熊谷守一
養父は箱造りの職人だった。その養父に熊谷守一についていた彫り師と親交があった。ご近所でもあり親しかった。金に困ると彫り師は養父へいろんなものを売り込んできた。あるときは、地方の古物屋で埃をかぶっていた円空の仏像だとか、ガラスコップ職人の高価なコップだったりした。いちばん多かったのは、熊谷守一の作品類だ。仕事を止めて郊外に建てた平屋の床の間に架けてあったのが、熊谷守一の「寒山拾得」だった。落款はみえたが号数がなかった。古物商にみせたがやはり安値で買い叩かれた。我が家にそれを架ける余裕があればよかったが、九坪ほどの下町の古い実家をリホームした家に置いておく場所は残念ながらなかったのだ。一緒に安価な値段で売ってしまった彫り師(五百旗頭欣一)の五枚一式の桜木に彫った作品だけは惜しかったが、それも持って置くスペースがないことで手放した。結局、日本経済新聞社が昭和49年の特別限定版として出した「熊谷守一画集」(NO.17)と「へたも絵のうち」という本一冊が、我が家に残っている。大きく重量のある画集は、おくつきに養父の名前が墨書してある。
これだけは手放すことはできない。養父が熊谷守一に好意を持っていたことがよくわかるからだ。養父にあるとき銀座の画廊へ連れていかれたことがあった。熊谷守一の娘さんの個展だった。養父をみるとすぐに笑顔で声をかけていた娘さんとも親しいようだった。養父はそこでレリーフを一品買った。封筒から現金を無造作に娘さんへ渡していたのを覚えている。すべて現金主義だったらしい。
熊谷守一という画家は、テレビドラマにもなった。その奥さん役をしたのが樹木希林さんだ。山崎努が守一を演じていた。実際の熊谷守一の晩年の写真は、吸い込まれるようないい顔をしている。芸大では青木繁と同期生だったらしい。あの傍若無人で気むずかしい青木が、熊谷守一さんだけは親しくしたというからには、若い頃から「生涯無一物」を標榜して、仙人のような人柄であったのだろうか。文化勲章を「いらない」と断ったという。貧乏で男と女の子二人を亡くしているのにだ。
今泉篤男が「その人と絵」で、同じ二科にいた小出楢重が「天狗の落とし札」と評したというとおりの画風である。昭和52年に97歳で没している。養父も妻が亡くなってから20年後、医者へも行かず薬も飲まず、埼玉の土地の畑で働いて、一人92歳まで生きた。今度、7回忌を亡妻の20回忌と一緒にやるのである。

これだけは手放すことはできない。養父が熊谷守一に好意を持っていたことがよくわかるからだ。養父にあるとき銀座の画廊へ連れていかれたことがあった。熊谷守一の娘さんの個展だった。養父をみるとすぐに笑顔で声をかけていた娘さんとも親しいようだった。養父はそこでレリーフを一品買った。封筒から現金を無造作に娘さんへ渡していたのを覚えている。すべて現金主義だったらしい。
熊谷守一という画家は、テレビドラマにもなった。その奥さん役をしたのが樹木希林さんだ。山崎努が守一を演じていた。実際の熊谷守一の晩年の写真は、吸い込まれるようないい顔をしている。芸大では青木繁と同期生だったらしい。あの傍若無人で気むずかしい青木が、熊谷守一さんだけは親しくしたというからには、若い頃から「生涯無一物」を標榜して、仙人のような人柄であったのだろうか。文化勲章を「いらない」と断ったという。貧乏で男と女の子二人を亡くしているのにだ。
今泉篤男が「その人と絵」で、同じ二科にいた小出楢重が「天狗の落とし札」と評したというとおりの画風である。昭和52年に97歳で没している。養父も妻が亡くなってから20年後、医者へも行かず薬も飲まず、埼玉の土地の畑で働いて、一人92歳まで生きた。今度、7回忌を亡妻の20回忌と一緒にやるのである。




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