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「美学」の衰退

 現代において、19世紀から20世紀までに現れた哲学と芸術(その「美的経験」)の密接な相互連関は、すでに相当程度にある距離を隔て遠景に退き、この二つの領域が知的近景において闊達に相互に浸透しうる光景を見出すことは困難になりつつある。
 ハイディガーにおけるヘルダーリンやリルケ、サルトルにおけるジャン・ジュネやボードレール、オルテガ・イ・ガゼットにおけるベラスケスやゴヤのごとく、哲学と芸術が正面に対座して礼を尽くした饗宴の席につくことは、ないわけではないが極めて稀なことになっている。
 かつて、マルセル・プルーストは「サント=ブーヴに反論する」の誌上で、「あらゆる学問とは無関係に現に芸術において存在するものはなにかを見い出せない哲学者は、芸術を学問のように想像せざるをえないのだ」と論駁した。
 しかし、ベンヤミンやアドルノらの綾なす批評がその代替的使命を担っていることは、これを諾なわざるえないだろう。たしかに「美学の構想」という正面踏破の側面では、カントからヘーゲルがその役割を遂行したように、それ以降にそのような堅固なる構想を見いだすことは甚だ難しい。
 その要員の大きなものは、現代生活の変化とそこにおける「美的経験の拡大と質的変化」として特徴的にみられる「モドルネ」(現代)と称される時代背景にあろだろう。
 かつて、「散文詩論序説」なる拙文をとある誌上に寄稿し、詩人にして一流の批評家であるボードレールの「巴里の憂鬱」の序文に、ボードレール自身が記した時代観察が「散文詩」という新しいジャンルを必要としたという述懐のなかに、「モデルネ」(現代)の潮流を辿り、萩原朔太郎の「詩の原理」や小林秀雄の初期の評論に、西欧に照応される同質な探求をさぐったことがあった。実を言えばこの論説の発端は、H賞をうけ、現在、日本現代詩人会の会長であるY氏を含めた詩人達との20年ほどの過去に交流された「散文詩」について議論への私的な回答に起因するものである。
 ―この執拗なる念願の生じたのは、わけてもあの諸々の大都会への往来と、それらの相錯綜した無数の交渉とに因っている。(ボードレール)
 スタンダールの無遠慮な表現に嫌悪さえ示したボードレールが、「美とは幸福の約束に過ぎない」と言ったスタンダールに賛同したのは、人間の宿命的な二重性を芸術の二重性に透視して「現在が現在であるという本質的な特性」から、「現代生活の画家」なる批評文において、ボードレールが風俗画家の一人物に見られる、群衆の中でときめく<好奇心>に天才の特徴を瞥見したこと自体、彼における「モデルネ」(現代)の鋭敏なる批評のメルクマールを逆に照明したところにあった。後続の詩人のランボーが、ボードレールにおける芸術生活の惑溺を非難する一方、その美的経験を咀嚼し、自身の美的経験の解体をも賭けた詩的冒険の深化と拡大の苦々しい結晶を得た由縁も、「モデルネ」への両義的な接近からである。
 ランボーは「地獄の季節」の冒頭から、「美」への苦々しい思いを吐露し己の登攀した山巓からまっしぐらにこの地上の「生活」に舞い戻る。この両極に分解する二重性の背理にこそ、「モデルネ」(現代)の特性であり、「断じて現代人でなければならない」との詩人の倫理的矜恃は、その後の詩人たちへと受け継がれていくものであった。「美」への陶酔と嫌悪はほとんど踵を接して襲来し、この稀有な詩人のうちに駆け抜けのである。
 絵画においては、ゴヤを先達とし印象主義を経由した後に登場した野獣派と目される画家の一群に、この時代変化の刻印をみるだろう。画家アンリ・マテュスにその一端を試論として開陳したが、その批判的継承者であるマルセル・ディシャンは現代芸術の美的経験を陰画のように織り込まれいることは明瞭なことだろう。
 このマルセル・デュシャン以降の「現代」において、それでは、美はいかに経験されるものなのかが問われねばならないだろう。
 かくて件に述べた現代生活の変化と美的経験の領域の拡大という二つの要因が、芸術作品という柵を越えて、自然の美や日常の道具といった「生活」場面に美の発見を求めてきたのは、現代哲学の現象学的展開と同様な軌道を描くがごとくである。若きサルトルが卓上のコップを指さされ、ここにあるコップについて語るように哲学することができると言われて、顔色を変えて驚きの表情を示したことから、フーサール現象学へのサルトルの帰依を示す有名なエピソードは、その後「現象学的存在論の試み」と副題に銘うたれた「存在と無」の大著となるが、その末尾において「自由」の倫理的・道徳的課題は宿題として残されたのだ。
 「美学」が哲学と迂遠なものになりつつあり、そこではもはや「美学の構想」の余地は想像すらもできないほどになったのは、サルトルの存在論から彼の「ボードレール論」に見られるように、芸術における「美的経験」はその足下をすくわれ、精密なる論理でその存在の根拠を破綻させられたも同然のありさまにあった。小説「自由への道」は未完に終わり、あの60年代でサルトルにできたのは、「オペラ座」を一時占拠することぐらであったのだ。
 「生活の美化」という審美的な動向が、倫理的な判断を遠ざけつつある、この現代的な知的停滞はどこまでいくのだろうか。それなら、カントを毎日鼠のように囓っていることのほうが、よっぽど気が利いているにちがいない。埴谷雄高は「カントはドストウェスキーと同じものに思われた」と、どこかに書きつけていたのだ・・・・。
 以前、このブログにおいて、「政治の美学」なる著書に注目したとき、私はこの書物の魅力に注意を喚起したが、現今の「政治の空無化」が日常生活を生きる人々を、今後ますます世界的規模で荒廃させつづける可能性を否定しえない。
 さてところで、私は以前から坂部恵という詩人肌の哲学者に惹かれていたが、「仮面の解釈学」を読むにつれなにかが氷解していくような知的戦慄を覚えた。和辻哲郎、九鬼周造等の日本の哲学の後継者として洗練さは一頭地を抜いているようにおもわれたのだ。
 子供の頃からなぜか祭りというとお神楽に惹かれ、舞台の隅にのぼり、妖しい仮面を飽かずに見上げていたことを思いだすのだが、その深い意味をようやく理解できたのである。
私に残された時間は限られているが、こうした著作の読解を通じて、私なりに「仕事」を続けていきたいと思っている。それが私が青年時代にこの社会の片隅に、隠遁者として生きる、ささやかな私の「使命」の発見であったからである。


 
      
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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