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貴腐ワイン

 数年ぶりに湯島にあるバーへ行った。
「お変わりありませんね」
 と主人がいった。主人の頭の上には雪のように白いものが落ちていた。
このバーへ初めてきたのはもう30年も昔のことだ。ドビッシーのピアノ曲から想を得て、ここを短編の背景に使ったこともあった。
田中絹代に似た感じのお母さんが、帰りかけのお客を外まで見送ってくれた。品のいいお母さんだった。
せまい店内には、典雅な蝋燭が灯って、店のなかは暗かったが、それがなんとも佳いたたずまいであった。お客もみんなゆとりのある大人で、かすかに古典の音楽がながれ、落ち着いた雰囲気を醸していた。
「ドライ・マティーニをおねがい」
 すると主人がシェイクした透明な液体が、こぶりのグラスにそそがれ、そのつめたい味わいが口と喉をスッキリとしてくれるのだった。
「やはりこれは一品だ」そういって主人をみると、カウンターのむこうで主人が満足そうに微笑をかえした。
 やがてカウンターの上に、ふるいワインが二本おかれた。
「むかし、親父が買い込んだワインでしてね。この店は今年で50年になるんですよ」
「1960年代の貴腐ワインというわけだね」
「飲んでみますか?」
 主人が冗談ともほんとともつかない顔をして、ポツリといって私の顔をみた。
「いいんですか。だいぶ値がしましょうに」
 私は出版社から、出版したばかりの原稿代として、いくらかの小金をふところにもっていた。
「50年ですよ。開けてみないとわからない」
 主人は挑むように、私の目元をみた。まるでその「50年」という歳月を秤にかけてみるかのように。
「親父さんに悪いじゃないかね」
 気後れがして、思わずそんな一言を口にした。そして、また言いたした。
「亡くなったお母さんにだってね」
 主人はそれには応じずに、
「50年なんてあっという間なんですけど、このワインはちゃんと熟成してくれているのかな」
 また、ポツリとそんな一言を吐いた。私は試されているような切迫感を覚えた。それは思い過ごしにはちがいないが、暗いカウンターに佇む主人の顔の皺と白髪がそんなことを語っているようだった。
 太い蝋燭の芯から、とろりとした液体が滴りおちる音がして、ジュっという音をたてて灯りがせまい店内に瞬いた。それはまるで命のまたたきが消えて、この世から誰かがあの世へ旅立つさまを思わせた。
「人生なんて短いもんだね」
 そんな冗談をいって、親指と人さし指を開いてみせたその友人は、それから数日を経ずに亡くなった。その顔を思い出した。
「ご主人、もういいからその貴腐ワインから、どちらかを一本選んでみてくれないかね」
「それではフランスのシャトーディケムの一本にしますか」
 ご主人はそういって、壁に架かっていた写真の歳とった男の顔をみた。その男こそシャトーディケムという愛好家垂涎の辛口ワインを作りだした男であった。ながい年月でヤスリにかけられた職人ふうの頑固だが風格のある顔であった。だがどこか芳醇な香りを隠した温かみのある樽のような風貌をみせている。
 主人が口を開け瓶をおもむろに傾けた。ワイングラスを手に持ちその底に数ミリほどをそそいだ。金色のドロリとした液体が
「さあ、これがおれだよ」
 という自負心を漂わせて底に沈んでいた。
「どうです?」
 主人が私の顔をうかがった。
私は壁に架かっているシャトーディケムの顔をみて、黙って頬笑んだ。




シャトー 貴腐ワイン

  

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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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