掌小説「龍」
「だれもほんとうの姿をみたものはいない。幻の獣だからね。」
偉そうな口髭をたくわえた男はそう言って、ぼくを睥睨した。ぼくは黙って彼方のマルタ島がうかぶ海を眺めていました。むかしオスマントルコの大軍がこの島を襲撃したとき、マルタの騎士たちはオスマンの3万の敵に、7百人の騎士団が抗戦して勝利したということだ。その後、ちいさな島のいたるところに石垣が築かれた。島はさながら石の城砦と化しました。
「さあ、坊や。もうすぐお父さんが帰ってくるので、お家に入りなさい。」
石畳の路地に建った二階のバルコニーからお母さんが顔をだすと、洗濯物を取り込みながら言いました。ぼくがお母さんから、その髭の男のほうへと振り向いたときには、その男はどこにもいなかった。地中海の陽が沈んで青から濃緑色の海に変わり、マルタ島も夕陽の影の中に煙り、やがて来る夜の闇にまぎれようとしていました。
ぼくはお母さんに聞きました。「龍ってどんな獣なの?」。
お母さんはぼくの質問が聞こえないかのように、テーブルに夕食の食器を並べていました。
「なぜそんなことを聞くのです?」。すこし経ってから、お母さんが言いました。ぼくは髭の男が言ったことを、鼻の下の髭を撫でる男のまねをしながら、お母さんへ話しました。
「お父さんのそのまたずっとむかしのお父さんは、マルタいちばんの騎士だったのよ。強い髭を生やして、龍の騎士と呼ばれていたというわ。」
「龍の騎士か。」ぼくはそうお母さんの口まねをしてから、さっきみた男のことを思い出していました。
「お母さん、龍というのは強い獣なの?」。ぼくは窓から外を覗いて、坂道の階段を登ってくるお父さんを見つめている後ろ姿へ向かって尋ねました。
「さあ、どうでしょう。お母さんも知らない大昔の戦争の時代のことですからね・・・。」
ぼくはそのとき髭の男の「だれも龍のほんとうの姿をみたものはいない」という声が大空に響くのを聞いていました。それに、お母さんが口癖のように言う「わたしは怖いものが大嫌いなのよ。」ということばと一緒に。
足音が近づくと、まるで空から龍が降りてくる音がしました。お母さんが小走りに部屋を横切って、ドアを開けました。
そこに髭を生やしたぼくのお父さんが立っていました。ちいさな蚯蚓のようなお父さんに抱かれた、お母さんのふるえている肩をそのとき、ぼくはほんとうにみたのでした。
偉そうな口髭をたくわえた男はそう言って、ぼくを睥睨した。ぼくは黙って彼方のマルタ島がうかぶ海を眺めていました。むかしオスマントルコの大軍がこの島を襲撃したとき、マルタの騎士たちはオスマンの3万の敵に、7百人の騎士団が抗戦して勝利したということだ。その後、ちいさな島のいたるところに石垣が築かれた。島はさながら石の城砦と化しました。
「さあ、坊や。もうすぐお父さんが帰ってくるので、お家に入りなさい。」
石畳の路地に建った二階のバルコニーからお母さんが顔をだすと、洗濯物を取り込みながら言いました。ぼくがお母さんから、その髭の男のほうへと振り向いたときには、その男はどこにもいなかった。地中海の陽が沈んで青から濃緑色の海に変わり、マルタ島も夕陽の影の中に煙り、やがて来る夜の闇にまぎれようとしていました。
ぼくはお母さんに聞きました。「龍ってどんな獣なの?」。
お母さんはぼくの質問が聞こえないかのように、テーブルに夕食の食器を並べていました。
「なぜそんなことを聞くのです?」。すこし経ってから、お母さんが言いました。ぼくは髭の男が言ったことを、鼻の下の髭を撫でる男のまねをしながら、お母さんへ話しました。
「お父さんのそのまたずっとむかしのお父さんは、マルタいちばんの騎士だったのよ。強い髭を生やして、龍の騎士と呼ばれていたというわ。」
「龍の騎士か。」ぼくはそうお母さんの口まねをしてから、さっきみた男のことを思い出していました。
「お母さん、龍というのは強い獣なの?」。ぼくは窓から外を覗いて、坂道の階段を登ってくるお父さんを見つめている後ろ姿へ向かって尋ねました。
「さあ、どうでしょう。お母さんも知らない大昔の戦争の時代のことですからね・・・。」
ぼくはそのとき髭の男の「だれも龍のほんとうの姿をみたものはいない」という声が大空に響くのを聞いていました。それに、お母さんが口癖のように言う「わたしは怖いものが大嫌いなのよ。」ということばと一緒に。
足音が近づくと、まるで空から龍が降りてくる音がしました。お母さんが小走りに部屋を横切って、ドアを開けました。
そこに髭を生やしたぼくのお父さんが立っていました。ちいさな蚯蚓のようなお父さんに抱かれた、お母さんのふるえている肩をそのとき、ぼくはほんとうにみたのでした。
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