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吉田健一(長谷川郁夫著)

 メールか電話だったかで「小沢書店」がなくなったのはほんとうに残念ですと誰だかが言っていたのは覚えていたが、その書店の店主が長谷川郁夫という人だとは知らなかった。また吉田健一の命日が8月3日であることを知らずに、本の巻末までその愉楽の時間を味わいつつきて、ちょうど今日がその日だなんてまるで狐に襟をつままれたようで、私はほんに仰天してしまった。これは嘘のようでほんとうの話しなのである。吉田氏の言葉に「文学とは本のことだ」という至言が、こわいように思われたのは冗談でもなんでもなくて、私がいま語ったことは事実なのだから仕方がない。
 私は吉田健一のファンではなかった。ファンになるためにはこの人ほどの学識も語学力はもとより、品性に欠けているように思われた。しかしである。私は長谷川郁夫のこの量塊のある一書を読むことで健一さんのファンになった。吉田さんの「ヨーロッパの世紀末」「英国の文学」「ラフォルグ抄」等の読者であったことは事実だが、そのあまりに早すぎた死にことばもなく、しばらく吉田さんのことを忘れていた。だが神保町の「ランチョン」には入ったことはある。それは古本屋の街路を歩いていると、「ランチョン」の硝子窓からこちらをみる視線を感じ、それでのこのこと階段を上がってテーブルに座るとそこに吉田さんがいて、私もギネスのビールを飲むことになり、それからギネス党員になったからだった。いや見えすいた嘘のようなほんとうの話しはこのへんにして、私はこの本について語らなくてはならないのだ。
 石榴の実はどの石榴の実の粒も正確に365個あるというのがスペインの巷説にあるそうだが、この本のどのページを開いてもそこに、日本では稀有な文芸評論家にして随筆家であり「金沢」等の長短篇の小説家であった吉田健一という人間が詰まっていて、あの奇天烈な笑い声が聞こえてくるのである。滋味あるエピソードには事欠かかず、むかし懐かし人の名前をみつけて、よくぞ小まめに調べてくれたものだと驚嘆するばかりであった。たとえば「『鉢の木会』異聞」におけるエピソードでは著者の筆は縦横に駆け巡って仔細を語り尽くしている感がする。
 マラルメの詩を暗唱して電話で聞かせ、篠田一士がひとつの間違いもないことを請け合ったそうだが、私はシェイクスピアの詩の魅力を教えられたのはたぶん健一氏であったし、ラフォルグの「水族館」を読んでから、上野の水族館へ幾度か通うことになったのもラフォルグというより吉田氏の翻訳のせいだろう。出雲橋の「はせ川」は探したことはあったが、私の時代にはもう見つからなかった。せめてはじ巻き岡田の菊正宗ぐらいは一人飲みに行ったことはあり、また友人を誘ってみたこともあったので私のスノッブぶりもいいところだったのだ。地方の友人が小林秀雄の全集を持っていて、吉田健一を読むとホッとしたと述懐していたがその通りであって、師の河上徹太郎と小林秀雄の最後の対談をCDで聞いていると、酔っぱらった小林秀雄のランボーぶりがそこはかとなく窺われるのでもそれは解った。この本には吉田氏の繰り返しのトートロジーを幾度か語っているのだが、私も以前にこの繰り返しをあるリズムの尊重と受け取り、それは散文より韻文で感じ考えた吉田文学の本質を言い当てているのだと思う。
このあたりで、若き日に吉田健一氏が愛読したラフォルグの長い詩「最後の詩」の最終節を引用したい。ここには「ヨーロッパの世紀末」を吉田さんが書く素地がじゅうぶんにあって、ラフォルグが詠嘆する白鳥の歌が聞こえない一行もなく、その繊細な吐息はそのまま吉田さんの溜息に重なるように思われるからなのである。

あれはあすこにゐて、今晩は何と暗いのだろう。
人生は何と騒々しいのだろう。
そして凡ては人間的で、決まり切ったことなのだろう。

我々は何と死ななければならないのだろう。

それでは、孤児の美しい眼に隠された
数々の話を愛する為に、
自然よ、私にその年になったと思ふだけの
力と勇気を与えてくれ。
自然よ、私に頭を上げさせてくれ。

我々は何れは死ぬのだから。

 ・・・・ともかくも、この一書は近年に読んだ日本文学の最良の川筋を抜き手をきって泳いでいる著者の爽快な飛沫を浴びされて、読者をして文学というものが生きることであり、それがそのまま楽しみであることを覚らせてくれる稀有なる本であることはたしかなことにちがいないのだ。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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