FC2ブログ

京都二泊三日

 遠近にかかわらず旅をするとなると、一冊ぐらいの本を持っていきたくなる。家で読むより本が異なる顔をみせることがあるからだ。今回は京都への二泊三日の旅。高校生のときからの友人と「京おどり」を宮川町でみて、知恩院にある谷崎潤一郎の墓に詣で、一人で帰ってこようとの心算であった。あまり欲張らないのは、近頃、あまり体力に自信がなくなったからである。先日、大学の同期の者と外苑の新オリンピック競技場の建築状況を見て、新宿御苑で散策しただけで、歩行が困難になった。新宿駅ちかくの路上で仲間と別れ、ひたすら電車に乗り家へ帰ることがやっと。目がぐるぐると回り、酔漢のような千鳥足でしか歩けなくなった。近年、右目が不自由となり、段差があるとつまづくのである。おまけに家を出るときにステッキを持っていくのを忘れていた。こんな具合だから、文庫本一冊ほどしか荷物に入れることはできない。以前に買った文庫本から、活字の大きな、できるだけ空白のある本がいいと、詩人・荒川洋治の「詩とことば」を手にした。目次をみていると、「詩と散文の『戦争』」の章があったので、早速、車中でそこを読み出した。すると面白いことに、菊池寛が芥川賞を創設したのが昭和10年で、その翌年「文学界」で菊池寛は「詩は亡びる」と座談会でしゃべり、同年の「文芸春秋」でも同じことを書いていたらしい。ちょうどこの春私が出版した本の中で、昭和11年に小林秀雄が「現代詩について」を発表していたことから、「小林秀雄の初期像」という評論を載せ、小林氏の現代詩への疑念の表白から論を展開していたことと関連があった。だが私の注目したのは菊池寛の「詩」への開戦布告が、小林秀雄の「現代詩」への疑念とちょうど同じ時期に発表されていたことであった。もちろん、菊池寛の詩への言及が小林のように自分の身を削っての詩へ没入の経験からの批判ではなく、これに反論した萩原朔太郎が「まるで中学一年生の思想である」と笑う程度であったらしい。だが菊池寛が文藝春秋社を起し、雑誌の売り上げがおちる一年に二度、「芥川賞」を創設してから、この国では「詩」が「小説」の後塵を拝するようになってきたという事実には笑えない事情があった。
 さて、友人との京都旅行は案の定というように私を疲労させた。京都が好きで度々一人で旅行している友人には自分の庭を歩くぐらいの気軽さである。毎年に「都おどり」を観に行くほど、彼は京都に惚れているのだから当然だろう。むかし、サントリーの宣伝部で働いた彼は、抜刀術をやり刀剣に詳しく歴史小説の愛読者でもあった。美人の細君を若い頃に亡くす不幸にあったが、一人娘を成人させるにはどれほどの苦労があったことであろう。私を「家事能力ゼロ」と断ずるほどに、彼が男手ひとつで職場と娘の養育の両方に手をかけて暮らしていた歳月は想像にあまりあるものがあった。私はといえば、彼とは対照的に個人の趣味的生活に傾倒していたと言ったほうがいいだろう。私が話す言葉が耳に入らないほどに彼の耳は遠くなっていたが、一人暮らしの長い彼には他人の声などを聞く耳などは持っていなかったのである。「おまえの話しは、滑舌がわるいのでまるで聞こえないよ」とお小言をもらった。そのようになった経緯を説明することは自分の過去の難事を話さなければならない。彼が自分の忍苦の日々を語らないように、私も彼が家事と仕事とに費やしていた年月に経験した私事などを語る必要はないのである。娘を嫁がせ一人暮らしをしていた彼が、「孤独死」を口にして平然としていたが、そのとおりに彼の一生が終わるのは目に見えるようであった。京都に惚れて「京おどり」やら「都おどり」の芸子の舞う華やかな歌舞に酔い、70過ぎの晩年の齢を好きに暮らす自由はどれほどに得がたい時間であっただろう。それは彼に残された散文的な生活を生きることであり、時に「詩」を夢みるような事と変わりはないのである。
 一日目の京都駅から電車に乗継ぎ、四条大橋から鴨川沿いを歩き、宮川町のいかにもこれが京の町という小体な茶屋街を抜け、「京おどり」の宮川町歌舞練場まえに来ると、去年先斗町で「鴨川おどり」をみた光景と同様な人だかりがあった。舞台の装飾は桃山時代風の古めいた趣があり、庭に見事な牡丹が咲いていた。舞子が茶筅をたててくれ菓子を口にした後、二階から舞台の踊りを観た。京美人の舞妓たちが見せてくれる華麗な舞台をみて、建仁寺を散策する頃になると眠気が私に襲ってきた。健脚の友人の足に私は遅れはじめた。目も頭も朦朧としだした。私を案じた友人が去年に食事をとった店で休憩しようとしてくれたが、食欲はまるでない。出された水も飲まずに席を立った。タクシーに乗ってホテルへ直行したが、友人はまだ京の町中を見て回りたいということで、ベットに横になった私を残して外出した。ツインにしては高級なホテルであった。目覚めてから私はルームサービスで夕食を取った。帰ってくるなり部屋に置きっ放しの食器を「臭い」と、部屋から廊下へ出してくれた。その手早い動作はいかにも手慣れた家事のひとつにみえた。
 かくして友人の手配したホテルと京おどりを観る一日は予定通り済み、二日目となった。晴れた好い日よりである。友人が行きたいという京都御所にある「迎賓館」へタクシーを飛ばした。本来なら友人はバスに乗り町なかを歩きたいのだろうが、私の身体はそれに耐えないのである。「迎賓館」はさすが警備が厳重であり、ステッキも代りのものに替えてくれとの念のいれようであった。つぎに御所からバスに乗って「都おどり」の京都造形大学の中にある会場へ行った。開演後すぐに私は前後不覚の眠りに落ち、終演まじかで目が覚めた。前日の舞踊より踊りの線がきれいではないかとの印象を語ると、前日が花柳流で今日のは井上流の違いだとの友人の説明になるほどと得心した。
 愈々、残すは知恩院の谷崎の墓を拝むだけとなった。体力の限界からタクシーに乗ることを提案して、吉田山をぐるりとまわり知恩院まえでおりた。墓に入るとすぐに谷崎の墓石を探した。寺男に聞くと、しだれ桜が一本見えたらその下のほうにあるとのこと。だが友人は墓に興味はないらしく先を歩いていった。私は構わずに谷崎の墓を探しに奥へ進んだ。以前写真でみた墓石が一樹のしだれ桜の下にあった。だが私の頭はもうろうとして、それがたしかに谷崎の墓であるかの確信が掴めない。一応写真だけは数枚撮った頃に、友人が戻ってきた。昭和四十年没と中央公論社社長の参詣の札からして、谷崎の墓にちがいないと友人は保証してくれた。二日目のホテルは新築で、部屋が三つに大きなテレビが二つあった。翌朝、ホテルの玄関で別れ、私は京都駅へのシャトルバスから新幹線にとび乗った。
 帰途の車中で、「詩とことば」の続きを読んだ。簡単な文庫本だが、現代詩をめぐる状況が大づかみにして、分かりやすく書いてある。以前、現代詩をテーマに荒川洋治、谷川俊太郎、大岡信の鼎談をある文芸誌で読んだことがあった。荒川を先輩格の二人の詩人がちくちくと批判する陰りをみせた詩壇の風景がみえるようであった。荒川という詩人には詩の領域を拡大する気構えがあり、大胆なことを言うことは承知していたので、予想どおりの展開と思われたが、現代詩の衰退がこのような低調な鼎談となることが哀れでさえあった。荒川は「詩と小説の『戦争』」のあと、「詩を生きる」の章で、小野十三郎、堀川正美、井坂洋子、谷川雁、村上一郎の詩を紹介して、こんなことをいう。
「いくつものジャンルが交わっていた時代には、ことばも環流していた。自然で自由な交易があった。この時代のよさである。1975年三月、村上一郎は、武蔵野の自宅で、日本刀で自刃する。・・・そしてそのころから、詩を語る人は詩、小説を論じる人は小説というようになった。・・・。興奮もまた、去っていったのである。・・・いまは時代も、たたかう相手も鮮明ではない。読者もいない。何もなくなったのだ。こんなとき、そもそも詩は、何をするものなのだろうか。・・・詩はひとりになった。詩は人が生きるという、そのことにいまとても近づいているのだと思う。」
 「詩が行為になるでしょう」と詩人のランボーは言ったが、私の評論「小林秀雄の初期像」で広津和郎の「散文の精神」から、「散文は人生の隣りにある」というくだりを引用し、ヴァレリーの「ドガ、ダンス、デッサン」から、詩人のマラルメと画家のドガの、詩をめぐる二人のやりとりを思い出しながら、私の中に秘かにに微笑するものがあった。




    DSC_0348.jpg
    DSC_0333.jpg








関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード