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運慶展

 上野で開催中の運慶展へ最終日に見に行った。以前にも運慶を見たが今回は「興福寺再建記念特別展」とのことで、多くの運慶が見られると奮い立って会場へ向かった。そして3時間の閲覧を終えて出てくると、夕闇の中をこれからの観客が引きも切らずにやってくる光景に驚嘆した。これは日本人の好奇心の発露だなどと、悠長なことを言って済ませられるものではない。確かに運慶の作品は一瞬で我々を魅了する力に溢れている。だがそこには思わずに手を合わせる人や堪えきれずにそっと目頭を押さえる女性がいたように、こころを直に掴むただならぬ牽引力がこれらの仏像にあるからだ。彫刻の秘めた迫力がそうした感動を与えずにはおかないのだろうが、さらに深くて強い精神性が溢れていることで、はじめて観客のこころは動かされているにちがいない。そうかこれが運慶の彫刻なのか、これが鎌倉という時代が持った廉直で剛毅な精神であるのかと、萎縮しかけた私のこころは粉砕され鼓舞されたのは、運慶の作品の持つふしぎな魅力としかいいようがない。私は圧倒される思いで階下へ下るエスカレーターに乗っていた。
 正面に端座する「円成寺大日如来座像」にまず私は息をのんだ。一点の迷いも疑いもない姿とはこのように美しいものであるのか、いやいや、そんななまちょろい形容がなんの意味があるのかという悽愴なものがこちらの全身を慄然とさせるのであった。「聖観音菩薩立像」の清楚ただならぬ白い肌、引き結んだ口元に漲る断固たる意思に漂う気品は神々しいまでのものだ。そして「重源上人座像」の老僧はその老いの撓むままに自然に祈りの姿勢をみせ、弱々しいものの翳は微塵もそこにはない。高山寺の「子犬」は遙かむかしに小雪舞う栂尾の山寺に上ぼったときに、撫でさすりスケッチ帖にデッサンした微かな記憶が甦ってきて不思議な気がしたものだ。志賀直哉が思わずその手に触れた子犬はこれに相違ないだろう。
 たしか漱石は「夢十夜」の中に、運慶が生きている夢をみて明治にはもはや運慶が彫りだした木などはどこにもない悲嘆を記していたことを思い出した。明治に見いだすことができないならどうしてこの現代に仏像を掘り出せることなどができようか。武士が台頭してきた鎌倉には現代人が想像さえできない新しい時代の息吹があったのにちがいない。ただギスギスして寛容さを失った現代社会の相貌に思いをめぐらし、そこに生きている人々の行き場のない悲哀がとけ込みだした夕闇の上野の山を、私はただ黙々と下った。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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