偶感・雑感
ある友人から、いま、この日本人の精神が、ふかいところで変わりつつあるのではないかという感想を聞きました。戦後70年も経ち国民の心になんの変化もないとなれば、むしろおかしいこちらにあるのでしょうが、この変わり様にはより良い兆候が感じられないとの意味合いがあるのでしょう。こうした変化の態様が問題となるところですが、ここ数年、メディアから流れてくるニュースの類いには、異様な出来事が相次いでいます。メディアの反応もこれに呼応して、日本の歴史を古代まで遡り、あるいは、明治維新以来、または戦後から生まれた代表的な日本の文化人の労作の書物等の紹介なり、戦後の事件やら歴史を焦点にするテレビ番組が多く見られました。
「なにかがゆっくりと狂っている。狂いのもとをあかすことができないまま、狂いがますます闌けていく。店をでると、夕顔がうす闇にさっきよりさらに白くにじんでいた。」(「水の透視画法」辺見庸 「夕顔に咲くうどん屋にてーマイ・ハシしていますか?」)
作者は気鋭のジャーナリストとして活躍後に、「自動起床装置」で芥川賞を受けた小説家である。「水の透視画法」は苦い観察が随所に散りばめされ、読者をけっして解放させてくれるようなものではないが、一種、毒をはらんだ文章のきれあじは、鋭くそして飄逸な批評性にみちて、刮目すべき炯眼が光っています。
たとえばこんな一章節は、漠然とした印象にくっきりとした文章である暗示を与えてくれます。
「バラク・フセイン・オバマ・ジュニアという人物にはついつい眼がいってしまう。好感というのではない。期待でもない。驚きと猜疑が入り交じった、どちらかというと、映画感覚で彼を見ている。(中略)。彼の眼は理想に輝き、ひとへのやさしさにあふれている、とよくいわれる。そのとおりかもしれない。そのように台本どおりしっかりと演じ、役柄をこなしている。私の興味は、だが、かれの眼にときおり差す、暗く冷たい、じつに不可解な影のほうにある。影は演技を超えている。世界はあの笑いにではなく、かれの眼の翳りによって変えられるのかもしれない、などとおもう。」(「B・オバマとは何物か?『私はナイーブではない』」
その他、脳梗塞にあらがい、するどくやわらかに打刻される文字列がえぐる世界の表層に、ゴヤの黒の絵のごとく、露わにされた残骸の姿を鮮やかにさらしてくれるようで、凡百の識者の文章にはないものです。
先日、川瀬巴水展へいきました。テレビで紹介さらたこともあるのでしょうが、会場には列をなして集まった人々がいました。巴水の風景の版画に現代の「広重」をかさねる形容もありますが、なによりも、くだんの友人の感想が適確に、巴水の版画に蝟集する日本人のこころを言い当てているようです。
「巴水の邪心のない風景画は、酔い冷ましの銘水みたいに沁みてきました」と、そして、また友人の一画家は、「近代の抒情」という言葉を使った葉書をくれました。この「近代の抒情」という言葉は、その裏にイロニーが込められていないこともありませんが、そうとしか表現できない賞賛でもありましょう。青木繁の古代幻想を礼賛していた画家には、この「近代」が探しても見つからない母の乳房のように歯がゆく、居ごごちのよい時代ではないことは明らかでしょう。「近代」の一語が世紀末的な、憂鬱、懈怠、頽廃の感情をともなわないはずはなく、豊麗かつ純一なる「美」を憧憬しながら、それとは撞着する色彩の配合、ある種のアクのつよい表現と微妙な描写を駆使しての独自の「理想」をもとめ、時代の逆説を露わにせざるえないところなのでしょうが、ここには悲しい反時代精神がとる鬱屈があります。抑圧された甘美が底に滲んでいます。これほど真摯な精神が跼蹐を強いられている現代性とは、いったいなんなのでありましょう。
日本の人々の心が、不幸にも二人の人質の血がアラブの大地に流されたそのときから、さらにその変化は加速され、折れ曲がった釘のような日本列島の姿を露わにすることが危惧されますが、そうでないことを望んでやみません。
かさねて先の一書からの長い引用を行い、とりあえず、ブログを閉じることにします。
「私のばあい、すさみはおそらく胸底の〈断念の沼〉からもやもやとガスのようにわいてきている。ものごとを突きつめて考えることを徒労と感じさせる悪水が断念の沼にはとどこおっている。怒りの表明を〈どうせ無意味さ〉とせせら笑うカエルたちが断念の沼にはたくさん棲んでいる。考え掘り下げ行動する経路を手もなく脱臼させ無力化させてしまう沼気が断念の沼から絶えずわきのぼっている。そして、私の断念の沼はこの国の無数の人びとのあきらめの沼と地下の暗渠でつながり、巨大なすさみの風景をこしらえているのだが、まか不思議、すさみはあまりにいきわたっているために、あたかも歴とした正気のように見えるのである。」(「断念の沼のカエルたち 視えないすさみについて」)
上記の文章は過去の文章の再掲であるが、現在に置き換えてもいいと思われる。例えば、ブラク・オバマをドナルド・トランプ等に。
「なにかがゆっくりと狂っている。狂いのもとをあかすことができないまま、狂いがますます闌けていく。店をでると、夕顔がうす闇にさっきよりさらに白くにじんでいた。」(「水の透視画法」辺見庸 「夕顔に咲くうどん屋にてーマイ・ハシしていますか?」)
作者は気鋭のジャーナリストとして活躍後に、「自動起床装置」で芥川賞を受けた小説家である。「水の透視画法」は苦い観察が随所に散りばめされ、読者をけっして解放させてくれるようなものではないが、一種、毒をはらんだ文章のきれあじは、鋭くそして飄逸な批評性にみちて、刮目すべき炯眼が光っています。
たとえばこんな一章節は、漠然とした印象にくっきりとした文章である暗示を与えてくれます。
「バラク・フセイン・オバマ・ジュニアという人物にはついつい眼がいってしまう。好感というのではない。期待でもない。驚きと猜疑が入り交じった、どちらかというと、映画感覚で彼を見ている。(中略)。彼の眼は理想に輝き、ひとへのやさしさにあふれている、とよくいわれる。そのとおりかもしれない。そのように台本どおりしっかりと演じ、役柄をこなしている。私の興味は、だが、かれの眼にときおり差す、暗く冷たい、じつに不可解な影のほうにある。影は演技を超えている。世界はあの笑いにではなく、かれの眼の翳りによって変えられるのかもしれない、などとおもう。」(「B・オバマとは何物か?『私はナイーブではない』」
その他、脳梗塞にあらがい、するどくやわらかに打刻される文字列がえぐる世界の表層に、ゴヤの黒の絵のごとく、露わにされた残骸の姿を鮮やかにさらしてくれるようで、凡百の識者の文章にはないものです。
先日、川瀬巴水展へいきました。テレビで紹介さらたこともあるのでしょうが、会場には列をなして集まった人々がいました。巴水の風景の版画に現代の「広重」をかさねる形容もありますが、なによりも、くだんの友人の感想が適確に、巴水の版画に蝟集する日本人のこころを言い当てているようです。
「巴水の邪心のない風景画は、酔い冷ましの銘水みたいに沁みてきました」と、そして、また友人の一画家は、「近代の抒情」という言葉を使った葉書をくれました。この「近代の抒情」という言葉は、その裏にイロニーが込められていないこともありませんが、そうとしか表現できない賞賛でもありましょう。青木繁の古代幻想を礼賛していた画家には、この「近代」が探しても見つからない母の乳房のように歯がゆく、居ごごちのよい時代ではないことは明らかでしょう。「近代」の一語が世紀末的な、憂鬱、懈怠、頽廃の感情をともなわないはずはなく、豊麗かつ純一なる「美」を憧憬しながら、それとは撞着する色彩の配合、ある種のアクのつよい表現と微妙な描写を駆使しての独自の「理想」をもとめ、時代の逆説を露わにせざるえないところなのでしょうが、ここには悲しい反時代精神がとる鬱屈があります。抑圧された甘美が底に滲んでいます。これほど真摯な精神が跼蹐を強いられている現代性とは、いったいなんなのでありましょう。
日本の人々の心が、不幸にも二人の人質の血がアラブの大地に流されたそのときから、さらにその変化は加速され、折れ曲がった釘のような日本列島の姿を露わにすることが危惧されますが、そうでないことを望んでやみません。
かさねて先の一書からの長い引用を行い、とりあえず、ブログを閉じることにします。
「私のばあい、すさみはおそらく胸底の〈断念の沼〉からもやもやとガスのようにわいてきている。ものごとを突きつめて考えることを徒労と感じさせる悪水が断念の沼にはとどこおっている。怒りの表明を〈どうせ無意味さ〉とせせら笑うカエルたちが断念の沼にはたくさん棲んでいる。考え掘り下げ行動する経路を手もなく脱臼させ無力化させてしまう沼気が断念の沼から絶えずわきのぼっている。そして、私の断念の沼はこの国の無数の人びとのあきらめの沼と地下の暗渠でつながり、巨大なすさみの風景をこしらえているのだが、まか不思議、すさみはあまりにいきわたっているために、あたかも歴とした正気のように見えるのである。」(「断念の沼のカエルたち 視えないすさみについて」)
上記の文章は過去の文章の再掲であるが、現在に置き換えてもいいと思われる。例えば、ブラク・オバマをドナルド・トランプ等に。
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