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戯曲「作者を探す六人の登場人物」(ルイジ・ピランデルロ作)

 二、三十年ほど昔のこと、東銀座のさる劇場で、この戯曲を一友人と見物したことがあった。
 この作家の戯曲を本棚から引っ張り出して、再読したのにはそれなりの理由があったのだが、この戯曲は当初イタリアでは不評であった。が次第に知れ渡り、幾度も上演されたあげく、作者の十数年に亘る精神を病んだ妻との生活を色濃く反映した本作品によって、ルイジ・ピランデルロはノーベル賞を受賞したのである。読者により、好悪さまざまであるが、評価する人はこの作者にドストエフスキーと同類のものを見る者もいるが、あまりに作者のふりまわす逆説とイロニーに嫌悪を示す人もいて、反応はいろいろである。作者は短編や長編の小説も書いているが、「カオス・シチリヤ物語」はたしか映画になった。長編では「死んでしまったパスカル」、ある翻訳家は「生きているパスカル」という小説もあるが、題名がこうして正反対になるのも、いかにもピランデルロらしいところだ。この戯曲は、現実と虚構とが舞台で交錯する演出法をとっている未完の作品として設定されている。悲劇でもあり喜劇でもある。ともかく、科白の幾つかを拾い上げてお見せしよう。おっと、そのまえに作者が書き付けた注意書きを先に引用しておこうかな。
「この芝居には、「幕」だの「景」だのと言うものがございません。ただ、舞台監督と「登場人物」の代表者とが、筋書きの相談のために、ちょいと引き込みます。そのとき俳優たちも失敬して休みます。それが最初の句切りになりますが、別段幕は降ろしません。二度目の句切りは、大道具主任が勘違いをして幕を降ろしたためでございます。」
 この通り、演劇の取り決めを無視した、まるで人を食った演出法である。登場人物も同様なのだ。「人」と「劇場の人々」という二種類に区分けされているのは、最初の舞台監督と父との会話にあるとおり、父の科白「われわれは生きたいのす。先生」という「人」として、父、息子、男の子、母、養女、女の子、マダム・バアスがおり、演劇の人々として、舞台監督、俳優三人、舞台主任、小道具係り、プロンプターなどが舞台に居並んでいる。
父親「・・・・先生・・・われわれは作者と探しておりましてな。」「先生、われわれはドラマの材料ここに持って参って居ります。」
舞台監督「どうぞお帰り願いたい!・・・あいにく狂人の相手をしている暇がないでしてね・・・・。」
父親「あなたは狂人の相手になっている暇はないとおしゃった。しかし自然の創造は人間の想像力に依って、より完全な状態に至るということは、誰よりもあなたがよく御存じの筈ですよ。」
 どうもこうした引用をしていた日には、この戯曲の科白のほとんどを載せる羽目になりかねない。ピランデルロの本作は、なんだか20世紀の現象学という哲学を演劇の世界に持ち込んで、演劇という既成の仕組みを内部から分解している現場に立ち会っている気がすると言っておこうか。それはフランスのヴァレリーの「テスト氏」という反小説を想起させるものがあるのであった。



もう、二、三十年ほど昔のこと、東銀座のさる劇場で、この戯曲を見物したことがあった。
この作家の戯曲を本棚から引っ張り出して、再読したのにはそれなりの理由があったのだが、それは省略しておくとしよう。この戯曲は当初イタリアでは不評であった。が次第に知れ渡り、幾度も上演されたあげく、作者の十数年に亘る精神を病んだ妻との生活を色濃く反映した本作品によって、ルイジ・ピランデルロはノーベル賞を受賞したのである。読者により、好悪さまざまであるが、評価する人はこの作者にドストエフスキーと同類のものを見る者もいるが、あまりに作者のふりまわす逆説とイロニーに嫌悪を示す人もいて、反応は様々である。作者は短編や長編の小説も書いているが、「カオス・シチリヤ物語」はたしか映画になった。長編では「死んでしまったパスカル」、ある翻訳家は「生きているパスカル」という小説もあるが、題名がこうして正反対になるのも、いかにもピランデルロらしいところだ。この戯曲は、現実と虚構とが舞台で交錯する演出法をとっている未完の作品として設定されている。悲劇でもあり喜劇でもある。ともかく、科白の幾つかを拾い上げてお見せしよう。おっと、そのまえに作者が書き付けた注意書きを先に引用しておこうかな。
「この芝居には、「幕」だの「景」だのと言うものがございません。ただ、舞台監督と「登場人物」の代表者とが、筋書きの相談のために、ちょいと引き込みます。そのとき俳優たちも失敬して休みます。それが最初の句切りになりますが、別段幕は降ろしません。二度目の句切りは、大道具主任が勘違いをして幕を降ろしたためでございます。」
 この通り、演劇の取り決めを無視した、まるで人を食った演出法である。登場人物も同様なのだ。「人」と「劇場の人々」という二種類に区分けされているのは、最初の舞台監督と父との会話にあるとおり、父の科白「われわれは生きたいのす。先生」という「人」として、父、息子、男の子、母、養女、女の子、マダム・バアスがおり、演劇の人々として、舞台監督、俳優三人、舞台主任、小道具係り、プロンプターなどが舞台に居並んでいる。

父親「・・・・先生・・・われわれは作者と探しておりましてな。」「先生、われわれはドラマの材料ここに持って参って居ります。」
舞台監督「どうぞお帰り願いたい!・・・あいにく狂人の相手をしている暇がないでしてね・・・・。」
父親「あなたは狂人の相手になっている暇はないとおしゃった。しかし自然の創造は人間の想像力に依って、より完全な状態に至るということは、誰よりもあなたがよく御存じの筈ですよ。」
 どうもこうした引用をしていた日には、この戯曲の科白のほとんどを載せる羽目になりかねない。ピランデルロの本作は、なんだか20世紀の現象学という哲学を演劇の世界に持ち込んで、演劇という既成の仕組みを内部から分解している現場に立ち会っている気がすると言っておこうか。それはフランスのヴァレリーの「テスト氏」という反小説を想起させるものだと、取りあえずつけ加えて、この文章も未完にしておこう。


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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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