介護と労働のあいだ
最初にこの二つの分野をいっしょに論ずることはできないことを知りながら、この二つから共通することがらを提示できるかも知れないという思いで記しておきたいことがある。育児と介護休業は、法的にも制度的にも、福祉と労働の両分野に関わる問題であろうが、私がここに覚え書きていどに記しておきたいのは、両分野の専門家が見放ざるおえない領域にあることがらである。
まず、両分野から具体的な事象を例示しておきたい。ふたつとも極限的な人間の姿をもって現れる。例えば、殺人でいえば安楽死のような問題として。
ここに90歳過ぎの母親を介護している70歳に手が届くその娘が一軒の家に暮らしているとする。娘は未婚のまま、母親と暮らしてきたが、双方とも歳をとり母親には息子と嫁はいるが、当面母親の介護の世話はすでに老いの気配のみえる一人娘しかいない。娘にのしかかる介護の負担はそうとうなものとなっているが、娘は母親を老人ホーム等に預ける心持ちはまるでないようだ。親も娘もその精神的、或いは、身体的状況は限界点にきている。かといって第三者の助言を聞き入れる姿勢はなく、親子はその果てまで行く気であるらしい。
つぎに例示するのは、過労自殺をした夫のために相談にきた高齢婦人がいたが、過労死弁護団の弁護士も投げ出している具合で、会社は自殺した労働者に対し、月毎に一定額の保障を提案していた。しかし、残された細君はこの提案の意味を理解する能力を失い、すでに狂躁状態であり判断能力を喪失している模様であった。合意文書に署名しても、細君はまた同じ相談をしに来ることが想定された。子供たちは既にこの母親を遺棄しており連絡のつけようもない。
ここで言えることは、法律があり制度があり、これらに通じた専門家がいたとしても、どうにも手の施しようがないという場合なのである。
前者でいえば、公的な介護の手助けがあるが、親と子の心情にまで外から手を出すことはできない領分であろうし、後者でいえば、残った細君をどうしてあげられるかしかないだろう。だが、そこからがまた難しいハードルがありそうな気がするのである。社会のセーフガードといっても、上記のとおり限界があるのだ。
労働者派遣法の改正案が国会に審議案件に出ている。法律の手の届かないところで、いろいろな問題があるが、法律などというものはあるに越したことはない。しかし、法律は天網恢々疎にして洩らすものであることを十二分に理解しておくにしくは無いようだ。
まず、両分野から具体的な事象を例示しておきたい。ふたつとも極限的な人間の姿をもって現れる。例えば、殺人でいえば安楽死のような問題として。
ここに90歳過ぎの母親を介護している70歳に手が届くその娘が一軒の家に暮らしているとする。娘は未婚のまま、母親と暮らしてきたが、双方とも歳をとり母親には息子と嫁はいるが、当面母親の介護の世話はすでに老いの気配のみえる一人娘しかいない。娘にのしかかる介護の負担はそうとうなものとなっているが、娘は母親を老人ホーム等に預ける心持ちはまるでないようだ。親も娘もその精神的、或いは、身体的状況は限界点にきている。かといって第三者の助言を聞き入れる姿勢はなく、親子はその果てまで行く気であるらしい。
つぎに例示するのは、過労自殺をした夫のために相談にきた高齢婦人がいたが、過労死弁護団の弁護士も投げ出している具合で、会社は自殺した労働者に対し、月毎に一定額の保障を提案していた。しかし、残された細君はこの提案の意味を理解する能力を失い、すでに狂躁状態であり判断能力を喪失している模様であった。合意文書に署名しても、細君はまた同じ相談をしに来ることが想定された。子供たちは既にこの母親を遺棄しており連絡のつけようもない。
ここで言えることは、法律があり制度があり、これらに通じた専門家がいたとしても、どうにも手の施しようがないという場合なのである。
前者でいえば、公的な介護の手助けがあるが、親と子の心情にまで外から手を出すことはできない領分であろうし、後者でいえば、残った細君をどうしてあげられるかしかないだろう。だが、そこからがまた難しいハードルがありそうな気がするのである。社会のセーフガードといっても、上記のとおり限界があるのだ。
労働者派遣法の改正案が国会に審議案件に出ている。法律の手の届かないところで、いろいろな問題があるが、法律などというものはあるに越したことはない。しかし、法律は天網恢々疎にして洩らすものであることを十二分に理解しておくにしくは無いようだ。
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