイプをぷいとテーブルに投げ出した。空になった小さなカプチーノの碗にも灰が舞い落ちている。
男はパイプを上着のポケットに大事そうにしまった。それはフィレンツェ市内を流れるアルノ川の畔をあるいていているとき、飾り窓にみかけて買ったものだ。手の中に納まる小ぶりのものだが、男には気にいっていた。
 二人が旅の道中で落ち合ったのはローマであった。それからフィレンツェまでは順調だった。問題はフィレンツェのホテルに着いて、女がローマにパスポートを忘れてきたのに気づいてからである。
 日本の大使館に電話をすると、どうやら戻って取ってくるより手がなさそうだった。
「ほんとうにコンチキショウだわよ。フロントが返してくれればよかったのに」
 まさかパスポートをフロントにに預けたままだなんて男は知らなかった。
 女は代わりに取ってきてやろうとの男の提案を断ると、ふたたびローマへ戻っていった。
 男は駅まで女を見送るとそのままフィレンツェの街を散歩した。
空は青く晴れていたが風は冷たかった。
 男が街の雑踏を歩いていると、犬を連れた中年の男と女がすれ違った。とどうしたわけか、連れられていた二匹の犬がとつぜんに互いに激しく吠えだした。すると今度は犬の飼い主同士のなにやら奇妙な言い争いとなった。その口喧嘩がまるでイタリアの歌劇のアリアでも聴いているように、男の沈みがちな気分をしばし楽しませた。
 男が部屋に戻ると女は小さくなってベッドに寝ていた。帰りの車中で急に気分を悪くしたらしい。どうやら間欠的に襲ってくる吐き気になやまされているらしかった。
 そんなわけで花のフィレンツェの二人の仲は山間の天気のように不安定であった。
ホテルの朝食のことで、男はフロントの女とやり合った。フロントの女は男の剣幕に驚いた様子で引き下がった。
「どうやら日本人をバカにしているようだったな」
 男は鬱憤を晴らしたかのように言った。
「アメリカンとコンチネンタルを間違えただけのことよ」
 女はそう軽くあしらって言った。
「いや間違えたのはぼくらじゃないというてことだよ。それをはっきりとさせておかなければならなかったんだ」
 そういう男の顔を女は呆れたようにみていた。
「日本がどうだっていうのよ。ここはヨーロッパであたしたちはそのホテルのお客にすぎないってことよ」
 女はロビーの椅子に新聞を投げ出して立ち上がった。女は振り返りざま男の顔をじっと見つめると言った。
「もう一日あたしは部屋で休むことにしたいわ」
 男は女の顔をみた。妙に清々として透きとおった顔だと男は思った。
 医者を呼ぼうとの男の提案を拒むと女はベッドにもぐりこんだ。そしてその清々とした顔にかすかな微笑をうかべて、
「せっかくの花のフローレンスよ。どうか楽しんできて」
 女はそう言って男を部屋から追い出した。
 どこへ行くあても男にはなさそうだった。ドウオモの丸い屋根をした聖堂のまわりをめぐり、サン・ロレンツオの教会の裏側、メディチ家の礼拝堂の入口のまえに男は立った。
 人の列に押されるようにその建物の暗い一室で、ミケランジェロの彫刻、「曙と夕」と「昼と夜」をみた。
 その溢れでる生命力に息がつまりそうになって、男は早々に逃げるように外へでた。
 「ダビヴィテ像」のある美術館はあいにく休館だった。
 男はその裏にあるひっそりとしたサン・マルコの修道院の中にひかれるように入っていった。
 中庭の緑をめぐる深閑とした回廊。まだひんやりとした春の陽射しがその中庭を明るく照れしていた。
 男は二階への階段をのぼった。その階段の踊り場から、二階の壁一面を占めるフレスコ画が男の視野をとつぜんふさいだ。
 奇妙な模様の羽根をつけた天使が、なにごとかを右手のマリアに告げていた。放心してすこしうつむいたマリアは、腹から胸へ両腕を抱き合わせ天使のお告げを聞いているらしい。「受胎告知」(フラ・アンジェリコ)とあった。
 男はその絵のまえ、階段の途中に立って、なぜかぼんやりと長い時間をそこで過ごしたのであった。
 シニョーリリャ広場にでるとうっすらとした光がフィレンツェの空を青く彩り、サンタ・マリアノヴェツェラ教会の尖塔がその空に祈るように聳えていた。
 そして、いま二人はフィレンツェからローマに戻り、レストランでの食事の後、街中のとあるカフェのテーブルを挟んで座りこんでいるのだった。
「ともかくあたしは先に帰ることにしたいの」
 女が赤ワインのグラスの中で大きな瞳をさまよわすように呟いた。
「おれもあのホテルは好みじゃないさ。明日別のところへ移るとしよう」
 女は床の上にグイと脚を伸ばすと、鳶色の靴の爪先を小さく揺すった。
「もう一杯ワインを飲まないか」
 男は店の中をのぞいたが、だれも外へ出てくる様子はなかった。夕暮れのテラスには客のいないテーブルが白く並んでいた。
 男はテーブルに肘をついて黙ってパイプを吹かした。石畳を歩く人の足音がよく街角に響いていた。黄昏の灰色の空が街の上に低く下りてきているのだ。
「明日の天気は危なさそうだな」
 男は空を見上げまたふと街中へ視線をもどした。
 男の目が舗道を歩いていく一組の夫婦の上に落ちた。
 偶然にも女もその夫婦へ目をそそいでいた。夫のすぐ脇を静かに寄り添って歩く婦人のお腹がかすかに円みをおびているのを女はみた。
 女の指から煙草の煙が心細げに揺れながら空にのぼっていった。
 落ち着いてしっかりとした足取りで、口元に微笑さえうかべ歩いていくその夫婦の後ろ姿がやがて街角から消えると、はっきりとした声で女が言った。
「あたしは一人で考えたいことがあるわ。そして、もしかしたらしなければならないことがあるの」
 女はそう言いおわると男とおなじように空を見上げた。そのときグラスを握る女の手の甲に水の粒が小さくはねた。
 男のパイプの火口にも雨滴がおちると、ジュッという音をたてて火が消えた。
 男は驚いたようにパイプを口からはずすと、女の顔をまじまじとのぞきこんだ。
「いまきみはなんて言ったの」
「一人になって考えたいことがあるって、そう言ったわ」
「それだけかい」
「それから、やらなければならないことがあるって、そう言ったわ」
「なにをやらなければならないだって」
「それを、それを一人で考えたいって、そう言ったの」
 女はにらむように男の顔をみていた。
 店の中から肥った髭ずらの給仕が表に出てきた。
 男はワイングラスを高々と持ち上げた。
「赤をもう一杯!」
 大声で髭ずらの給仕へ言った。
 二人の客にやっと気づいたように給仕は慌てて中へ引っこんだ。
「あたしホテルのことなんか、どうでもいいことよ」
 女はそっとお腹に手をあてると、さきほどの夫婦の姿が見えなくなった街角を遠く見つめながら、小さく顫えるようにそう言った。
「雨ですよ、お客さん」
(コミンキヤ・ビオベーレ・シノーレ・シノーラ)
 肥った給仕がカフェの中からそう叫んだ。
 その給仕のイタリア語の声がテノール歌手の歌のように二人をつつむ夕闇に気持ちのいい音域を響かせ、黄昏た路地のあいだにこだましていった。




関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード