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小林秀雄の初期像

ーわが友Yへ捧げる


 いま、現代詩の衰退は目を蔽うべきものがある。いや、衰退というより消失の感さえすると言っても過言でないだろう。しかし、昭和の初年代にまで遡ると、西欧の近代詩の世界から、日本における批評の領野をきりひらき、文学界を先導した小林秀雄にとって、特に、西欧の近代詩は氏の近代批評の種を育み、芽を養うのに重要な要素であったことは疑いようがないほどであった。
 この小林から批評の神髄を学び、その批判を通じて独自な批評世界を展開した戦後の二人の批評家は、詩とは深い靱帯で結ばれている。その一人が詩人として出発した吉本隆明であり、後一人は江藤淳氏である。後者は明確な意思のもとに、詩なるものを自己否定して行動する散文を掲げて批評の試金石としてきた批評家であった。基底にするなり否定するなりと、その両者の様相は変われども、詩の血脈はこの二人の批評家の肉体に流れていたことに変わりはなかろう。
 本論においては、日本の近代批評の先駆者であった小林秀雄氏の初期の創作活動、特に氏が試みようとした詩的散文と友人の中原中也の死に際して書かれた詩、及び「夏よ去れ」に焦点を当ててみたい。また、氏によって書かれたこれらの詩二篇に近代文学の核心に露呈する亀裂をいかに超克しようとしたのか、そして、氏の闊達にして豊穣なる批評が全開した所以を指摘出来れば幸いである。それには今は死語となってしまった感のある「散文詩」、特に「巴里の憂鬱」を書いた詩人のボードレールを呼び出し、その対照で日本の萩原朔太郎氏に、しばし照準をむけることから始めたいのである。
 冒頭において、日本の詩の衰退、消失を語ったが、事態はそれほど明瞭なわけではない。それは「詩」と呼びえるものが、「散文」なるものと、はっきりとした境域をもって現象するものではないからである。このことは、ボードレールの西欧においても同様であった。「散文」が「詩」と区別されるには、詩人にして一流の批評家でもあったボードレールのような人物の存在と、「巴里の憂鬱」なる「散文詩」が書かれねばならなかったのである。
 ボードレールが「巴里の憂鬱」において、詩のなにを革新しようとしたのかは、その友への献辞にみることができる。
 まずそちらを概観しておこう。それによれば彼は首尾一貫した詩に換えて、「総てが、同時に、代わる代わる相互に、首でもあり尾でもある」詩を意図したのであった。ここでボードレールがわがことのように自国に紹介したポーの「詩の原理」と「構成の原理」を思いだす必要がある。ポーによれば詩は何よりもその読者に与える効果の統一に主眼を置くべきものであった。ために長編詩を退け、ミルトンの「失楽園」がごとき散文を排除し、天上の美への魂の渇仰、美の韻律的創造こそを詩の原理としたのであった。だがボードレールの散文詩においては、ポーの構成への意思は反転して、反ー構成への意思となり、読者の随意な中断を予想さえし、そのうえ詩の韻律さへ惜しげもなく捨て去ろうとするところまで変身したのである。
 この勇断には彼のつぎのような「現代」への鋭敏なる認識が閃いていたことはいうまでもない。
 ーこの執拗なる念願の生じたのは、わけてもあの諸々の大都会への往来と、それらの相錯綜した無数の交渉とに因っている。
  だが注目すべきなのは、新しい芸術的野心を説いたすぐあとに続く、つぎのようなボードレールの感慨であろう。
 ー私はこの仕事に着手するや否や、ただ私があの神秘にして燦爛たる私のお手本に、遙かに及ばないのを覚えたのみならず、   なおまた私が、それと似つかぬ何ごとかをなしつつあるのに気づいたのである              
(傍点引用者)

 これがボードレールが彼の散文詩を生みだしたとき、彼が手本とした先人のものに較べて胸中に過ぎった産後の苦い感想なのであった。
 ボードレールが告白しているように、この散文詩の先駆者は「夜のギャスパール」のベルトランであったが、その手法を「近代生活の、というよりも、寧ろある一個の近代生活の、より抽象的な叙述に適用しよう」との発想はボードレール独自のものである。彼が敢行したこの「散文詩」で重要なことは、作品の全体を、相互に頭でも尻尾でもあるような多元的な有機体としえ捉えたこと、またそれは同時に形式的な韻律を不必要としたというこの二つの事実であったのだ。 
 日本においてポーやボードレールが詩と散文にはらった原理的考察を詩の創作前の根本動機として必要とした詩人は、新体詩以来、萩原朔太郎を嚆矢とする。彼が昭和三年に、〈文壇に対する挑戦であり、併せてまた当時の詩壇への啓蒙〉を意図し、十年の歳月を閲して書かれた「詩の原理」一冊こそ、わが国で「詩」を原理的・体系的に考察しようと試みた輝くべき知の労作であった。
 朔太郎は『「詩の原理」の出版に際して』という文章の中で、つぎのように言っている。
 ー日本では「散文」と「韻文」等の言語が、全くでたらめに使用されている。西洋では、自由詩のことを無韻詩と称している。
  無韻詩とは韻律の無い詩であるから、それ自ら散文の一種であるのは明かだ。然るに日本の詩壇では、自由詩がいつも韻  文として考えられ、散文の対照のように思われている。そして一体に、こうした言語が理解されず、ひどくでたらめの語義に乱用されている。しかも言語が、かくも無定義に使用され、漠然たる曖昧の意味で考えられている間は、詩に関するいかなる認識も起こり得ない。
             (傍点・朔太郎)

 朔太郎が指摘するように、日本において詩と散文の境界があいまいであり、散文に対照されるものは韻文であり、散文と詩とは形式と内容というほど概念としては疎隔がある。所謂日本の「散文詩」とは正確には、形式と内容との言語上の混乱以外のなにものでもない。「詩の原理」がこういう皮相な言語上の混乱を透視し得たのは、ボードレールがそうであったように、この本が当時の詩人を襲った一層深い思想上の危機をのりこえようとした苦闘の産物にほかならなかったからである。
 大正から昭和の初年にかけ、新体詩の命脈はここにつき、定型律は既に無効を宣告され、西欧まがいのモダニズムと社会主義思想の台頭とに挟撃されながら、日本の近・現代の「詩」の存立条件をあらためて問わなければならない地点に、朔太郎は立たされていたのであった。
ー「詩の原理」は単に「詩の原理」であるのみではなく、同時に詩人としての僕の立場と、僕の芸術上の信条とを、世に問うて自ら明らかに示すものである。
 という朔太郎の真率な熱情がこの書物を貫いていることには驚くべきものがある。やや長くなるが、つぎのような文章にみられる異常な口吻はいったいどこからくるのか。
 ー最近の日本の詩壇は、実に自由詩の洪水である。到るところ、詩壇は自由詩によって氾濫されていると言っても好い。だがこれらの自由詩ーと人々は考えているが、果たして真の意味の自由だろうか。換言すればこれ等の詩に自由詩の必須とすべき有機的の音律美(SHIRABE)が、実に果たして有るだろうか? 吾人の見るところの事実に照らして、正真に、大胆に真理を言えば、現にある口語自由詩の殆ど全部は、すべてこの点で落第であり、詩としての第一条件を失格している。何よりも最初に、著者はこれを自分自身に就いていっておく。なぜなら著者自身が最初に失格している詩人であるから。

大正六年に「月に吠える」を現わし、「近代詩に未踏の表現の領域」(吉本隆明)を築いた朔太郎自身によるこの自己裁決にはあまりに痛ましいものがあるといわざるえない。そして、「詩の原理」一冊は朔太郎における西欧近代との格闘の場であった。この朔太郎の自己裁決はそのまま、昭和十七年の「文学界」の「近代の超克」の座談会につながっていくもと思われる。この座談会については、江藤淳のつぎのような評言をここに特記しておきたい。
 ーわれわれの「神話」が、昭和十七年の七月に決定的に勝利をおさめたきり、まだ一度も日本人によって敗北されていない(中略)・・・・同時に、その時決定的な敗北を自認せざるえなかった西欧的な近代主義者たちは、おおむねその後自力で復権していない。
       (「神話の克服」・傍点筆者)

昭和九年、朔太郎は詩人自ら「退却」とよび、そのポエジーの精神において「絶叫」と表すべき「氷島」を発表し、昭和十一年(同年二・二六事件勃発)には、「郷愁の詩人与謝蕪村」を書き、つづいて「日本浪漫派」の同人となっている。
 吉本隆明は朔太郎がのこした「新しき欲情」「虚妄の正義」「絶望の逃走」のような思想的なアフォリズムについて、
 ー日本の近代文学史のうえでは、芥川龍之介をのぞいては、朔太郎以外にはなかったのである。小説と小説のたいこ持ち程度の評論を軸にして変則的に発達をとげてきた日本の近代文学史のなかで、朔太郎が意図した思想的批評は、どこにもすわるべき場所をもたなかった。

 さてここで、日本の近・現代の「詩の原理」を確立しようと苦闘した萩原朔太郎に対し、〈小説のたいこ持ち程度の評論〉に訣別し、「批評の原理」を築こうとしたもう一人の日本人を呼び出さなければならないだろう。
 なぜなら敢えて言うなら、「散文詩」とはたんなる詩の新技法ではなく、「詩」と「散文」が重なり、相拮抗し合い、危機が火花を散らしている濃密な言語空間に立ち現れる批評的精神が、〈形〉を結ったものにほかならないからである。
 小林秀雄が「現代詩について」を発表したのは、まさに昭和十一年八月のことであった。
 〈僕は詩壇の事をよく知らないのである。そして僕の職業は文芸批評家という事になっている。詩壇の事をよく知らない文芸批評家などというものが一体何処の国にいるか知らん。先ずこういう一見甚だ単純な疑問を発してみる。ところがこの答えは容易に見つからない。
 現代において詩の衰弱といふ事は、恐らく世界的な現象だと言えるであろうが、今日のわが国の文壇ほど詩人が無力な文壇はあるまいと思う。批評家は現代詩に全く通じないで批評が出来る。文学とは小説の異名となっている。考えてみるとまことに奇怪な現象だ。西洋文学の輸入によってあわただしく発達した我が国の近代文学の世界には、よく眺めてみるといろいろこの種の特殊な現象が見付かるのである。〉
 右の文章は、小林秀雄の「現代詩について」の一文の冒頭である。さらりと書きだされたこの文章のうちには、小林が批評家として歩きだした道の、あまりの粗悪さに慨嘆する苦い口吻が窺える。詩壇の内側で悪戦苦闘した朔太郎とは対照的に、詩壇の外から、日本の現代詩の状況に対する本質的批判が展開しようとした、この小林の初発に焦点を当てようとする本論は、ここから始まるとも言えるのである。
「批評家が現代詩に全く通じないで批評ができる」。これほど奇怪なことはないが、この『奇怪な現象』のまえに立ち止まり、正面から対峙し得た数少ない批評家の中で、昭和十一年代の小林秀雄ほど現代詩についての正確な認識を披瀝し得た批評家も稀だ。それは小林の批評が、氏が告白するようにボードレールに代表されるフランスのサンボリズム(象徴主義)の精神の探求より生まれたためといってよい。小林はこの年、「現代詩について」に継いで踵を接するように、「言語の問題」を発表している。前者はわざわざ「俳句研究」に発表されたものであるが、ここで小林は詩と散文との根本的な相違を、「歌声を生命とする詩に於けるリアリズム」と「観察を生命とする小説に於けるリアリズム」の差異に見て、次のように結論している。
 〈だから詩のうちで最も純粋な形は抒情詩である。叙事詩とか劇詩とか思想詩といふものはいずれも散文詩の発達につれて、そのなかに解消されるべき運命にあるもので、小説の繁栄に対抗して起こったサンボリストの運動は、当然抒情詩の運動であった。〉 (傍点引用者)
             
 ただその抒情詩は、〈抒情の錬金が即ち自我の錬金である〉ような、〈叙情性と批評性との精妙な一致〉を具現しようとする知的精神を必須のものとみた。詩は散文との、即ち言葉の社会化の危機に対する熱烈なる反抗によって、支えられものでなければならない。しかるに当時の詩壇の状況は、〈象徴派の文学の影響を受けて、この運動の根幹を為す批評精神を受け入れ力はなかったのである〉と鋭く裁断を下している。
 これが小林がボードレールに代表される西欧近代から学んだ現代詩の認識に照らしての、日本現代詩の状況なのであった。日本の私小説が西欧の自然主義小説から、思想の変革よりも技法上の変革のみを学んだように、日本の詩人達は西欧近代詩を生んだ知的精神を抜きに、ただ気分上の技法のみを発見したのだと。
〈韻律の問題、自由詩の問題、定型、不定形の問題、さういふものはそもそも末の問題だと思ふ。(・・略・・)。詩人達もわが国の近代詩の不具合に就いて反省すべき時が来ていると考える。〉

 前述したように、小林はこの「現代詩について」の一ヶ月後に、再び日本の現代詩に言及しながら、それを批評にも通底する「言語の問題」として捉え返している。この二つの論文の底を流れているのは「リアリズム」という認識の問題である。後者の論文では既に小林は「リアリズム」という多義的な認識概念のうちに、詩とか散文という区分を放擲しているようにみえる。リアリズムという通念化した小説の武器によって、逆に言語の造形性への不信が増幅され、言語が事物の背後に隠れてしまう事態に苛立ちさへ表明しているのだ。
 〈文體といふ言葉は観察といふ言葉に置きかえられてしまった。皆巧みに書こうとするより寧ろ正しく見ようとする事を先にする。一口で言えば、独特な文體の代わりに正確な観察を置きかえる事により、作家達は、言語を観察者と観察対象との単なる中間項の様なものにしてしまったのである。〉
 小林はこういう言語の物質化は、リアリズム文学運動の自然な帰結とみる。それに対し、西欧のサンボリズムの運動は、「言語の観念性批判性」を死守するところに近代の抒情を発見しようとしたと、小林は評価するのだ。
 こういう小林の眼に、日本の詩人達はどう映ったか。
 〈わが国の近代詩人達は、昔乍らの言語の叙情性に近代的装飾を施す事に努めただけなのであって、言語の観念性批判性そのものの分析のうちに抒情性を発見しようとする様な切迫した事態には嘗て面した事はない。〉 (傍点引用者)
             
 しかしこの日本の近代詩の無力は、たんに詩だけの問題にとどまらない。なぜなら批評家の頼らざる得ないものが、まさしく言語の観念性であり、言語の論理的造形性にほかならないからだと小林は言う。
 小林による近代批評の自立が、日本の近代詩の無力をこのように望見するしかない場所で果たされようとしたことは、日本の、「散文」と「詩」の運命の狭間に出現する「散文詩」なるものを一瞥せざる得ない場所に、看過すべきことのできない一光景があることを銘記しておかねばならないだろう。

 「現代詩について」で、詩と小説のリアリズムの相違について語った小林が、批評家として真に直面していた課題が、批評をも含む言語活動における「リアリズム」という認識の問題であったのは、あまりに当然のことなのであった。そして認識とは、「見事に純粋な旋律の線と完全に維持された音響性」とによって、「十七世紀中葉以来のフランス詩に看取される散文調の傾向に対し、甚だ幸いに反発した」というヴァレリーのボードレール評価の枠の外に、「散文詩」の形式を結実させたというところに、その本領を看取しなければならないはずのものである。でなければ「これほど特殊な、これほど平均から遠い存在が、どうしてこれほどに広汎な運動を産むことができたのか」というヴァレリーの言挙げするボードレールの重要性の全貌を、捉え損ねかねず、そのことは同時に、ヴァレリー自身の「象徴主義」の原理である次のような定義に悖ることになるからである。
 〈その原理とは、自由な探求であり、そこに従事する者の一身を賭しての、芸術的創造の秩序における絶対的冒険である。〉

 昭和六年に「眠れぬ夜」や「おふぇりあ遺文」などの詩と小説と批評が同在するような文章を綴った小林も、既に昭和十一年には、日本の「批評の自立」へ向かう確固たる道を歩まねばならぬ地点に立っていたのであった。その小林の姿勢は、「言語の問題」の最終に、啖呵とも慨嘆ともなってはっきりと示されている。
 〈要するに今日の文学界では言語の問題はばらばらに提出され、ばらばらに辿られていると思う。言語の属性を小説家、詩人、批評家が、それぞれ受持を定めて辿っているような有様では、言語の問題もへちまもあるまいと考える。〉 
 私は先に、小林の「現代詩について」が、「俳句研究」という場に発表されたことに注意を促した。そのことは嘗て江藤淳が、日本におけるリアリズムの源流をもとめて、子規や虚子の写生文を分析した論考の、次のような一文とともに、記憶の一隅にとどめておくことも無駄ではなかろう。
 〈ところでこのような写生文の理論が、もともと散文論としてではなく俳論として唱道されたという事実は、興味深いこととしなければならない。〉  (「リアリズムの源流」)

 さて、道草はこれくらいにしおこう。なぜなら初期における小林秀雄の「批評家」の歩行はあまりに敏速だからである。この歩行の進行を逆転させ、初期に小林が握りしめていた問題に立ち戻って、ここに分析の手を加える試みこそ本論の眼目であるのだ。
 先に述べたように、昭和十一年に「現代詩について」を発表した小林がフランス象徴主義、特にボードレールから近代批評の原理を学んだことは言うまでもない。そして、同じ年に、小林は自ら編集責任者となっていた「文学界」において、「詩と現代精神」なる座談会を開催し、冒頭、萩原朔太郎、三好達治、北川冬彦等の詩人をまえに、次のように発言している。

「日本に昔から伝統的な詩があって、短歌とか俳句とかさういう形式がある。ところがいま僕たちが詩、詩といっておるものは、萩原さんなんかしょちゅう言ってらしゃる様に、西洋の近代詩というものがなければ、日本のいま僕らが理解している詩というものはないんですね。
 そういう僕たちの伝統的にもっている短歌とか俳句というものとの相違ですね。じゃどうしてその二つがちがうんだというその相違が、第一はっきりしないんじゃないかと思うんです。僕は詩を書いた事はないしいま批評をかいてますけどね、批評を書く前は詩ばかり読んでいた。それも殆どフランス象徴詩に限られていた。詩ばかり読んで養われたものが、いま僕が批評を書き場合に非常に助けになっているということを考える。」
     (「文学界」八月号)傍点引用者

 後で取り上げてみたいが、ここで小林が「詩を書いたことがない」というこの「僕」がこの一年後に、中原中也の死に際し、二篇の詩を書いていることは注目すべきことだとだけ言っておこう。なぜなら、そこに初期の小林がまたぎ乗り越えなけらばならない、深い溝が横たわっているように思われるからである。
 
 詩人朔太郎とは対照的に、日本における最初の批評の自覚者たる道を切り拓いたとみえる小林が、日本の現代詩へむけた疑問はあまりに性急かつ正鵠を射たものであった。同じく日本の現代詩を背負いながら、その懐疑的批判者でもあった朔太郎さえ、この小林の批評の言辞へ一瞬弁護の口吻を洩らさざる得ないところであったが、このときの小林の疑問は、当然にも自らの批評の根拠とその立場とを同時に照らし出すものであった。
 前述の「現代詩について」という文章で、小林が開口一番洩らした疑念と慨嘆、即ち「現代詩に全く通じないで批評ができる」という批評家をとりまく文壇の状況、また「文学とは小説の異名となっている」特殊・奇怪なこの現象の前に立ち止まり、正面から対峙せざる得ない小林の必然性こそ朔太郎と同根の、日本の近・現代の詩的精神の一様態にほかならないことを、ここでしかと確認しておきたいのである。

 後年、小林が屡々引用するボードレールの言葉に次のようなものがある。

 批評家が詩人になるといふ事は、驚くべきことかも知れないが 詩人が批評家を蔵しないといふ事は不可能である。私は詩人をあらゆる批評家中の最上の批評家と考える。
           (「ワグネル論」)

批評家小林秀雄がボードレールの右の一文を引用するとき、小林は自らの批評の出自と来歴を語っていることは自明だろう。しかし、このことは、江藤淳が「小林秀雄」の冒頭において、真っ先に自問するように掲げた疑問を思い浮かべざる得ない。
「人は詩人や小説家になることはできる。だがいったい、批評家になるというこということは何を意味するであろうか。あるいは、人はなにを代償として批評家になるのであろうか」
 ここには江藤自身の自画像の投影がある。即ち、「成熟」と「喪失」の物語のことだが、先に引用したボードレールの一文にも、小林が投影していた人物がいるのだ。それこそ友人であり詩人であった中原中也という厄介な存在である。なぜ厄介なのか。それは彼が生得な詩人であると同時に、小林にとって「悪縁」としか思えない一人の「批評家」でもあったからだ。
 それはつぎのように友人であった小林秀雄への批判として現れている。
「この男は嘗て心的活動の出発点に際し、純粋に自己自身の即ち魂の興味よりもヴァニティの方を一歩先に出したのです」
        (「小林秀雄小論」昭和二年)

 この「ヴァニティ」を詩人・文藝評論家の秋山駿は、つぎのように註している。
ここで「ヴァニティ」と言われているものを、中也は、自己自身の魂のことを後にしたので生活の処理がつき易くなった「機敏さ」という、日常の人間的な問題として言っているが、私にはどうしてもそれの急所は、一種の知性の問題、ついには自己発見をもたらさぬような知性の、一人の人間の生における本当の意味合いとは何か、といったような疑問であったと思われてならない。                  (「知らざる炎」)

 秋山の指摘する「知性の問題」という重要なことばに留意して、さらにさきに進もう。
 
「花びらの運動は果てしなく、見入っていると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、『突然 もういいよ、帰ろうよ』と言った。私はハッとして立ち上がり、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。『お前は、相変わらずの千里眼だよ』と私は吐き出す様に応じた。彼はいつもする道化た様な笑いをみせた」
(「中原中也の思いで」)傍点引用者

 小林は何故こうした反応をしてしまったのだろうか。ここで二人の悪縁関係は逆転しているかのように思われる。辛うじて小林は言葉を求めることで「批評家」となったというほどのものだ。
 江藤の論理で言うなら、小林が批評家になるために「代償」としたものがあるなら、それは中原と同質な「詩人」を、あえて「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と転じて、対自化してみせた知的な反射神経にあるだけのようにみえる。
 私が先に引用した座談会の小林の科白をもう一度思い起こして頂きたい。
「批評を書く前は詩ばかり読んでいた。それも殆どフランス象徴詩に限られていた。詩ばかり読んで養われたものが、いま僕が批評を書き場合に非常に助けになっているということを考える。」
 こう言う小林と「ワグネル論」の一文と重ねたところに、小林秀雄という批評家が立ち上がったと言ってしまえば、あまりに埒もないことになるだろう。
 肝心なことは、江藤が「散文による詩」と呼ぶ小林の批評の創造には、「代償」と片づけるにはあまりに深い亀裂があり、その裂傷の深部にこそ、小林に批評としての散文を創造せしめた詩的内実を探らなければならないことである。
 ときに日本の近代には、このような断層や深淵が目まぐるしい変貌の裏に、古傷のように潜んでいるが、それを直視するには、そのまま日本の文化と歴史の深層へわけいるほかないほどのものだ。小林が晩年に「本居宣長」で完成しようとした、深層の根本動機はこの小林の初期像の中に、埋め込まれていたものだとの想像は、あまりに拙速な臆断でしかないのであろうか。
 では、小林がほとんど瞼を閉じて跨ぎこえようとした深淵、これを「近代日本のアポリア」と呼んだら、それは大袈裟ではないかという異論もあるだろうが、それが小林にどのような姿態を強いていたか、それを小林の初期像に覗いてみることにしよう。

「四年たった。
 若年の年月を、人は速やかに夢をみて過ごす。私は亦さうであったに違いない。私は歪んだ。ランボオの姿も、昔の仮面を映してはいまい。」

 この「ランボオⅡ」は、「ランボオⅠ」の「人生研断家アルチュール・ランボオ」(昭和元年)のたしかに四年後に書かれている。 この昭和五年に、文藝時評を書き始めた小林は、新進批評家としの本格的な地歩を築きはじめているが、一方、昭和五年の「からくり」、六年の「おふぇりあ遺文」「眠られぬ夜」などの詩的散文とも称すべき作品を書き継いでいることを忘れるわけにはいかない。確かに小林は「人生研断家アルチュール・ランボオ」に別れたかも知れない。しかしこれをもって、小林の裡での「詩」との戦いが終わったわけでは勿論ない。「ランボオⅡ」と同時期の「からくり」にあるつぎなる言説を記憶されたい。

「俺は俺の不幸の迷路に道を失っているのかもしれない。或る時俺の幸福の大道が俺を誑かした様に。とまれ、人は夢みる術を知っている以上、夢の浪費を惜しむ事は許されまい。誑かされることが生きることではない。生きる事が誑かされる事なのだ。  
   (傍点引用者)

 これが小林が彼のランボオと別れたとき、逆手に取った認識といってよい。お望みなら「ランボオⅡ」の小林自身の言葉、「覗かねばならぬ、辿らねばならぬ私の新しい愚行」と言い換えてもよい。
 精神の劇においては、別れるとは、「別れを告げる人は、確かにいる」との断言を迫られる自己という内的なドラマの裡にしかないことを、小林は知っている。「詩による」と表される小林の批評を為す散文には、「詩」との邂逅と離別という真剣なドラマが内在する。日本の「散文」の歴史において、小林の散文ほど「詩」を感取せしめる所以は、ニーチェのつぎのことばに表出される戦いを、小林ほど正面から挑み、これを遂行したとげた者が稀であるからだ。

「まったくのところ、人が立派な散文を書くのは詩に直面したときだけだ! というのも散文は、詩との絶え間ない礼儀正しい戦いだからである。」
  (「悦ばしき知識」)傍点ニーチェ

 では、小林が彼自身の「詩」にどのように直面したのか。それを初期の小林に即してみてみよう。勿論作品に即するとは、作者の肩越しに彼の作品を覗くことである。

 小林によれば、彼がかれのランボオと出逢ったのは、二十三歳の春のことだ。それまで、小林は白樺派特に志賀直哉の顕著な影響下に、「蛸の自殺」「一ッの脳髄」「飴」「女とポンキン」という初期の短篇小説を書き綴っている。これらの私小説風の散文が、いわゆる日本的な私小説と異なるのは、日本的私小説が拠って立つ日常生活の解体の上に紡がれているということだ。その文章は一見志賀直哉ばりの写実にみえても、内実はボードレール直伝の自意識を自意識する脳髄の生活、だが梶井基次郎などと一線を画するのは、あくまで白樺派風のいわば健全なる頽廃というところに、その特色がある。
 「ランボオ」以前の処女作といえる「蛸の自殺」には、「一ッの脳髄」へと煮詰められる主調低音と、後年の小林の思想の動勢を窺わせるつぎのような文章が見えている。

「実際、謙吉は眠たかったのだが、彼には電車や汽車の中で寝られない一種の潔癖があった。潔癖なんと云うふものは、人に見せ付けて自慢しないと納まらないものかしらんーふと其んな気がして、一種の潔癖があるんだと考えた事が、此の場合に気に食わなかった。兎に角、気に食わなくても寝られないのは同じだった。」
(「蛸の自殺」)傍点引用者

 こういう屈折転倒した心理の吐露は、志賀から見つけようとしても不可能だろう。さらに「気に食わなくても寝られないのは同じだった」と一回転して現実に向き直る姿勢の片鱗は、後年の小林のリアリズムの特質を予言するものである。
 そしてつぎの一節は、後に小林がボードレールの憂鬱の球体をランボオが風穴を開けたという述懐が、どんな心理の転倒と記憶の倒置によるものでえあるかを考えさせるものである。
 同様にこの処女作から続けて二つの引用をしてみよう。

「今の謙吉には、お前の頭の中の何処かに必度神様を握もうと云う願ひが在るに相違ない、然し其れを得て終えば人間お終いなんだと云う気持で所謂、最後の一つ手前のものにこだはって居るーと云う考え方は厭だった。寧ろ奴等は一體どれだけのものを得て居るんだろう。俺は何程の損をして居るんだーと考えた度かった。」

「蒼い月の光を葦簀張の店の赤い電燈の光が交錯する下に、掘り付けられた様に浮き上がって見える砂上一面の下駄の跡が謙吉を厭な気持ちにした」

 果たしてボードレールの球体を内側から破ろうとしていたのは、寧ろ若き小林自身であったといってもよい。いかなる人間運命といえど、「向こうから来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめした」(「ランボオⅢ」) ということはないはずだ。運命の糸は秘かに自らが紡いでいるのもである。
 また、後者の文章に出る「砂上一面の下駄の跡」は「一ッの脳髄」の終末で「私」を岩にへたばらせるものであるが、これこそ小林を裸形にする「夢」の原質である。「蛸の自殺」の翌年に書かれたこの「一ッの脳髄」で、「水が滲む、水が滲む、と口の中で呟きながら、自分の柔らかい頭の面に、一足一足下駄の歯をさし入れた」という独特な表現に暗喩されているのもは、ほとんど小林の全人生の精神の行程を象徴するといってもいいほどのものだ。

 たしかに「蛸の自殺」の海は、ボードレールの、「黒ずんだ様に蒼い」憂鬱の色をうかべて停止しているが、この海にうかびながら、「何処か遠い処へ持って行って呉れないか知ら」という願望をも、懐かせる海である。この海が、ランボーの野生の原色に染めぬかれ動きだすのは、四作目の短編小説「女とポンキン」の書かれた直後、小林が小笠原へ旅行した時だ。このときの「紀行断片」(大正十四年四月)にランボーの明瞭な痕跡は、つぎのように刻まれている。

夜三等で浪花節がある。Rimbaud を読む。
Elle est retrouvee     
Quoi?―L、Etternite
C、est la mer allee
Arec la soleil
俺もランボーと共に脳髄の desorde を肯定するものだ

 この〈脳髄〉は勿論、ボードレールの憂鬱の球体、自らの尾を咬むウロボロスの、自意識を自意識する「幻滅と苦笑」(小林)の世界である。それをランボーと共に小林は解体しようとしている。この「共に」という楽天的な調子に、小林の若い喜びが現れているのも、まだほんとうに「夢をみるみじめさ」を小林が知っていないからである。小林が当時としては遠隔な亜熱帯の小笠原くんだりまで出掛けたのも、ランボーの生涯と行動との小さい模倣という稚気に類したものであったとしても、〈どこか遠い処へ〉という小林の深部に巣喰っていた願望が、ランボーの詩のビジョンに導かれ、直ちに〈実践〉へと駆りたてたところに、小林における詩的真実があったのである。
 さらに、「蛸の自殺」にみられる「最後の一つ手前のものにこだはって居ると云う考え方は厭だった」や、或いは「言はうか、言うまいかと迷って居るものが確かに自分であった。ーが言わせたものは自分以外のものであった」というように頻出する小林が傍点を付したこの〈もの〉という言葉に注意していただきたい。この〈もの〉が小林が批評文の中で〈美神〉といい〈宿命〉といい、〈自然〉といい〈謎〉といい、また〈秘密〉といい〈夢〉や〈星〉と言ったとしても、そこに象徴されるものは、世の詩人たちが詩〈ポエジー〉と呼んでいるただ一つのことであることは確かなように思われる。ただこの「もの」が小林をどこへ連れていこうとしたのか、あるいはまたこの「もの」を、小林自身がいかに内部に吸収、消化し、血肉と化そうとしたのか、そこに小林の初期像が浮かびあがるにちがいないのである。
 たしかに小林の「紀行断片」には、それまでの小林の短篇にないつぎのような自然との、直接的交流がみられる。

  烈風と、血を流した様な断崖と雪の様な飛沫と、鉛の様な雲と、黝い海と、藍で半分漂白されたビロードの様な野。へんな illusion を起こす。

 ここで小林の精神は、紛れもない自然の野生を呼吸し、処々貌をのぞかせる硬質な死の表徴は、うねり泡立つ波と風とに全身を洗っている。しかし、それらのすべてを描写する写真機のような小林の眼には、一点の錯乱もない。この機械のような精巧な眼こそ、小林に批評という散文を書かした当のものだ。小林が学生時代の評論の処女作と言った「芥川龍之介の美神と宿命」で、彼はつぎのように書いている。

 人間は現実を創る事は出来ない。唯見るだけだ、夜夢を見る様に。人間は生命を創る事は出来ない。唯見るだけだ、錯覚をもって。僕は信じるのだが、あらゆる芸術は「見る」という一語に尽きるのだ。

 この「見る」ことを為なかった芥川の文学に小林がみたものは「神経の情緒」にすぎず、その作品と自殺には何等の論理的関係はないと断ずる。愛読したと告白する芥川を敢えて小林が批判するのは、この「見る」という行為の裡に、小林の「精神の宿命」が賭けられていたがためだ。後に小林が「現代詩について」で、詩のリアリズムを歌声に、小説 散文のリアリズムを観察に置いて、截然と二つを別種のものとして扱わなければならない論理のその内的必然もここにあった。小林が芥川の作品に「理知の情熱」を感じることができないのは、この詩と散文というリアリズムの本質を転倒しながら、それを「逆接」と錯覚するしかない芥川が陥いらざる得なかったその迷妄と心理へ、極めて敏感に小林が対処し得たことにある。「逆接というものを了解しなかった逆説家」と小林が芥川を呼ぶ所以も、また「当時の僕の偶像以上の偶像」と芥川が挙げる「ヴェルレエン、ランボオ、ボオドレエル」等の詩人ほど彼(芥川)から遠いものはないとの小林の痛罵も、「理論を発明し、理論に証明され乍ら進まねばならなぬ」芸術家たる宿命の明瞭なる自覚を小林が持っていたということであり、これはまた小林の深部に蠢く「抽象的思想の力」より発されたものといってよい。この「力」を処女作「蛸の自殺」では、たんなる「もの」としか表現し得なかったことを、ここではっきりと想起しておきたい。このことは、小林にとってこの「もの」を、いかに自己の主体へと血肉化するかの実践、即ち「自分の存在が社会に対して一つのアイロニイであると感ずる事は、決して彼の創造の観念とならない」(「佐藤春夫のヂレンマ」昭和元年)ということは、夙に自明なことであった。芥川が躓いたこの近代日本の浮き石を、ボードレール・ランボオを体験することにより、己が精神の自家薬籠のものとし、自殺ではなく「自殺の理論」を創造すること、それこそが芸術家たる者の最大関心事でなければならない、これが芥川の自殺によって、小林が見てとったすべてであった。

 それではこの「見る」という行為に賭けて、小林が連れていかれた場所の光景を確認しなければならない。だがそのまえに、「蛸の自殺」の翌年に書かれた「一ッの脳髄」という小説にみえるつぎの一節に注意してみよう。
 私は机の上の懐中時計を耳に当ててその単調な音で、静寂からくる圧迫に僅かに堪えながら、凝っと前の壁を視詰めていた。と、急にドキリとした。立ち上がろうとしてハッと浮かした腰を下ろした。鎌倉の家で、夜、壁を舐めた事があった。それを思い出した。
 「もう舐めないぞ」と冗談の様に呟こうとしたが声に出なかった。私は何となく切ない真面目な気持でじっと座っていた。

 この夜に壁を舐めるという奇行を、たんに「神経病時代」の一行為とかたずけることはできない。なぜなら、「砂地に一列に続いた下駄の跡」を見てドキリとするのと、「壁を舐める」ことは、同一方向の意識の別の現れにすぎないからだ。小林の意識の舞台では、静寂の圧迫に堪えるため懐中時計に耳を当てたり、じっと前の壁を見詰めることは、そのままモーツアルトの音楽に耳を澄ませ、雪舟やゴッホの絵に視入る小林の〈批評〉への行為とさしたる径庭があるとは思われない。
 小林における「見る」という意識の内実とは、絶えずこのように「外界といふ実在」(「中原中也の思い出」)にめぐりあおうとする情熱の謂いであった。「芥川氏は見る事を決して為なかった作家である」という小林にとっての「見る」とは、もはや「人生を自身の神経をもって微分すること」では勿論あり得ず、それは「人生の相対性そのもの」へと強いられていく、その裸形にされた眼差しが見据えるもののことだ。その苛酷な情熱の果てに、小林が見たものとは何であったか。それを今は問うまい。我々はいま少し、小林の「詩」と「散文」の相渉る場所ー朔太郎はこのことを、「詩の原理」で「詩」と「非詩」の識域と言っているーを散策してみなければならないからだ。

 前述したように、昭和十一年小林は、「現代詩について」の評論と座談会に継いで、短い「言語の問題」という文章を発表している。この評論は、「現代詩について」における小林の日本の詩壇及び現代詩批判が、そのまま批評の問題として撥ね返って来ざる得ない実情を、さらに広い視座で問い返したものである。ここでの小林の認識は、観察を生命とする小説の隆盛は、言語を観察者と観察対象との単なる中間項に堕落させるものとし、言語の社会化・物質化の底にあるこの傾向は、言語の造形性に対する不信を含むものであるなら、言語の論理的造形性に頼らざる得ない文学批評をも脅やかさざる得ないものであるというのがその論旨である。小林の批評のダイナミズムと独創は、その半身を、「詩」の裡に沈めながら、その根拠そのものへの批判によってもう半身を、「散文」の裡に曝す、そういう識烈なる相対性そのものという態の情熱、またそれを裏付ける論理の動勢にある。ボードレールの「散文詩」の底に伏在する「私は私に対立する権利がある」との認識の刃は、さらに激越な調子でランボーの「散文詩」の底を喰い破るものだが、これと同質の詩精神が小林の批評を貫いている。この半身をメヴィウスの輪のようにくねらせた小林の詩精神が批評ではなく、そのまま小説(散文)の世界へ独歩し損ねた作品として、短篇「飴」がある。だが小林の詩精神は、「直ぐに人生の隣りにいる」(広津和郎「散文芸術の位置」)小説世界への変身を成し遂げさせることはなかったのだ。

 戦後、小林は「詩について」(昭和二十五年)を書き、そこで小林は広い文学史的立場に身をおいてつぎのように述べている。

散文に於いて、事物の裡に拡散して了った自己は、詩人達の仕事では、内的集中によって保たれた。詩作といふ行為の人格的必 然性に関する心労と自覚とは、人間的真理の次元に確保して来たと言えるのである。私が、青年期に象徴派詩人達に接して最も心動かされたのは、そういふものであった。

 戦後のこの「詩について」に先立つ昭和二十二年、小林における最後の「ランボオⅢ」が書かれているが、これらの時期に自らの青年期をふり返るように小林が覗いていたのは、敗戦という歴史の事実に照射され、深々と開いた自己という思想の深淵であるように思われる。その深淵は、小林により既に跨ぎ越えれれてきたはずのものであった。しかし、「言語に表れるものより内部に残っている方がずっと多い」(「『未成年』の独創性について」)、これと同じ実情が小林自身を見舞ったといっていい。
 昭和二十五年に「詩について」を書いた小林の内部には、自己の裡なる「詩」ーこれを内部に残っているものと言ってもよいーに、直に向い合おうとする率直な姿勢がある。この低い姿勢が、戦前の「ランボオⅠ・Ⅱ」や「現代詩について」と異なる闊達で平明な視野を与えていることは注目すべきことだ。この平明さは、伊東静雄の戦後の詩集「反響」に流れる深い喪失感を連想させ、伊東や保田与重郎等の「芥川を克服」しようとした「反近代」の知識人の帰趨を想起させるものだが、それでは、戦後の小林が直に向い合おうとした裡なる「詩」は、戦前の小林にいかなる姿勢を強いていたか。

 その七月に日華事変のあった昭和十二年の晩秋から冬へかけて、小林は友人の中原中也を失うとともに、小林としてはめずらしい二つの詩を相継いで書き残している。一編は「死んだ中原」、もう一編は「夏よ去れ」である。
 最初にまず、前者の詩と同時期に発表された小林の追悼文を載せておきたい。

 先日、中原中也が死んだ。夭折したが彼は一流の抒情詩人であ った。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面した馬鹿野郎どもからいろいろな事を言われ乍ら、日本人らしい立派な 詩を沢山書いた。事変の騒ぎの中で、世間からも文壇からも顧み られず、何処かで鼠でも死ぬ様に死んだ。時代病や政治病患者等 が充満してゐるなかで、孤独病を患って死ぬのには、どのくらゐの抒情の深さが必要であったか、・・・(略)・・・。

 「現代詩について」で披瀝した「詩のうちで最も純粋な形は抒情詩である」という小林の認識は、親しい友人の死に面接し破裂する勢いで吐露されている。因みに小林はそこでつぎのように書いていた。「叙事詩とか劇詩とか思想詩といふものはいづれも散文の発達につれて、そのなかに解消されるべき運命にある」と。この認識は朔太郎の「詩の原理」における「所謂自由詩」批判と同根かつ、さらにより急進的なものであることを確認しつつ、小林のつぎの詩をのぞいてみよう。

      死んだ中原

 君の詩は
 自分の死に顔がわかって了った男の詩のや うであった
 ホラ、ホラ、これが僕の骨
 と歌ったこそさへあったっけ

 僕の見た君の骨は
 鐵板の上で赤くなり、ボウボウと音を立ててゐた
 君が見たという君の骨は
 立札ほどの高さで白々と、とんがってゐたさうな

 ほのかながら確かに君の屍臭を嗅いでみたが
 言うに言はれぬ君の額の冷たさに觸ってみたが
 たうとう灰の塊りを竹箸の先で積もってみたが
 一體何が納得出来ただろう

 夕空に赤茶けた雲が流れ去り
 見窄らしい谷間に夜気が迫り
 ポンポン蒸気が行く様な
 君の焼ける音が丘の方から降りて来て
 僕は止むなく隠坊の娘やむく犬の
 生きてゐるのを確かめるやうな様子であった

 あゝ、死んだ中原
 僕にどんなお別れの言葉が言へようか
 君に取返しのつかぬ事をして了ったあの日から
 僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった

 あゝ、死んだ中原
 例えばあの赤茶けた雲に乗って行け
 何の不思議な事があるものか
 僕達が見て来たあの悪夢に比べれば
 
先の追悼の散文が詩人中原中也を対人圏に於いて語っているのに比べ、小林のこの詩は室生犀星の詩を論じた小林自身の表現をかりて言わせてもらえば、「これらの小詩の感傷は一っぱいの心を傾けて、一呼吸の裡に歌われてゐる」ように思える。しかし、「その緊張度が、抒情を見事な客観物と化してゐる」かとなれば、首肯することはできないだろう。確かに小林は中原の歌の調べに同化するかのように、中原の死という事実を、その事実性の只中から歌いだそうとしている。だが小林の歌には、微妙な屈折と口ごもりがあり、それが小林の抒情を歪めていると言わざるえない。「あゝ、死んだ中原」と小林は二度詠嘆を繰り返すが、このリフレーンではじまる第五連及び六連と、第一連から四連までとの間には、看過し得ない断層が横たわっているように思われる。この詩が抒情詩として体を為し得てているのは、この断層を「あゝ、死んだ中原」というリフレーンの転調が、暗礁にのりあげそうな詩の動きを辛うじて救いだしているからだ。再び小林自身の犀星論の間尺に照らせば、小林の詩がこの部分において、「歌い出る自意識の全面を隈なくみたして」いないという表現上の事実であろう。第四連の最後「僕は止むなく隠坊の娘やむく犬の/生きてゐるのを確かめるような様子であった」という詩句に突出し、この抒情詩の和声を破綻寸前に押しあげるものこそ、他ならぬ小林の写真機のような自意識の眼である。この、「詩と詩を眺める眼」(小林)によって、小林が芥川に見つけた、「古風な抒情詩人」になり損なっている。この小林の相対性の意識といふべきものは、死んだ中原という歴然なる事実に圧倒されながら、なおもそれ故にその事実を納得できないで、「生きてゐるのを確かめるやう」に「止むなく隠坊の娘やむく犬」を、眼で確かめなければやまない眼である。愛する他人の死を納得できないという一般的心理を、この詩句の表出は超え出ているというべきである。ここであの「一ツの脳髄」に見られた、「夜、壁を舐める」という奇怪な光景を思いだしてほしい。これこそ、小林に中原のような抒情詩もまた告白をも不可能にさせるもの、「歌聲を生命とする詩におけるリアリズム」に対し、「観察を生命にする小説におけるリアリズム」を透視させ、さらに所謂「リアリズム」を言語に於ける認識の問題として根本より把握するよう促したものっである。それは虚無より立ちあがり、「外界という実在」にめぐり遇おうとする小林の内部に存在するものなのであり、これこそ「詩と非詩の識域」(萩原)を超えて湧出する「散文詩」の精神の在様にほかならないのだ。

 それならばここで問うてみたい。小林におけるこの「散文詩」の精神が、その荒野の果てに見たものとは何であったか、また小林がめぐり遇おうとした「外界という実在」とはいかんるものなのか、を。
 昭和六年、小林はランボーの「地獄の季節」における「狂気の処女」によく似た「おふぇりや遺文」を書いている。「ハムレット様。」で始まる独白書簡体のこの一文は、小林の「詩」の在り様を鏡のようによく映しているので、その一部を引用したい。

・・・・いくら言っても同じ事です。手応へはない、水の様に風の様に、妾は何処へ行けばいいのかしらん、・・・夜が明けたら、いや、いや、そんな急ぐ事はない、妾はかうして書いてゐる方へ行けばいい、書いてゐる方へはこんで行かれればそれでいい、でも何を書いたらいいのだろう。・・・・言葉はみんな、妾をよけて、紙の上にとまって行きます。・・・・一体、何だろう、こんなもの、・・・・こんな妙な虫みたいなものが、どうして妾の味方だと思へるものか。妾は、もっと確かな顔をしたものにも、幾度も、裏切られて来た、例えば、・・・・飽き飽きしました。ねえ、だから何か外の事を書きませう、だから、書いたって書いたって、ほんとうにどうしたらいいのだろう・・・・あゝ、妾は疲れた。疲れて、あの剥げっちょろけた空が見える。あの空こそは、・・・・何も出来ない証拠です・・・・。
 
引用が長くなったが、この一文の中に、小林の内部のものと、小林が見た「外界といふ実在」の姿が二つながら映っているように思える。「書いている方へ」はこばれたいという願いは、「言葉はみんな、妾をよけて、紙の上にとまって行く」という意識によって相殺されて「妙な虫みたいなもの」と化す。小林の「詩」は、このように絶えず、「詩を眺める眼」によって解体せずにはいない。この解体の果てに見えるものが、「あの剥げちょろけた空」である。この言葉のイメージは当然のことながら、ランボーの「言葉の錬金術」のつぎの詩句を喚び覚ます。

 この黄色い瓢に口をつけて、ささやかな棲 家を遠く愛しみ、
 俺に何が飲めただろう。ああ、ただ何やら やりきれぬ金色の酒。
 
 俺は、剥げちょろけた旅籠屋の看板となっ た。
 ー驟雨が来て空を過ぎた。

 小林の愛用のこの語句が、ランボーから借りてこられたものだなどと言うのではない。ランボーの原詩は、小林により日本語として翻訳された時に、その言葉は小林のものと成り了せた。小林に於ける翻訳とは常にそういう創造行為であって、横のものを立てにしただけでなかったことは言うまでもない。初期の小林の散文詩風の作品に、随所に顔を見せるこの語句のいま一つの例をとろう。

 背景には奥行きのない、風のない、空気もはない様な、剥げちょろけた空があり、見据えていると、なまぐさく口の中が乾いて来る。私は面を背け、腹立たしい程の感動で、この孤立した文句を呟く、――。
      (「眠られぬ夜」傍点引用者)

傍点を付した箇所にみえるオクシモロン=撞着語法に注意してほしい。私はさきに小林の「リアリズム」が、虚無から身を起こし、自分を閉じこめる「外界といふ実在」にめぐり合おうとするところに現れることを指摘した。「剥げちょろけた空」という語句に形象化されているものは、小林が「紀行断片」以来ランボーとともに自意識を解体した果てに見た「外界といふ実在」の姿であった。ならばここに形象化されずに止まなかった「外界といふ実在」とは何であるのか。
 一言で要約すれば、「虚無といふ生」のことである。換言すれば「現実といふ永遠な現前(「『悪の華』一面」)なのである。
 ここに、小林という認識者の独特な相貌がみえる。小林の批評を宙吊りにするあの写真機のような眼とは、虚無に促され、「なぜか眼は見る事を強いられていた」(「眠られぬ夜」)という詩人の眼である。ひとつの虚点であるその眼に、対象はあるのではない。彼が見ることによって、そこにはじめて対象は現前する。小林が「言語の問題」を問うのは、このような地平においてだ。言語を、事物化・社会化する「リアリズム」に抗し、「言語の観念性批判性」を死守し、「言語の純粋化」を目指すフランスサンボリストの運動に、「正当な知的な運動」を看ようとするところに、「見ることを強いられる」小林のリアリズムがあったのだ。それこそ、「社会化しえない私」(加藤典洋)の一点に賭けての「リアリズム」批判であり、またここに、「散文による詩」(江藤淳)と呼ばれる小林の批評を貫く、細い一筋の絃が鳴っている。
 しかし、「外界といふ実在」に出遭おうとして、遂に「剥げちょろけた空」見てしまった小林における「詩」が、自身に別れを語げようとする時が来る。
 小林はそれを、「夏よ去れ」という詩で、こんなふうに歌っていた。

夏よ去れ

心明かすな
夏よ去れ
眼を閉じて
目蓋はかろし
蜘蛛の糸
  雨には切れず
  切れ切れに
  惑うわれかな 

夏草よ
  光りをあげよ
海行かば
水脈は晃めく
今日もまた
空は美し
鑞色の蝦網のべて
指またに
水掻きつくり
風に乗り
何を嘆きし

曇り日の
雲の裏行く
はだけたる胸

汗ばめる腹
風は死に
黝き山肌
鱗ある魚を乗せて
野の草の
靡くは何ぞ

あゝ 夏よ去れ
心明かすな
棲みつかぬ
季節よ
失せ行け
切れぎれに
惑ふわれかな

 記紀の歌謡を思わせるこの文語調の、一見端正ともみえる詩に注意していただきたい。近づいて眼をこらせば、覆いようのない亀裂がこの詩を内部から解体しようとする光景が見えてくる。ここでもまた深い断層を、「心明かすな/夏よ去れ」と「切れぎれに/惑ふわれかな」という二つのリフレーンが支えとめているが、裂傷はふかく暗い。
 このとき、小林が「棲みつかぬ/季節」と断ぜざる得なかったものとは、大正十四年の春、小林が出遭ったランボーという事件、「紀行断片」以来、小林が育みかつ宿命のようい戦ってきたもの、小林の内部の「詩」にほかならなかった。
 昭和五年に小林が書いた「私が育てた私の秘密」(「ランボーⅡ」)が、ほうとうに小林によって握り潰されようとしたのは、このときなのである。そこで小林は次のように言っていたはずだ。

以来、私は夢をにがい糧として僅かに生きて来たかもしれない が、夢は、又、私を掠め、私を糧として逃げ去った。

 そして、小林が昭和十二年自らの批評の原理、「見る事と生きる事との丁度中間に、いつも精神を保持する事」(「イデオロギーの問題」)という批評の定式を自己に課そうとしたこのとき、「外界といふ実在」は戦争という相貌をもって、小林を取り囲んだのであった。
 小林がつぎのように、この戦争へ向って、小便臭い「自分の穴」を運命のように掘りすすめたのは必然なことと言わねばならない。

  日本に生まれたといふ事は、僕等の運命だ。誰だって運命に関する智慧は持ってゐる。大事なのはこの智慧を着々と育てる事であって、運命をこの智慧の犠牲にする為にあわてる事ではない。自分の一身上の問題では無力な様な社会道徳が意味がない様に、自国民の団結を顧みない様な国際正義は無意味である。僕は、国家や民族を盲信するのではないが、歴史的必然病患者には間違ってもなりたくないのだ。(・・・・)いろんな主義を食い過ぎて腹を壊し、すっかり無気力になってしまったのでは未だ足らず、戦争が始まっても歴史の合理的解釈論で揚足の取りっこをする楽しみが捨てられず、時来たれば喜んで銃をとるといふ言葉さへ、反動家とみられやしないかと恐れて、はっきり発音できないインテリゲンチャから、僕はもう何も期待する事が出来ないのである。        (「戦争について」昭和十二年十一月)

これが「剥げちょろけた空」という「虚無の生」の象徴を見てしまった小林が、強いられたように戦争という現実の「壁」、ふたたび「外界といふ実在」へ出遭おうとする精神の一光景である。このとき小林が、「からくり」の一節、「誑かされることが生きることではない。生きることが誑かされる事なのだ」と呟いていたかどうか、私は知らない。ただつぎのような小林の声が、いままさに跨ぎ越えようとする深淵の方から、聴こえたくるように思われる。

ああ、青い空、だが、お前はその希いの 正確な発音を何処から借りて来た。
      (「眠られぬ夜」)

それにしても、肉声の発するその声さえ、借りものといふ疑念を払拭出来ないその「希望」とは、そもそもいかなる「詩」の運命であろうか。
 我々はここに紛れもない、日本の「散文と詩」が相格闘する一光景を垣間見ざるを得ないのである。
 晩年のニーチェは、「私は語るべきではなかった、歌うべきであった」と言ったが、歌うべきものを解体するしかない小林にとって、歌の解体そのものを語ることを強いられていた。これは前述したように、ボードレールが彼の詩的散文において覗き見た冒険というほかないものである。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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