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不審の時代

 過去(今らか二十数年前)の一時期、上記のタイトルで幾つかのエッセイを記したことがあった。散逸してしまったものもあるが、手元に残っているものだけでも、ここに転載しておきたい。時代の動きは遡った過去の情勢、小さな出来事から逆に眺めると、現在という「時」を見る参考となるように思えるからである。


 ー人は愛し、人は殺すー
 自分の中に対立しあう二人の人間を、はっきりと認めるべき時が来た。私はこの時代を「不審の時代」と名付けたい。この胎内からどんな魔物が生まれるかそれは知る由もない。この不審にみちた世界を、たじろがず自分の生きる世界と認めるには、ただ強い視力と胆力が不可欠だ。相互に矛盾し葛藤する世界に身を横たえること。今から二世紀まえに、スタンダールがはっきりと明言したように、「詩の女神は去り、疑いの魔神が生まれた」を、自己省察のためではなく、時代の社会の現実の中に見定める必要があるのだ。
 一九九五年。この世紀が始まる五年前、「地下鉄サリン事件」が起きた。私は地下鉄の入口で足止めをくらったが、その後しばらく地下鉄内では、互いの持ち物が「不審物」ではないかという意識なくして、車内にいることが出来なかった。その頃上野の映画館で「フォレスト・ガンプ」という映画を観た。館内放送に「不審物」と「不審者」なるコトバが流れ、それがこの息苦しい時代の序曲になろうとは、当時さほどに実感があったわけではない。丁度日本の戦後五十年であった。そんな雰囲気で観たせいか「一期一会」という副題のついたこの映画の印象は稀薄であった。だが最近テレビで再会する機会を得て、この映画の美点を得心したような気がした。それは、おつむがすこし弱い主人公が、いつも途方に暮れている、この途方の暮れかたが頭抜けているということが、この映画の核心なのだということだ。アメリカがヴェトナム戦争から二十年を経て、漸く弱音器にかけられたような自己批評が聞こえてきそうな、とぼけた「アンチヒーロー」をアメリカ自身が生み出すことに成功したのだと。
 これもまた映画の話しなるが、先日、コッポラ監督が二十二年前に発表し、今年再編集を経た「地獄の黙示録」の完全版について語らざる得ない。こちらはヴェトナム戦後四年に創られた映画だ。軍中央に反抗してカンボジア奥地に、「独立王国」を築き独自行動をするカーツ大佐を抹殺する指令をおびたウィラード大尉。カーツはこの青年に質す。自分を殺す目的をだ。青年の沈黙に対し、カーツは吐き捨てるように言う。「おまえはただのメッセンジャーボーイでしかない」と。やがてカーツはあるエピソードを青年に語るのだ。それは、ヴェトナムの小学校の生徒に、アメリカ軍が予防注射をした後、ヴェトコンの兵士がその子供達の腕を、残さずに切り落としたエピソードであった。その時はっきりとカーツは、断固たる敵の意志を、脳天に撃ち込まれ金色の弾劾として、天啓のように知ったのだと。この二人の会話は、今回の映画でも変わりはない。ここにアメリカの壮大な世界戦略意志の内実。またそれと裏腹なる無意識的なまでに自己中心の楽天的性格の、奇妙な同居をかいまみることができる。二十二年前に私がこの映画を観て懐いた、失望と困惑になんの修正を施す必要もなかったのだ。ベトナム戦争を扱ったこの映画に露呈しているものは、アメリカという若い国家の哀しいまでの愚劣さである。アメリカが持つこの二重性は、今回映画に挿入された、フランスの植民地農園に登場するロクサーヌという女性が、ウィラード大尉を誘惑する際に囁かれることば「人は愛し、人は殺す」に深く共振する魅力ある場面である。このアメリカが陥っているダブルバインドは、昨年九月十一日、アメリカ本土を襲った同時多発テロ以降、ブッシュ政権によって顕在化させられるものである。
 途方に暮れた善意の男「フォレスト」は、あの「グランド・ゼロ」の地点から、明確な「戦争」目的を示すための「敵」を捜し、作り出さねばならなくなった。アメリカのではない、世界の「地獄の黙示録」が始まるのは、まさにこれからなのかも知れないのだ。


ー勝負は鞘の中にありー
 土曜の夕暮れ、ひさしぶりに座禅をやりに、浅草の合羽橋通りから路地を入ったお寺へ行った。この寺は勝海舟が参禅したという禅寺で、十五年ほどまえに、暫く通ったことがあった。いつの間にか足が遠退いたのは、一向に悟りと無縁な自分に、呆れ返ったからに相違ない。だがこの寺の老師には、一目置くところがあった。がいつもの位置にこの師家の姿がみえない。すでに他界してしまわれたのか、と淋しい気がした。暫くして堂内の様子が以前と様変わりしていることに気づいた。一座の影はしぼんで、ただ座る廃墟でしかない。いづれの弧影も、斬れば血がでる気迫がなくなっていた。坊主の警策の音が、ぼろ布の片端を叩いているようにしか聞こえない。
 一昔前の事である。「騒がしい!」。烈々とした一喝が堂内の奥の闇から、突然、座敷中の空気を薙ぐように放たれた。座禅が始まってから少時を経ていた頃だ。
 「ぶつぶつ煩さうて堪らん! 斬られて首が飛んでも微動だにしない気迫がなければ、座って眠ていると変わらん。座禅はみなの禅気が棒のように天にむかって立つ。そうでなければ、何時間座っていようが無駄なことなんじゃ!」
 ある時、小さな体躯のその師家が堂内の「静寂」を破ってそう一喝したことを、昨日のことのように思い出し、画像がぼやけたテレビを見るでもなく、路地のこ汚い酒場の卓子で一人酒を飲んだ。参禅にと家を出ながら、酔っ払って遅くに帰宅した私が、女房から一笑されたことは言うまでもない。
 さて、五十を過ぎて居合を習いだした。カルチャーセンターをちらっと覗いたのが縁、いや、運のつきであったか。夢想神伝流七段の教士は、全日本大会で四年に亘って連覇優勝に輝いた天才肌の名人であった。若い時は暴走族であったそうだが、剣道から居合へ移り、やがて師にもつかず日本一となったと仄聞する。直弟子の四段が手厳しく叱られている。弟子によると褒めるのが上手くないそうである。作家の三島が「剣」という小説で、「剣は手の内から始まって手の内に終わる」と書いている。なるほど手の内を度々注意される。注意されるうちはまだいいそうで、されなくなったらお終いなのだ。
 居合の生命は、必殺の抜付けと斬下ろしにある。突然の害意に即応する居合には、構える暇がなく、構えてはいけない。最小の動作で瞬時に、するすると淀みなく応戦する。この対敵動作の一閃で、敵の闘争能力を完膚なく奪わねばならない。一切の無駄な力は不要なのだ。雪路を歩きながら、敵を斬りすて、歩き去った足跡に、一片の雪の乱れもなかった、居合の達人がいたそうだ。美しい形と明澄な心を以て、豪快で優美な居合を目指す。眼前の「敵」を一刀で斬りすてることを習得するのである。「所作居合」ではない、現前する「敵」を正確無比に斬撃する想定が迫真の技を磨かせるのだ。現代武術の、「虚構」に「真」を追求する居合に、文武両道の精神を見るのは、虚しい幻想にしか過ぎぬであろうか。「序破急」といい「間合い」といい、「文」と「武」は相通ずるように思われる。
 中国の戦国時代の荘子に「木鶏」の譬えがあるらしい。闘鶏を育てる名人へ、王が一羽の闘鶏を所望した。「さてもうどうか」との王の度重なる催促に、その都度、まだ空威張りをして高慢であるとか、いやまだ敵を求め、争う気が見えますとかで、名人の闘鶏はなかなか完成しない。最後に王が得た闘鶏は、木で作られたように動かず、争わず、反抗せず、この木鶏を見て敵の闘鶏が逃げだした、という逸話がある。
 「勝負は鞘の中にあり」と言われる。刀をぬかずに勝つ。狩猟の名人によると、見ただけで鳥は梢から墜ちるのだそうだ。昔居合を習った友人によれば、居合は「動く禅」とのこと。教士が指導中に時折洩らすことばには、禅の公案に似たものがある。
 この間、息子から漫画の「バガボンド」を借り面白く読んだが、この「不審の時代」に現代の若者が武蔵の生き様に牽かれるのは、吉川英治の文学とはなんの関係もない。二天一流を編み出し、死に臨んで「五輪書」を書いた武蔵は、どの藩にも仕官せず、戦国の「フリーター」の道を独り不羈奔放に歩んだ。そこに若者を魅する「真剣」が光っている。


ー漂流する日本ー
 病気療養のため入院していた。点滴をうたれ、当初は波状的に襲う高熱と嵐のような悪寒に倒れていた。横たわった肉体が衰弱するスピードは予想外に早い。筋肉は強風に煽られた屋根瓦のようにはがされ、精神も同様な有様であった。平熱に復した後、正岡子規の三大随筆を偶々読み、特に「病状六尺」に強い印象をうけた。入院が長くなると、今日が何日で何曜日かも分からなくなる。人は弱いもので、ロビンソン・クルソーではないが、最低限日常の生活を律する、時間意識だけは失いたくない。それほどにのっぺらぼうの、裸の「時間」に向き合えるほど、図太い神経はないらしいのだ。どんなに達者な泳ぎ手でも、四方が水平線しか見えない広い海に投げ出されて、慌てない人間が少ないのは、これもまた「空間」の恐怖というものである。
 昔、まだ雪が残る冬の熱海の海に潜ったことがある。あまりに悪い視界と寒さで、やむなく浮上したところ、乗って来た船が見えず、あたりは波ばかりということがあった。そのうち沖まで乗ってきたと思しき船が、荒波を蹴立てて港に帰っていくではないか。それを茫然と見送るしかない同伴のビギナーがパニックに陥った。大声で泣き喚き、腕を上げては虚しく波頭を叩いたが無駄であった。早速、背後から接近して落ち着かせ、必ず船が捜しにくるとくどき、片腕を掴んで浮かんでいたが、視界を被う荒波にもまれ、声をだす力も萎え時間だけが経つにつれて、こちらもこころ穏やかではなくなったのである。
 さてところで、東シナ海の不審船の引き上げはともかく、日本という羅針盤もないようなこの「不審船」はどこまで漂流するのであろうか。
 日本の「失われた十年」は、すでに二十年になると「日本を苛む『マネー敗戦』再びの構造」(「中央公論」八月号)で吉川元忠氏は再論している。四年前の同氏の著書「マネー敗戦」は、機軸通貨ドルに翻弄された、戦略もない無為無策の日本の金融・財政の体たらくを、丁寧・平易に解明してくれた好著であった。この著書はまさに「平成不況論の死角をついた」のである。
 余談だが丁度さかのぼること二十年前、湾岸戦争の直後、石原慎太郎と江藤淳が「断固NOと言える日本」で対談していた。冒頭、江藤淳は「湾岸戦争でアメリカは中東地域のパンドラの箱を開けてしまった」と述べた。今日に至る一群のテロリスト達はこの時、そのパンドラの箱から飛び出したのに相違いない。湾岸での戦費の調達に主要国からの多額の金を引き出すことに成功したアメリカは、皮肉というのか、この一九八0年代から経常赤字を出し始めていたのだ。それから既に二十年が経過した。
 しかしこの赤字は減少するどころか、海外からの資金流用で穴埋めしているため、借金は増加する一方にある。アメリカ経済は既に実質的に破綻していると同氏は言う。少なくともそういう認識を持つべきだと。
 一方、ドルの動向ひとつで輸出立国である日本の経済運営の総体が、深刻な影響をうける。このジレンマからの脱却の活路を模索しようしている。さらにまた、エンロンやワールドコムに象徴される幻影のような近時のアメリカ経済、そして迫りくるドルの切り下げを背景にした同氏の現状分析は、日本がドルを支え、そのために政策破綻している「マネー敗戦」が、現在へも通低する構造的な問題であるとした上で、今後のシナリオを想定した日本の戦略を提起している。だが四年前と比べ、吉川氏の筆はどこか重く、昏くさえ見えるのである。それはEUが対アメリカに、約二十年にわたり周到に練った戦略に対応したものを、日本がこれから東アジアの圏域に構築するためには、余りにこの失われた二十年は大きく、今後もこうした虚しい日々が、いつまで続くのか国民にさだかではないからである。これを「不審の時代」と言わずしていかに形容すればよいのか。
 ワールドカップに訪れた外国人記者が、つぎのように語ったそうだ。「日本は不況だ、不景気だというが、そうは見えない」と。この記者の眼にはサッカーに熱狂する日本人の底辺で、激痛に身を捩りながら、つぎのように記した「病状六尺」の子規のような日本人の姿が見えなかっただけである。
 「悟りとはいついかなる場合でも平気で死ぬることだと思っていたが間違いであった。悟りとはむしろいかなる場合でも平気で生きていくことだ」と。


ー現代の『女性』を読むー
 作家の三島由起夫は当代切っての「女性嫌悪者」でありました。その称号を名誉として憚りなく表明したエッセイ「女ぎらいの弁」のさわりの部分を、まず紹介してみましょう。
 「女性は抽象的精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によってろくなものはできず、透明な抽象的な構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義、これらはみな女性的欠陥である・・・実際芸術の堕落は、すべて女性の社会的進出から起ってゐる。・・・道徳の堕落も亦、女性の側から起こってゐる。・・・もっとも女が自分の本質をはっきり知った時は、おそらく彼女は女ではない何か別のものであろう。」
 これを氏が発表したのは、勿論、結婚前のことでしたが、一読してフランスのボードレール等の象徴主義に感化されたものと思われます。さすが「社会学者にしては文学が判る」と評されたフェミニストの上野千鶴子は、三島のこの「女性嫌悪」のセオリーが完璧な循環論法に成り立ち、これが分からないと言えばアホだと言われ、分かると言えば女ではないということになると苛立ちを隠しません(「男流文学論」)。
 偶々この数ヶ月、女性の書いた書物を立てつづけに読むことになった。八十年代に読んだ作家の大庭みな子と高橋たか子の対談が、当時の私の瞼から幾枚かの鱗を落としてくれた、清々とした豊潤な印象を忘れられないからです(「柔らかいフェミニズム」)。
 一般に「フェミニズム」と総称される思想を語る女性たちには、硬軟様々な思潮の振幅があり、これを一括する芸当はできるはずがありません。多士済々の声に耳を傾けるしかないのです。
 高橋たか子の長編小説「装いせよ、わが魂よ」の主人公・波子は、有島武郎の「或る女」の主人公ほどの明確な輪郭を感じることは出来なかった。これに比べれば、大庭みな子の「三匹の蟹」の方が、静かで重く、したたかで奥深い女の情念の存在を強く呼び起こす。他方、高橋が熱心なカトリックの信者であり、すぐれて高度な抽象力の人であることは端倪すべからざるところで、ここに三島の論理を用いて、彼女は女でなくて「なにか別のもの」だと言ってみたところで、甚だしい疑問が残るばかりでしょう。
 富岡多恵子の小説「波うつ土地」は、残念ながら不毛としかいいようがありませんが、この不毛性こそ自らの思想が立たざる得ない、波うつ荒地だということなのでしょう。
 斉藤美奈子の「文壇アイドル論」は、春樹と龍の両村上、立花隆、田中康夫、林真理子等を俎上に、大衆消費社会の「アイドル」として、いつ値くずれして不良債権化する代物であるかを、さらりと料理して皿に盛った庖丁さばきに「感動!」はしますが、それ以上のものはありません。
 上野千鶴子の「差異の政治学」は、「フェミニズム」を然るべく位置づけ、その思想の核心を取り出してみせた、九十年代の論文の集成ですが、運動家と理論家のほどよいブレンドを、ここに見ることができるでしょう。同氏の「文学を社会学する」によれば、若い頃「俳句」に一時のめりこんだ経験が、彼女の武器である「ことば」を錬磨したようです。
 小倉千加子の「セックス神話解体新書」には、往時にあった新鮮さを、今感じることは無理でしょうが、学者というよりも、上野にはない地に足をつけた関西風の野太さがパワーとなって全開することが期待されます。この小倉と上野の対談「ザ・フェミニズム」に上野が錬成した、次のような「結婚」の定義を味読し、甚だ感心しながらも思わず苦笑してしまったことを告白しなければなりません。
 ー自分の身体の性的使用権を生涯にわたって特定の異性に対し排他的に譲渡する契約。
 この「定義・結婚」は、上野が青春に決別した「断念」にも似た「俳句」を想わせる趣があります。ここに女の尾崎放哉がいるかのようで、東電のOL殺人事件に彼女が共振する所以が、なんとなく得心できるような気がします。
ところで、男/女/性についての先進国フランスは、「結婚」という制度へ男/女の関係そのものを柔軟に取り込もうとしているようです(「パックス法」)。また、最新の「ジャパンタイムズ」の記事によると、ゲイ同士でのセクハラを、高裁へ提訴する道が開けたとか。どうやら不審の時代は、「性」の現場に一等色濃く影を落としているようです。
 さて先夜、アメリカの教育テレビ番組に、映画「氷りの微笑」のシャロン・ストーンが出演しておりました。そこで驚嘆したのは、彼女の柔軟で熱い感性と鋭敏なその知性でした。そうしたものが内からダイヤの切子の如く輝き、その輝きのままに円熟したとも見える、類いまれな彼女の美しさでした! 生まれたときにすでに、四十歳であったと自ら語る、老成した変わり種が、いかにして女優の道を歩きはじめたのか。そして、どのように映画「氷りの微笑」(原題「Basic instinct」)の中で、殺意と紙一重の官能シーンを演じたのか。また、ミニスカートからのびた脚が、男たちを挑戦するかのように交差する、あの尋問場面の有名なシーン。それらが、当日のインタビューのハイライトとなったのは、教育番組とはいえ仕方がないでしょう。
 彼女は、セックスシーンの演技に逡巡する、迷える俳優志望の女性の質問に、稟と瞳を開き、つぎのように真摯に語りかけた、そのことばは理屈や理論を超え、平凡だが力強く、聞き手の生徒全員を魅了し尽くしたようでした。
 「人口の半分は女性、つまり少数派ではないわ。その事実に責任をもつべきね。そのためには、男の願望が作り上げた女性像ではなく、本当の女性の姿を伝えなくてはならない。本当の男女平等というのは、同じラインに並ぶことじゃない。等しく価値あるラインが二本あること。男のようになろうとする必要なんて全くないの。強さを表現するために、男のように振る舞う必要はないのよ。女性の真の姿を表現してほしい。女はあなたの人格の一部、女という目でしか人をみない男は、死んでしまえばいい」。 

ー地方の友人への手紙ー
 拝啓
 妙に暑い夏がやっと去ったと思ったら、もう冬のような天気で、小春日和はどこかへ行ってしまったようです。東北越後のそちれでは、きっと今頃は中空に白い粉が降り積もり、一面の銀世界が広がっていることでしょう。去年は温泉で雪を眺め一献傾けましたが、今年はお互いにそんな気分にもなれませんでしたね。
 温泉の帰り道、君は歯の抜けるようにさびれてゆく地方町の商店街について語りながら、自分の商売に触れることはありませんでした。そして痩せ我慢のように、バブルに沸くよりもこういう時代のほうが、自分には落ち着いていいなんて、君らしい呟きを洩らし、日本がいずれ「自転車泥棒」という昔のイタリア映画のような状況を呈するのではないかと告白しました。いまのデフレがハイパーインフレに転落する惨状をふと想像し、慄然とした思いが胸を過ぎる次第でありました。
 こちらは、新宿歌舞伎町の一角、偶々昼食に立ち寄ったスタンド蕎麦屋で、近くのおっさんという風体の二人が、こんな会話をしていました。別段聞き耳を立てていたわけではありません。自然に耳に入ってきたのです。
 ーこの頃、あの姉さん見かけないけど、どうしたんだろう?
 ーあの子かい、餓死したってよ。あの若い子だけは、決して客をとらなかったんだ。立派だね。
 その近辺では、いわゆる「たちんぼ」を生業とする女たちが病院の建物のまわりに徘徊していることは知られています。だが二人が話題とする若い女性がいたのを知りません。金があれば二十四時間、なに不自由なく暮らせるコンビニがありますのに、「餓死!」だなんて信じられないことです。特異な国柄のせいで困っている、海のむこうの隣国の窮状をマスコミは盛んに報じていたことがありましたが、この日本の大都会のど真ん中で起こっている悲惨事に目を向けたがらないらしいのです。バブルの時には、世界へ出て品もへちまもない豪奢なグルメぶりを大袈裟な番組にしていたテレビは、いまではどこそこのラーメンがどれほど美味く、安いかに興じているありさまで、ほんとうに市井の暮らしの変わりようには茫然といたします。
 朝の通勤の一刻、地下舗道の階段の陰に、毎日というわけではありませんが、女がぼんやりと一人立っている。身なりも化粧、人品卑しからざる、四十前後の女性がどういうわけで、そんなところにポツンと佇んでいるのか誰も知らない。人を待っている気配はなく、時間待ちしている様子にも見えない。ただ地下の一隅にぼんやり立っている。それが不思議に思われてならないのです。
 また茶店の片隅でのこと。コンビニで働いていると思われる若い男が三人、職場の上司への鬱憤や不満を吐き出し、「ああ! もうやっていられねえー」と嘆息まじりの愚痴のやりとりを耳にした。さもありなんと不憫に思いながらも、これが二十歳前の青春の一齣なのかと悪い時代に鬱屈する彼等の青春に哀れさへ覚え、お陰でこちらも心穏やかではありませんでした。
 そしてようやく鬱陶しい若者が姿を消してくれたと思ったら、入れ替わりに今度は三人の若い女と一人の若造が席に座った。とやにわに男が自分の携帯番号を女三人に入れさせ、これからの仕事の段取りを言葉少なに伝えていました。どうやら二十歳前後の女達の夜のアルバイトは、外人相手の売春かと思われます。得体の知れないその男への携帯だけが、彼女等のまさかの時の安全の手蔓であり、報酬を分配する要となるもので、互いに素性を証さぬ手口は周到な配慮でもあるのでしょうか。
 それでも一抹の不安を呑み込み、これから始まる危険なアルバイトをどこか、ワクワクと楽んでさえいる様子の若い女達に、「春を鬻ぐ」という暗い陰は微塵も見えず、そこには不敵で太々しい勇姿さえ漂っているのには驚嘆さえしました。やはり身体を張ってのビジネスこそが、芯から人間を凛とするのかと、ことの良し悪しは別にして、こういう脳天気で破天荒なバイタリティーを萎縮した今の日本に見ることは稀なものですから、妙な感心をしてしまった次第です。
 スマートで小利口者が、インターネットで門閥や学閥の網を張り、至る処に二世や三世が顔を出し始めるようなところに、日本の将来はないのかも知れません。
 ー何せうぞ くすんで一期は夢よ ただ狂え
 君はいつぞや、こんな室町時代に編纂した「閑吟集」の一節でも歌いたいとお仰言っていましたが、なんだか分かるような気がしないこともありません。

 さて過日、実に久しぶりに妻と「たそがれ清兵衛」という映画を観てきました。
幕末の庄内地方の下級武士が主人公です。「寅さん」の山田洋次監督の時代劇への挑戦でしょうか。山田監督は時代劇の魅力が刀にあることをさすがに見逃さず、二度の決闘シーンを映画に入れることを忘れはしませんが、人間の幸福とはなにかという現代的なモティーフを導入する工夫を凝らしています。妻に二人の娘を残して先立たれ、借金と子の養育に追われて、風呂に入る暇も身なりをかまう余裕もない武士は、同僚と仕事後のつきあいもせず、まっすぐに家路につく貧乏生活の日々を淡々と送っています。藩の同僚達はそんな彼を「たそがれ」と渾名し、陰口をたたいて軽んじている。みかねた本家の叔父が後妻をとれと命令しますが、彼は二人の娘を育てる得難い幸福感を吐露して叔父の不興を買います。
 やがてそんな彼が小太刀の遣い手と知る藩より、ある男を斬殺するようにとの命令が下るのです。この映画を観て「甘い」という感想もありましたが、山田洋次監督は「情の世界」に藩の政治という「非情の世界」を対比させ、時代の転換期を描こうとした佳作です。
 人の心が「情」と「非情」とに分裂し、この二重性を生きざる得ないことこそ、「不審の時代」の免れ難い特徴です。家族を愛する清兵衛が「情」の世界を生きる農耕型の定着人間なら、死んだ娘の遺骨を頬張り、自分を殺害しようとする藩などを見限り、逃げて放浪する中で活路を求めようとする余吾善右衛門もまた、時代の転換期を生きる狩猟型の移動人間でありましょう。

 はてさて日本は黄昏時でしょうか。江戸時代では黄昏時が一番危ない時刻なのだそうです。なぜなら「たそがれ」の語源は、「誰そ彼」だからで、余所者が徘徊するからとのこと。いいではありませんか、日本中が「ひきこもり」をするよりも、不審者さえも呑み込んで大きく飛躍することができるならば。

   太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
   次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 これは三好達治の「雪」という有名な詩ですが、この日本の一見平和な風景を詠んだたった二行の整然たる詩語に、詩人がどれだけの思いをこめているのか、そんなことを考える今日この頃なのです。
 どうか家族ともどもお達者でお暮らしください。では、いつかまた、お逢いする日を楽しみに。不一
 過去(今らか二十数年前)の一時期、上記のタイトルで幾つかのエッセイを記したことがあった。散逸してしまったものもあるが、手元に残っているものだけでも、ここに転載しておきたい。時代の動きは遡った過去の情勢、小さな出来事から逆に眺めると、現在という「時」を見る参考となるように思えるからである。


 ー人は愛し、人は殺すー
 自分の中に対立しあう二人の人間を、はっきりと認めるべき時が来た。私はこの時代を「不審の時代」と名付けたい。この胎内からどんな魔物が生まれるかそれは知る由もない。この不審にみちた世界を、たじろがず自分の生きる世界と認めるには、ただ強い視力と胆力が不可欠だ。相互に矛盾し葛藤する世界に身を横たえること。今から二世紀まえに、スタンダールがはっきりと明言したように、「詩の女神は去り、疑いの魔神が生まれた」を、自己省察のためではなく、時代の社会の現実の中に見定める必要があるのだ。
 一九九五年。この世紀が始まる五年前、「地下鉄サリン事件」が起きた。私は地下鉄の入口で足止めをくらったが、その後しばらく地下鉄内では、互いの持ち物が「不審物」ではないかという意識なくして、車内にいることが出来なかった。その頃上野の映画館で「フォレスト・ガンプ」という映画を観た。館内放送に「不審物」と「不審者」なるコトバが流れ、それがこの息苦しい時代の序曲になろうとは、当時さほどに実感があったわけではない。丁度日本の戦後五十年であった。そんな雰囲気で観たせいか「一期一会」という副題のついたこの映画の印象は稀薄であった。だが最近テレビで再会する機会を得て、この映画の美点を得心したような気がした。それは、おつむがすこし弱い主人公が、いつも途方に暮れている、この途方の暮れかたが頭抜けているということが、この映画の核心なのだということだ。アメリカがヴェトナム戦争から二十年を経て、漸く弱音器にかけられたような自己批評が聞こえてきそうな、とぼけた「アンチヒーロー」をアメリカ自身が生み出すことに成功したのだと。
 これもまた映画の話しなるが、先日、コッポラ監督が二十二年前に発表し、今年再編集を経た「地獄の黙示録」の完全版について語らざる得ない。こちらはヴェトナム戦後四年に創られた映画だ。軍中央に反抗してカンボジア奥地に、「独立王国」を築き独自行動をするカーツ大佐を抹殺する指令をおびたウィラード大尉。カーツはこの青年に質す。自分を殺す目的をだ。青年の沈黙に対し、カーツは吐き捨てるように言う。「おまえはただのメッセンジャーボーイでしかない」と。やがてカーツはあるエピソードを青年に語るのだ。それは、ヴェトナムの小学校の生徒に、アメリカ軍が予防注射をした後、ヴェトコンの兵士がその子供達の腕を、残さずに切り落としたエピソードであった。その時はっきりとカーツは、断固たる敵の意志を、脳天に撃ち込まれ金色の弾劾として、天啓のように知ったのだと。この二人の会話は、今回の映画でも変わりはない。ここにアメリカの壮大な世界戦略意志の内実。またそれと裏腹なる無意識的なまでに自己中心の楽天的性格の、奇妙な同居をかいまみることができる。二十二年前に私がこの映画を観て懐いた、失望と困惑になんの修正を施す必要もなかったのだ。ベトナム戦争を扱ったこの映画に露呈しているものは、アメリカという若い国家の哀しいまでの愚劣さである。アメリカが持つこの二重性は、今回映画に挿入された、フランスの植民地農園に登場するロクサーヌという女性が、ウィラード大尉を誘惑する際に囁かれることば「人は愛し、人は殺す」に深く共振する魅力ある場面である。このアメリカが陥っているダブルバインドは、昨年九月十一日、アメリカ本土を襲った同時多発テロ以降、ブッシュ政権によって顕在化させられるものである。
 途方に暮れた善意の男「フォレスト」は、あの「グランド・ゼロ」の地点から、明確な「戦争」目的を示すための「敵」を捜し、作り出さねばならなくなった。アメリカのではない、世界の「地獄の黙示録」が始まるのは、まさにこれからなのかも知れないのだ。


ー勝負は鞘の中にありー
 土曜の夕暮れ、ひさしぶりに座禅をやりに、浅草の合羽橋通りから路地を入ったお寺へ行った。この寺は勝海舟が参禅したという禅寺で、十五年ほどまえに、暫く通ったことがあった。いつの間にか足が遠退いたのは、一向に悟りと無縁な自分に、呆れ返ったからに相違ない。だがこの寺の老師には、一目置くところがあった。がいつもの位置にこの師家の姿がみえない。すでに他界してしまわれたのか、と淋しい気がした。暫くして堂内の様子が以前と様変わりしていることに気づいた。一座の影はしぼんで、ただ座る廃墟でしかない。いづれの弧影も、斬れば血がでる気迫がなくなっていた。坊主の警策の音が、ぼろ布の片端を叩いているようにしか聞こえない。
 一昔前の事である。「騒がしい!」。烈々とした一喝が堂内の奥の闇から、突然、座敷中の空気を薙ぐように放たれた。座禅が始まってから少時を経ていた頃だ。
 「ぶつぶつ煩さうて堪らん! 斬られて首が飛んでも微動だにしない気迫がなければ、座って眠ていると変わらん。座禅はみなの禅気が棒のように天にむかって立つ。そうでなければ、何時間座っていようが無駄なことなんじゃ!」
 ある時、小さな体躯のその師家が堂内の「静寂」を破ってそう一喝したことを、昨日のことのように思い出し、画像がぼやけたテレビを見るでもなく、路地のこ汚い酒場の卓子で一人酒を飲んだ。参禅にと家を出ながら、酔っ払って遅くに帰宅した私が、女房から一笑されたことは言うまでもない。
 さて、五十を過ぎて居合を習いだした。カルチャーセンターをちらっと覗いたのが縁、いや、運のつきであったか。夢想神伝流七段の教士は、全日本大会で四年に亘って連覇優勝に輝いた天才肌の名人であった。若い時は暴走族であったそうだが、剣道から居合へ移り、やがて師にもつかず日本一となったと仄聞する。直弟子の四段が手厳しく叱られている。弟子によると褒めるのが上手くないそうである。作家の三島が「剣」という小説で、「剣は手の内から始まって手の内に終わる」と書いている。なるほど手の内を度々注意される。注意されるうちはまだいいそうで、されなくなったらお終いなのだ。
 居合の生命は、必殺の抜付けと斬下ろしにある。突然の害意に即応する居合には、構える暇がなく、構えてはいけない。最小の動作で瞬時に、するすると淀みなく応戦する。この対敵動作の一閃で、敵の闘争能力を完膚なく奪わねばならない。一切の無駄な力は不要なのだ。雪路を歩きながら、敵を斬りすて、歩き去った足跡に、一片の雪の乱れもなかった、居合の達人がいたそうだ。美しい形と明澄な心を以て、豪快で優美な居合を目指す。眼前の「敵」を一刀で斬りすてることを習得するのである。「所作居合」ではない、現前する「敵」を正確無比に斬撃する想定が迫真の技を磨かせるのだ。現代武術の、「虚構」に「真」を追求する居合に、文武両道の精神を見るのは、虚しい幻想にしか過ぎぬであろうか。「序破急」といい「間合い」といい、「文」と「武」は相通ずるように思われる。
 中国の戦国時代の荘子に「木鶏」の譬えがあるらしい。闘鶏を育てる名人へ、王が一羽の闘鶏を所望した。「さてもうどうか」との王の度重なる催促に、その都度、まだ空威張りをして高慢であるとか、いやまだ敵を求め、争う気が見えますとかで、名人の闘鶏はなかなか完成しない。最後に王が得た闘鶏は、木で作られたように動かず、争わず、反抗せず、この木鶏を見て敵の闘鶏が逃げだした、という逸話がある。
 「勝負は鞘の中にあり」と言われる。刀をぬかずに勝つ。狩猟の名人によると、見ただけで鳥は梢から墜ちるのだそうだ。昔居合を習った友人によれば、居合は「動く禅」とのこと。教士が指導中に時折洩らすことばには、禅の公案に似たものがある。
 この間、息子から漫画の「バガボンド」を借り面白く読んだが、この「不審の時代」に現代の若者が武蔵の生き様に牽かれるのは、吉川英治の文学とはなんの関係もない。二天一流を編み出し、死に臨んで「五輪書」を書いた武蔵は、どの藩にも仕官せず、戦国の「フリーター」の道を独り不羈奔放に歩んだ。そこに若者を魅する「真剣」が光っている。


ー漂流する日本ー
 病気療養のため入院していた。点滴をうたれ、当初は波状的に襲う高熱と嵐のような悪寒に倒れていた。横たわった肉体が衰弱するスピードは予想外に早い。筋肉は強風に煽られた屋根瓦のようにはがされ、精神も同様な有様であった。平熱に復した後、正岡子規の三大随筆を偶々読み、特に「病状六尺」に強い印象をうけた。入院が長くなると、今日が何日で何曜日かも分からなくなる。人は弱いもので、ロビンソン・クルソーではないが、最低限日常の生活を律する、時間意識だけは失いたくない。それほどにのっぺらぼうの、裸の「時間」に向き合えるほど、図太い神経はないらしいのだ。どんなに達者な泳ぎ手でも、四方が水平線しか見えない広い海に投げ出されて、慌てない人間が少ないのは、これもまた「空間」の恐怖というものである。
 昔、まだ雪が残る冬の熱海の海に潜ったことがある。あまりに悪い視界と寒さで、やむなく浮上したところ、乗って来た船が見えず、あたりは波ばかりということがあった。そのうち沖まで乗ってきたと思しき船が、荒波を蹴立てて港に帰っていくではないか。それを茫然と見送るしかない同伴のビギナーがパニックに陥った。大声で泣き喚き、腕を上げては虚しく波頭を叩いたが無駄であった。早速、背後から接近して落ち着かせ、必ず船が捜しにくるとくどき、片腕を掴んで浮かんでいたが、視界を被う荒波にもまれ、声をだす力も萎え時間だけが経つにつれて、こちらもこころ穏やかではなくなったのである。
 さてところで、東シナ海の不審船の引き上げはともかく、日本という羅針盤もないようなこの「不審船」はどこまで漂流するのであろうか。
 日本の「失われた十年」は、すでに二十年になると「日本を苛む『マネー敗戦』再びの構造」(「中央公論」八月号)で吉川元忠氏は再論している。四年前の同氏の著書「マネー敗戦」は、機軸通貨ドルに翻弄された、戦略もない無為無策の日本の金融・財政の体たらくを、丁寧・平易に解明してくれた好著であった。この著書はまさに「平成不況論の死角をついた」のである。
 余談だが丁度さかのぼること二十年前、湾岸戦争の直後、石原慎太郎と江藤淳が「断固NOと言える日本」で対談していた。冒頭、江藤淳は「湾岸戦争でアメリカは中東地域のパンドラの箱を開けてしまった」と述べた。今日に至る一群のテロリスト達はこの時、そのパンドラの箱から飛び出したのに相違いない。湾岸での戦費の調達に主要国からの多額の金を引き出すことに成功したアメリカは、皮肉というのか、この一九八0年代から経常赤字を出し始めていたのだ。それから既に二十年が経過した。
 しかしこの赤字は減少するどころか、海外からの資金流用で穴埋めしているため、借金は増加する一方にある。アメリカ経済は既に実質的に破綻していると同氏は言う。少なくともそういう認識を持つべきだと。
 一方、ドルの動向ひとつで輸出立国である日本の経済運営の総体が、深刻な影響をうける。このジレンマからの脱却の活路を模索しようしている。さらにまた、エンロンやワールドコムに象徴される幻影のような近時のアメリカ経済、そして迫りくるドルの切り下げを背景にした同氏の現状分析は、日本がドルを支え、そのために政策破綻している「マネー敗戦」が、現在へも通低する構造的な問題であるとした上で、今後のシナリオを想定した日本の戦略を提起している。だが四年前と比べ、吉川氏の筆はどこか重く、昏くさえ見えるのである。それはEUが対アメリカに、約二十年にわたり周到に練った戦略に対応したものを、日本がこれから東アジアの圏域に構築するためには、余りにこの失われた二十年は大きく、今後もこうした虚しい日々が、いつまで続くのか国民にさだかではないからである。これを「不審の時代」と言わずしていかに形容すればよいのか。
 ワールドカップに訪れた外国人記者が、つぎのように語ったそうだ。「日本は不況だ、不景気だというが、そうは見えない」と。この記者の眼にはサッカーに熱狂する日本人の底辺で、激痛に身を捩りながら、つぎのように記した「病状六尺」の子規のような日本人の姿が見えなかっただけである。
 「悟りとはいついかなる場合でも平気で死ぬることだと思っていたが間違いであった。悟りとはむしろいかなる場合でも平気で生きていくことだ」と。


ー現代の『女性』を読むー
 作家の三島由起夫は当代切っての「女性嫌悪者」でありました。その称号を名誉として憚りなく表明したエッセイ「女ぎらいの弁」のさわりの部分を、まず紹介してみましょう。
 「女性は抽象的精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によってろくなものはできず、透明な抽象的な構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義、これらはみな女性的欠陥である・・・実際芸術の堕落は、すべて女性の社会的進出から起ってゐる。・・・道徳の堕落も亦、女性の側から起こってゐる。・・・もっとも女が自分の本質をはっきり知った時は、おそらく彼女は女ではない何か別のものであろう。」
 これを氏が発表したのは、勿論、結婚前のことでしたが、一読してフランスのボードレール等の象徴主義に感化されたものと思われます。さすが「社会学者にしては文学が判る」と評されたフェミニストの上野千鶴子は、三島のこの「女性嫌悪」のセオリーが完璧な循環論法に成り立ち、これが分からないと言えばアホだと言われ、分かると言えば女ではないということになると苛立ちを隠しません(「男流文学論」)。
 偶々この数ヶ月、女性の書いた書物を立てつづけに読むことになった。八十年代に読んだ作家の大庭みな子と高橋たか子の対談が、当時の私の瞼から幾枚かの鱗を落としてくれた、清々とした豊潤な印象を忘れられないからです(「柔らかいフェミニズム」)。
 一般に「フェミニズム」と総称される思想を語る女性たちには、硬軟様々な思潮の振幅があり、これを一括する芸当はできるはずがありません。多士済々の声に耳を傾けるしかないのです。
 高橋たか子の長編小説「装いせよ、わが魂よ」の主人公・波子は、有島武郎の「或る女」の主人公ほどの明確な輪郭を感じることは出来なかった。これに比べれば、大庭みな子の「三匹の蟹」の方が、静かで重く、したたかで奥深い女の情念の存在を強く呼び起こす。他方、高橋が熱心なカトリックの信者であり、すぐれて高度な抽象力の人であることは端倪すべからざるところで、ここに三島の論理を用いて、彼女は女でなくて「なにか別のもの」だと言ってみたところで、甚だしい疑問が残るばかりでしょう。
 富岡多恵子の小説「波うつ土地」は、残念ながら不毛としかいいようがありませんが、この不毛性こそ自らの思想が立たざる得ない、波うつ荒地だということなのでしょう。
 斉藤美奈子の「文壇アイドル論」は、春樹と龍の両村上、立花隆、田中康夫、林真理子等を俎上に、大衆消費社会の「アイドル」として、いつ値くずれして不良債権化する代物であるかを、さらりと料理して皿に盛った庖丁さばきに「感動!」はしますが、それ以上のものはありません。
 上野千鶴子の「差異の政治学」は、「フェミニズム」を然るべく位置づけ、その思想の核心を取り出してみせた、九十年代の論文の集成ですが、運動家と理論家のほどよいブレンドを、ここに見ることができるでしょう。同氏の「文学を社会学する」によれば、若い頃「俳句」に一時のめりこんだ経験が、彼女の武器である「ことば」を錬磨したようです。
 小倉千加子の「セックス神話解体新書」には、往時にあった新鮮さを、今感じることは無理でしょうが、学者というよりも、上野にはない地に足をつけた関西風の野太さがパワーとなって全開することが期待されます。この小倉と上野の対談「ザ・フェミニズム」に上野が錬成した、次のような「結婚」の定義を味読し、甚だ感心しながらも思わず苦笑してしまったことを告白しなければなりません。
 ー自分の身体の性的使用権を生涯にわたって特定の異性に対し排他的に譲渡する契約。
 この「定義・結婚」は、上野が青春に決別した「断念」にも似た「俳句」を想わせる趣があります。ここに女の尾崎放哉がいるかのようで、東電のOL殺人事件に彼女が共振する所以が、なんとなく得心できるような気がします。
ところで、男/女/性についての先進国フランスは、「結婚」という制度へ男/女の関係そのものを柔軟に取り込もうとしているようです(「パックス法」)。また、最新の「ジャパンタイムズ」の記事によると、ゲイ同士でのセクハラを、高裁へ提訴する道が開けたとか。どうやら不審の時代は、「性」の現場に一等色濃く影を落としているようです。
 さて先夜、アメリカの教育テレビ番組に、映画「氷りの微笑」のシャロン・ストーンが出演しておりました。そこで驚嘆したのは、彼女の柔軟で熱い感性と鋭敏なその知性でした。そうしたものが内からダイヤの切子の如く輝き、その輝きのままに円熟したとも見える、類いまれな彼女の美しさでした! 生まれたときにすでに、四十歳であったと自ら語る、老成した変わり種が、いかにして女優の道を歩きはじめたのか。そして、どのように映画「氷りの微笑」(原題「Basic instinct」)の中で、殺意と紙一重の官能シーンを演じたのか。また、ミニスカートからのびた脚が、男たちを挑戦するかのように交差する、あの尋問場面の有名なシーン。それらが、当日のインタビューのハイライトとなったのは、教育番組とはいえ仕方がないでしょう。
 彼女は、セックスシーンの演技に逡巡する、迷える俳優志望の女性の質問に、稟と瞳を開き、つぎのように真摯に語りかけた、そのことばは理屈や理論を超え、平凡だが力強く、聞き手の生徒全員を魅了し尽くしたようでした。
 「人口の半分は女性、つまり少数派ではないわ。その事実に責任をもつべきね。そのためには、男の願望が作り上げた女性像ではなく、本当の女性の姿を伝えなくてはならない。本当の男女平等というのは、同じラインに並ぶことじゃない。等しく価値あるラインが二本あること。男のようになろうとする必要なんて全くないの。強さを表現するために、男のように振る舞う必要はないのよ。女性の真の姿を表現してほしい。女はあなたの人格の一部、女という目でしか人をみない男は、死んでしまえばいい」。 

ー地方の友人への手紙ー
 拝啓
 妙に暑い夏がやっと去ったと思ったら、もう冬のような天気で、小春日和はどこかへ行ってしまったようです。東北越後のそちれでは、きっと今頃は中空に白い粉が降り積もり、一面の銀世界が広がっていることでしょう。去年は温泉で雪を眺め一献傾けましたが、今年はお互いにそんな気分にもなれませんでしたね。
 温泉の帰り道、君は歯の抜けるようにさびれてゆく地方町の商店街について語りながら、自分の商売に触れることはありませんでした。そして痩せ我慢のように、バブルに沸くよりもこういう時代のほうが、自分には落ち着いていいなんて、君らしい呟きを洩らし、日本がいずれ「自転車泥棒」という昔のイタリア映画のような状況を呈するのではないかと告白しました。いまのデフレがハイパーインフレに転落する惨状をふと想像し、慄然とした思いが胸を過ぎる次第でありました。
 こちらは、新宿歌舞伎町の一角、偶々昼食に立ち寄ったスタンド蕎麦屋で、近くのおっさんという風体の二人が、こんな会話をしていました。別段聞き耳を立てていたわけではありません。自然に耳に入ってきたのです。
 ーこの頃、あの姉さん見かけないけど、どうしたんだろう?
 ーあの子かい、餓死したってよ。あの若い子だけは、決して客をとらなかったんだ。立派だね。
 その近辺では、いわゆる「たちんぼ」を生業とする女たちが病院の建物のまわりに徘徊していることは知られています。だが二人が話題とする若い女性がいたのを知りません。金があれば二十四時間、なに不自由なく暮らせるコンビニがありますのに、「餓死!」だなんて信じられないことです。特異な国柄のせいで困っている、海のむこうの隣国の窮状をマスコミは盛んに報じていたことがありましたが、この日本の大都会のど真ん中で起こっている悲惨事に目を向けたがらないらしいのです。バブルの時には、世界へ出て品もへちまもない豪奢なグルメぶりを大袈裟な番組にしていたテレビは、いまではどこそこのラーメンがどれほど美味く、安いかに興じているありさまで、ほんとうに市井の暮らしの変わりようには茫然といたします。
 朝の通勤の一刻、地下舗道の階段の陰に、毎日というわけではありませんが、女がぼんやりと一人立っている。身なりも化粧、人品卑しからざる、四十前後の女性がどういうわけで、そんなところにポツンと佇んでいるのか誰も知らない。人を待っている気配はなく、時間待ちしている様子にも見えない。ただ地下の一隅にぼんやり立っている。それが不思議に思われてならないのです。
 また茶店の片隅でのこと。コンビニで働いていると思われる若い男が三人、職場の上司への鬱憤や不満を吐き出し、「ああ! もうやっていられねえー」と嘆息まじりの愚痴のやりとりを耳にした。さもありなんと不憫に思いながらも、これが二十歳前の青春の一齣なのかと悪い時代に鬱屈する彼等の青春に哀れさへ覚え、お陰でこちらも心穏やかではありませんでした。
 そしてようやく鬱陶しい若者が姿を消してくれたと思ったら、入れ替わりに今度は三人の若い女と一人の若造が席に座った。とやにわに男が自分の携帯番号を女三人に入れさせ、これからの仕事の段取りを言葉少なに伝えていました。どうやら二十歳前後の女達の夜のアルバイトは、外人相手の売春かと思われます。得体の知れないその男への携帯だけが、彼女等のまさかの時の安全の手蔓であり、報酬を分配する要となるもので、互いに素性を証さぬ手口は周到な配慮でもあるのでしょうか。
 それでも一抹の不安を呑み込み、これから始まる危険なアルバイトをどこか、ワクワクと楽んでさえいる様子の若い女達に、「春を鬻ぐ」という暗い陰は微塵も見えず、そこには不敵で太々しい勇姿さえ漂っているのには驚嘆さえしました。やはり身体を張ってのビジネスこそが、芯から人間を凛とするのかと、ことの良し悪しは別にして、こういう脳天気で破天荒なバイタリティーを萎縮した今の日本に見ることは稀なものですから、妙な感心をしてしまった次第です。
 スマートで小利口者が、インターネットで門閥や学閥の網を張り、至る処に二世や三世が顔を出し始めるようなところに、日本の将来はないのかも知れません。
 ー何せうぞ くすんで一期は夢よ ただ狂え
 君はいつぞや、こんな室町時代に編纂した「閑吟集」の一節でも歌いたいとお仰言っていましたが、なんだか分かるような気がしないこともありません。

 さて過日、実に久しぶりに妻と「たそがれ清兵衛」という映画を観てきました。
幕末の庄内地方の下級武士が主人公です。「寅さん」の山田洋次監督の時代劇への挑戦でしょうか。山田監督は時代劇の魅力が刀にあることをさすがに見逃さず、二度の決闘シーンを映画に入れることを忘れはしませんが、人間の幸福とはなにかという現代的なモティーフを導入する工夫を凝らしています。妻に二人の娘を残して先立たれ、借金と子の養育に追われて、風呂に入る暇も身なりをかまう余裕もない武士は、同僚と仕事後のつきあいもせず、まっすぐに家路につく貧乏生活の日々を淡々と送っています。藩の同僚達はそんな彼を「たそがれ」と渾名し、陰口をたたいて軽んじている。みかねた本家の叔父が後妻をとれと命令しますが、彼は二人の娘を育てる得難い幸福感を吐露して叔父の不興を買います。
 やがてそんな彼が小太刀の遣い手と知る藩より、ある男を斬殺するようにとの命令が下るのです。この映画を観て「甘い」という感想もありましたが、山田洋次監督は「情の世界」に藩の政治という「非情の世界」を対比させ、時代の転換期を描こうとした佳作です。
 人の心が「情」と「非情」とに分裂し、この二重性を生きざる得ないことこそ、「不審の時代」の免れ難い特徴です。家族を愛する清兵衛が「情」の世界を生きる農耕型の定着人間なら、死んだ娘の遺骨を頬張り、自分を殺害しようとする藩などを見限り、逃げて放浪する中で活路を求めようとする余吾善右衛門もまた、時代の転換期を生きる狩猟型の移動人間でありましょう。

 はてさて日本は黄昏時でしょうか。江戸時代では黄昏時が一番危ない時刻なのだそうです。なぜなら「たそがれ」の語源は、「誰そ彼」だからで、余所者が徘徊するからとのこと。いいではありませんか、日本中が「ひきこもり」をするよりも、不審者さえも呑み込んで大きく飛躍することができるならば。

   太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
   次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 これは三好達治の「雪」という有名な詩ですが、この日本の一見平和な風景を詠んだたった二行の整然たる詩語に、詩人がどれだけの思いをこめているのか、そんなことを考える今日この頃なのです。
 どうか家族ともどもお達者でお暮らしください。では、いつかまた、お逢いする日を楽しみに。不一




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でブログをやっているあゆといいます。
色々なブログをみて勉強させていただいています。
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私もリンクさせていただきます。
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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