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現代居合考

 映画「たたら侍」を観た。観客の入りが寂しいのは、この映画が奥出雲という魅力ある土地にロケーションをしながら、映画にそれを生かしきれていないためでもあろうか。出雲、隠岐、石見という日本人の魂の原郷に触れる土地にはその土地固有の霊力があったことであろう。「たたら」という日本刀とは切り離せないことばから、どんな時代劇を見られるかと期待していたが肩すかしをくってしまったようだ。刀の魅力を味あわせてくれる斬新な斬り合シーンには、それなりの優秀な殺陣師が必要となろう。黒澤明監督の時代劇には必ずそうした息をのむ名シーンがあったことを思うと、なんともさびしいかぎりである。
 ところで、日本刀を手に持ちたくて居合をはじめた人間もいるほどに、刀にはふしぎな妖力がある。現代において真剣の刀を使って居合道を嗜んでいる人たちは、この日本刀についてそれなりの感慨をお持ちになるだろう。ハイテク時代における居合の現代的な意味が当然に問われくるはずだからだ。太平な江戸時代になるまでは、日本刀は三島由紀夫が喝破したように人斬り包丁の完璧な武道具であった。現代においてもその道具性は維持されているはずだが、古来より三種の神器であったこの日本刀が、「刀剣女子」と呼ばれる今の若い女性たちのこころを掴んでいるとは、なんとも不思議なことである。もしかしたら、20年も続いた不況から一向に立ち直れたともいえない日本の政治と経済の現状を、一刀両断して欲しいと乙女こころが愁訴しているのかもしれない。
 女性こころにつまらない忖度はやめて、話しを映画へ戻すことにしよう。
 この映画は日本刀の原材料である「たたら」をモチーフに、戦国時代の奥出雲の山村で秘伝の製鉄技術「たたら吹き」を守っている青年が、侍になろうと戦場に出ていくがさんざんな体験をへて、意気消沈のはてに村に帰ってくる。刀に代わって登場した鉄砲の製造にこの「たたら」の製鉄技術に目をつけた商売人が村に入り込んでくる。青年はそうした者たちと戦い、刀を作ることにふたたび向かい合う。「『劇団EXILE』の青柳翔が『渾身 KON-SHIN』の錦織良成監督と再タッグを組んだ本格時代劇」と銘打つほどのものかどうか、観客の感想を読めば明らかであろう。だがさすがに、EXILE だけあって主題歌の歌詞と音楽にいいものがあった。
 「たたら」とは、粘土で築いた炉に砂鉄と木炭を装入し、フイゴで空気を送り込み70時間かけてケラ(鉄)を生産する日本古来の製鉄技術である。先手に朝鮮で開発されたときには日本にこの製鉄の技術はなかったが、女王卑弥呼の時代に巧みな外交戦略を展開してその資源を確保するや、瞬く間に日本はこの製鉄技術を自家薬籠のものとしたのだ。この映画はこの鉄で鉄砲を作る時代へ入りかけた頃の話しである。映画の筋立ては、「たたら」への熱い信仰心が鉄砲を作りよりも刀剣から離れられないことに、職人たちのこころが向かいだすところで終わっている。
 さて、現代の居合においては真剣を使用して演舞を行う。居合が古来の伝統からの武道でありスポーツではないことは確かなのだが、このことの理解が現代では今ひとつ覚束ない。居合は武道であるから「敵」を想定する。厳密にいえば想定され得る「敵」はもやは本来の敵というものではないだろうが、このことは措いておこう。居合の演舞は一応「仮想敵」への対敵行為となっている。想定で描いた敵がいつのまにかその影を薄くしていくのは当然の成り行きである。かくして現代の居合にまつわるこの陥穽が、次第に居合を形骸化させ現代的に馴致させていくことは自然の道理である。以前、このブログで居合の現代における陥穽について、幾度か問題提起を行った。しかし、制度を疑うことよりそれに馴れることの安逸のほうへ人間の精神は流れやすく、この大勢に抗することは難しいものである。私はこれ以上、この問題を詮索することはやめておきたい。ただ戦後の歴史において、明治百年にあたる昭和43年に現代居合の成立をみたことの歴史的な意味を考えるならば、文化における伝統のちからに思いが及ぶのである。アナクロニズムなどという気は毛頭ないが、居合とは「近代の逆説」そのものの武道的な表現であると、かんがえざるえないのではないか。

 先日、あるところで居合の講習をうけた。現代居合の陥りやすい弊害から自由にしてくれたと覚しき講習の一端をここに紹介し、現代居合の一景を記しておこう。疑問を持たない追従が近代日本に惨憺たる結果を招いた歴史をいま一度思い返すべきであろうと思うからである。
 制定居合は全国の剣の流派の使い手が集まり、昭和四十三年の京都大会で披露されたのが始まりである。最初は七本から、その後数度の改訂を経て十本、また二本が追加されて現在の十二本となっている。当日、師範は「歴史をひもとく」ことの重要性を説くや、モデルを当道場から一人を選ばせ、座技の正座の姿勢から講義を始めた。正座は「針の筵に座るがごとし」で座ることに注意を喚起すると、真横から見たその姿勢は仏像の座った姿勢となると言いざま、モデルの真横に床から木刀を立てた。その木刀をみて私は唸った。師範が仏像の姿勢といったその線に日本刀と同じ具合に反った木刀の線は図らずも完全に一致していたからである。私は時折思い出したように座禅をする程度であるが、仏像が日本刀と同じ反りぐあいであるとは考えたことがなかった。つぎに型から技になってはじめて居合となるということばには、対敵動作としての居合の命は、型から技へいかに入るかに懸かっている。その粘度と熟達が居合の奥深い世界へと通じていることを想像させもしてくれたのだ。そして、このことはある意味では型稽古からの自由度を得ることになるとは、なかなか気づくことにはなりがたいものであった。スポーツではない居合の稽古の後に、単純な爽快さではなく清閑な疲労があるとは、対敵動作である居合の本質をよく含意していると思わざるえないものであった。師範は「技が心をつくり、心が技をつくるものではない」とも「魂をみがく」とも言われた。今まで数多くの師範から教えを受けたが、こうしたことばを耳にしたことはなかったのである。道場の床に刀を置いて、そのうえに平気で跨がって講習をする師範がいたかと思うと、刀を跨いだだけで大声で叱責する師範もいた。抜き身の真剣を剣道のあそびこころで、これが青眼の構えだと人の顔に翳す輩もでる始末である。「稽古とは古を学ぶことだ」という師範もいれば、立礼は尻を後ろに突き出せばいいと教える先生もあり、現代における武道としての居合の多様な光景に、ほとほと呆れていた昨今であった。
 稽古をする時間的な余裕はなかったが、12本目の抜き打ちにおいて、敵の真っ向からの一刀を後ろへ退いて見切る体捌きを行い、即座に剣を真上に抜き頭上に振りかぶり、見切った敵へ真っ向から斬り下ろす所作において、敵がそのまま腹を突くか胴を狙う隙をわざわざと与えるものとの指摘は、対敵動作である居合の現代的な陥穽を衝いて正鵠を射た意見のひとつだと、「想定の敵」を念頭におく居合の対敵動作がいかに難しいかを改めて知ることをえたのである。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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