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ゼーレン・ キルケゴール

 デンマークの詩人肌の哲学者にゼーレン・キルケゴールという人がいます。この夏この哲学者の「死にいたる病」を再読しました。この人は実存哲学の祖と言われています。十九世紀前半に様々な偽名をもって著作をし、42歳のときに路上にて昏倒。病院へ担ぎこまれ、「私は死ぬためにここにきたのだ」と言ったのが最後でした。そのとき書いていた著作の草稿が「瞬間」という題名で、「永遠と時間が相ふれるとき」の「瞬間」を意味するものです。神を前にして、キリスト教界にキリスト教を導入しようとの彼の苦闘は最後の段階を迎えていたのでした。「死にいたる病」はかくして1848年七月「アンチ・クリマクス」なる偽名をもって出版されました。この書に頻出する「絶望」なる言葉は彼ゼーレン・キルケゴールの肺腑を抉ってはき出されていないもの一つとしてなく、「死にいたる病」は熾烈なる「絶望」の書であると同時に「信仰」への弁証法的転回を説いたものでした。キルケゴールはカフカの日記に、カミユの不条理の思想に、そしてハイデッガーの「存在と時間」にその影響をみることができます。若きニーチェがどれほど熱心なクリスチャンであったかを知っていればこそ、そのアンチ・クリストに納得することができたと同様、彼の鋭い現代批判と徹底的な絶望を通じることによって、神でありながら人間であるイエス・キリストに近づくことができると説く彼の哲学を、おぼろげながら了解することができるのです。
 ところで、今回の読書がきっと最後になるでしょうが、キルケゴールがシェイクスピアをじつに深く洞察し、それをこの書物において援用していることには驚きました。

みごと縛り首にでもなりゃ
へたな結婚なんてしないですむというもの。(「十二夜」)

これは「哲学的断片」のエピグラフに載っている科白です。カフカも同じ経験をしていますが、キルケゴールもレギーネという女性との恋愛関係にくるしみました。女性は男性が成熟する場所なのですね。
 さて「あれか、これか」の書物から開始された彼の「ヤヌス」的な弁証法の精神は「マクベス」についてつぎのような感想を吐露しています。
「『罪から出た所業は、ただ罪によってのみ力と強さを増す』(「マクベス」第三幕第二場)。その意味するところは、罪はそれ自身の内部で一貫したものであり、悪がそれ自身のうちでこのように一貫したものであるがために、罪もまたある力をもっている、というのである。しかし、単に個々の罪だけにしか注目しないなら、けっしてこのような見方をするにはいたらないであろう。」(「罪の継続」)。
 ここはあのマルキド・サドやG・バタイユの思想に通い合う思念をも思わせます。キルケゴールはヘーゲルの壮大な哲学に反発したことは有名ですが、この文章はなかなか難解です。いったいどのような意味なのかはキルケゴールの解説にゆだねて見ましょう。
 「けれども罪についての絶望は、むろん、自分自身の空虚さを、自分が生命の糧をいささかももっていないことを、自分自身の観念をすらもっていないことを、よく自覚している。マクベスの語ることばは、さすが人間心理に通じた巨匠のことばである。
 『いまから先は[彼が国王を殺してから]真剣なことはこの人生にはもうなにもなくなった、すべてががらくたであり、名誉も恩寵も死んでしまった(第二幕第二場)』」(「自己の罪について絶望する罪」)
 一言で簡単に言いますと、マクベスは「自己」を完全に喪失した人間だと言いたいのですね。批評家の柄谷流に言えば、「彼(シェイクスピア)は精神という自然に脅迫されている生存の構造だけを信じていた」(「意味という病ーマクベス論)ということになるのでしょう。
さてここでちょっとキルケゴールから離れて、日本の作家で「人間失格」の太宰治へスキップして、興味ある場面を思い出してみましょう。罪と罰をめぐっての主人公の葉蔵と友人との会話の所です。
 罪のアントニウムは何かという行ですが、友人は法律?と恍けて言います。つぎに善じゃないかと茶々が入り、最後に神だろうと葉蔵が呟き、「神、神、神。ああ、腹が減ったなあ」という落ちで終わる太宰一流の道化ぶりが深刻なテーマを扱って、笑えるところです。
太宰がキルケゴールの「死にいたる病」を読んでいたかどうかは知りません。しかし、彼の人生は心理的には「死にいたる病」の軌跡を描いているという連想を止めることができません。キルケゴールは罪の反対語は徳ではない、それは信仰だとはっきりと言明しています。日本でキルケゴールを読んで、一番に共鳴したのはたぶん内村鑑三ひとりでしょう。
「『すべて信仰によらないことは、罪である』(ローマ14.23)。悔い改めない罪は、そのおのおのが新しい罪であり、罪が悔い改められずにいる瞬間瞬間が、新しい罪である。」
 彼はこの書の最後で、信仰の定義となる公式を再度振り返って欲しいと強調しているのは、この書の冒頭の「絶望が死にいたる病であるということ」で開陳しているあの有名な公式のことです。
 「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。・・・・・・。」
 こうして延々と30行ばかし続く文章が彼の言う公式です。キルケゴールの愛読者はこのお経のような一文をほとんど暗記しているようでした。50歳過ぎで急に亡くなった友人もそういう一人でした。死の2週間ほどまえに突然の電話がかかってきました。懐かしさにあふれたその声がとても明るかったのを今でも覚えています。もしかして彼は信仰者となっていたのかもしれないと振り返ってふと思ったところです。
 ところで、カトリック信者だった須賀敦子さんが愛したイタリアの詩人にウンベルト・サバという人がいます。須賀さんはこんなサバの詩が好きだったようです。

           ミラノ

  石と霧のあいだで、ぼくは
  休日を愉しむ。大聖堂の
  広場に憩う。星の
  かわりに
  夜ごと、ことばに灯がともる

  人生ほど、
  生きる疲れを癒やしてくれるものは、ない。

 きっと最後の二行は信仰による恩寵なくして書ける詩句ではないでしょう。

 キルケゴールは「水平化」という言葉をキーワードに現代を痛烈に批判しています。これが十九世紀中期に書かれたとは思えないほどに核心を衝いていることは驚くべきものがあります。文学の創作も彼の批判の俎上に上がっているのですから堪りません。
 優れた現代小説には同時代への批評が含まれていることが多いものです。 今期の芥川賞となった「コンビニ人間」(村田沙耶香)の小説にも、現代社会へのアイロニカルな批判が込められていて、これがこの小説のほんとうの面白さでしょう。先日、当ブログで紹介した「風の吹きさるもみがら」(工藤嘉晴)という小説は、キルケゴールの影がヴェールのように全体を覆っていました。田舎出の主人公が都会での違和感を増幅させ、列車爆破を偶発的に起こしてしまう。逃亡の果てに拘置所での監禁生活を余儀なくされ、そこで遭遇した犯罪者たちとの交流の末に、死刑を執行されるというのが表面的なストーリー展開ですが、作者にこの小説を書かした動機には、実存的な反抗心が深いところで根を下ろしているのは明白でしょう。サルトルの未完の長編小説「自由への道」の日本版の一つと見られないこともないでしょうが、この実存的な反抗心を作者が明瞭に意識化していたならば、小説はさらに高度なレベルを要求されていたのにちがいありません。読書は小説を書かしてはくれる力とはなりますが、真の小説家の誕生には自己とこの世界へのより深い関心が必要なのです。高見順が「描写の背後に寝ていられない」と言ったのは、真の小説家の心の闇からのつぶやきでした。
 さて、小雨もようの蒸し暑い日本の夕暮れが窓外に迫っている。どこからか盆踊りの楽の音も響いてきます。冷えたビールでも飲んで「東京音頭」でも踊ってきたくなりました。




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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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