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芥川賞「影裏」雑感

 カズオ・イシグロの小説「日の名残り」はふと惹かれて読んだことがあった。訳文もよかったのだろうが、読後感に現代小説に稀な温い感動があった。それで「私を離さないで」につい手が伸びた。だがノーベル賞をとるほどの作家の想像力はさらに現代が抱える課題に果敢に向かっていくらしく、こちらはひんやりとした感触があった。それは悪いものではなかったが。作家がその本能からこの世界の核心と向かい合っている限り、読者はそこから何物かを感得するものだからだ。今年度、スエーデン・アカデミーがノーベル賞をこの作家に贈ったことにはなんの不思議なものもない。毎年候補に上がる村上春樹の文学がこの賞を逸してもう数年が経つのではないか。日本の文学にとってなんとも残念なことである。
 NHKが放映した「文学白熱教室」(2015年)のカズオ・イシグロの講義は、その優等生的な文学スタンスといい、昨年のボブディランとは好対照であった。イシグロ氏は冒頭、つぎのように発言している。
「なぜ事実でなくフィクションに関心を懐くのか」というものだ。この問は「自然が既にそこにあるのになぜ描くのか」という絵画へのパスカルの問いと根本的に類似している。これは小林秀雄がゴッホの手紙を読んだ感想文「ゴッホの手紙」を最近に再読して改めて思い及んだことだが、画家の情熱はこうした懐疑を超えて行かざる得ないもので、ゴッホのように余に激しすぎる魂は遂に狂気へと導かれるところ、小林氏はそこに孤独なる一人の芸術家の疑いようのない正気を見いだしていた。
 ところで、この現代で小説を書くとはいかなることであろう。今期の芥川賞となった「影裏」なる小説は現代のいかなる姿態を描いているのであろう。「わたし」は、既に息子と縁を切ったという父親に出会う。そして父親から「息子はまた死んじゃいない」という意外な確信を聴くのである。「巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向」を持ち、「日常生活に見聞きする喪失の諸形態にすんなり反応していちいち感じいり、それがある種壮大なものに限られる」ことから、「わたし」は日淺という男を「岩手でただ一人心を許せる友人」として惹かれていく。その友人が釣りをしてあの三陸の津波にのまれたかとその行方を探して様々な人間に行き会う場面が展開していくのである。だが作者はここに登場させる人間たちへいかなる関心を懐いているのか定かでなく、ストーリーとしてもどうにも貧寒な印象しかないのではないか、と思われる。一体この小説のどこに作者が「小説の快楽」なるものを感じていたか、どうにもいまいちの感が拭えないのである。
「薪でいちばん優秀なのは流木」であることを、作者が心得ているのは文学的な本能からで、かくして最も乾燥している作家達の魂を燃やすくらいの技量はあるにはちがいない。勢いよく「ガラスの火」を吐き出させる程度の筆力がなければ最終選考に残るはずのないものだ。選者等が指摘するように、この作品に陰影する「いかがわしさ」こそが、この作者が意識していようがいまいが、この小説の奥底に見え隠れする魅力であるのにちがいない。この「いかがわしさ」は現代の日本の社会に瀰漫する精神の荒廃から発するもので、このひからびた人間性とは対照的な自然の野生を鮮かに描くことにより、作者は少しばかりの息吹をこの短編に与えることに成功したのだ。「電光影裏春風を斬る」なる大時代な禅語はここにあるので、この禅語の意味などを探しても仕方ないことなのである。
 エミリー・ブロンテの「嵐が丘」を好む30代後半の若い作者に期待したいところだが、「嵐が丘」の背後には荒涼たるヒースリーの丘があった。人間世界を相対化する自然の猛威こそこの世界文学の魅力の核心に潜むものだろう。そう言えばカズオイシグロ氏は「白熱文学教室」で、もう一人のブロンテの姉妹である シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」に関心が惹かれると語っていたことを思い出した。因みに、むかし「ブロンテ姉妹」という映画をみたのは、私の好きなイザベル・アジャーニが出ていたことと、この姉妹が暮らしたところが私の娘がホームステイをしていた家に近い場所であったことにある。この孤独な三姉妹が暮らす暗い家の中から、とりどりの物語が紡ぎ出されたことに、私は畏怖と驚嘆を覚えたところだ。
 ともあれ、20世紀の現代物理学はこの自然から原子を分裂させ、巨大なエネルギーの抽出に成功したが、これを制御する技術を完全に獲得するには至っていない。それどころか、これから排出される放射能を含んだゴミの処理に苦慮している現状ほど滑稽な光景はないだろう。そして抑止力としての核兵器はこの地球になおも凝然と輝くばかりで、「巨大なるものの崩壊」の予兆はまさにここからやってくるのだが、この小説がこのことに一指も触れている形跡を残念ながら感得することは出来なかったのである。







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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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