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筆舌転々

 上野の文化会館でひさしぶりに音楽を聴いた。音楽ほどこころを癒やしてくれるものはない。一時はグスタフ・マラーの全曲を聴きに通ったことがある。たしか80年代にマラーが流行った。作曲家の柴田南雄が「グスタフ・マーラー」を出版したのが1984年である。ラジオから流れるマラーはすべてテープに録音した。なぜそんなにマラーに熱中していたのか。なぜ惚れたのかと同様に、それは説明できないものだ。マラー関係の映画も観た。ビスコンティの「ベニスに死す」の映画は、トーマス・マンの原作にはない映像美が魅惑だったが、マラーのアダージョの調べがなければ花は死んでいた。最もマラーの心理を解剖したのは、たぶん、フロイトだろう。「母」への愛と「死」への欲動。第五番の第四章「アダージェット」にある旋律は、神韻縹渺として馥郁たるものだが、その底にはこの不可解な情念が流れている。作家の三島は音楽を聴いていられる人間が信じられないと嘯いたことがあるが、音楽の「美しさ」に悪魔的なものを感じていたのにちがいない。深夜、突然、ショパンのプレリュウードの4番を耳にして、戦慄したことがある。毎日、NHKのラジオの第二に流れる音楽は短いものが二曲ある。耳に蛸ができるほど同じもので呆れてしまう。番組担当者がどれほどに熱心であるのかと驚愕を通り越す。視聴料金契約で勝訴した結果料金収入が増えたらしいが、もういい加減にしてもらいたい。いい音楽はこの世に数多あるのに、どうしてリストが新しくならないのであろう。学校給食のオバサンだって工夫をしているだろうに、不思議でならない。先日は「マリアカラス」のパリでのデビューオペラ、1959年の白黒のDVDを視聴した。ノルマからはじまり、ヴィオレッタ、トスカなどの歌唱を聞いた。トスカの演技力には素晴らしいものがある。その後、池之端のバーへスコッチを飲みに行ったが、客入りがぐんと減っていた。洋酒より日本のウヰスキーの方へ人気がでているせいだろう。淋しいかぎりであった。
 さて、アメフトで名を広めた大学病院で、目を治療してもらったせいで、余計に目を悪くした知人の話しを聞いたが、憤激であいた口がふさがらなかった。知人はいまは朗読を盛んに聞いているらしい。読書が不自由になった年寄りには、朗読を聞くしか楽しみはないのだろう。だが奥さんの話しでは、今年75歳なのに居合道大会の五段の部で準優勝をしたという。年寄りが居合で顔面に青筋をたてての演舞ほど、見苦しいものはない。この老人は春風駘蕩の居合であった、見る人を唸らしたというから立派である。
 ところで、労働人口の棺桶型構造の日本の将来は暗澹たるものだ。島国の鎖国的体質は外国人労働者を容れる制度の緩和には消極的で、なんとかIT技術等の開発利用で乗り切ろうとの腹にちがいない。明治期、アジア諸国民との友好を謝絶したのは諭吉先生だが、先進国の西欧を追随して近代化を図った日本に、いまさらアジアの諸国民が喜んで流入してくれる措置もないだろう。ヴェトナム人は日本より台湾を希望する者が多いと報じるテレビ番組を見たが当然のことである。
 さいごになるが、国政を担う高級官庁の指導者たちが、次々とセクシュアルハラスメントの嫌疑で辞職する光景ほど日本的なものはない。いじめの根底に「政治学」を覗く書物「いじめの政治学」(中井久夫著)が出版され、書評を書いた柄谷行人は、いじめがたんに「いじめる」だけでなく、人間の「隷従化」があるとみてその過程の三段階を明示している。第一は被害者の「孤立化」、第二に暴力をふくむ「無力化」、第三に「透明化」であるが、私の乏しい経験からいえばこの「透明化」こそが注目しなければならない。この段階では被害者は強度なPTSDの結果、被害の体験を対象化することができない。それどころか、被害者へ手を差し伸べようとの協力者にさへ疑心暗鬼の目をむけ、柄谷のいうとおり反撃もできずに加害者の末席に加わるにいたる。被害が客観化されるのは被害者が自殺後である。良人が自殺した細君に事情を聴取しようとしたが、彼女はショックで発狂し家族は離散して、恰も完全犯罪のようにすべてのアリバイへの手がかりが消失していたケースがあった。「いじめの政治学」が現実の政治家の応用を懸念するのは当然だろう。ちょうど映画「マルクス・エンゲルス」を観た直後のせいで、この「透明化」こそ現代の見えない隷従の実態があるのだが、マルクスがエンゲルスと共同して調査した窮乏する労働者階級の実態のようには、はっきりと見えないのが現実となっている。「マクベス論」「日本精神分析」や「日本近代文学の起源」を書いた柄谷であればこそ、中井のこの書物に的確な書評が書けた所以なのだ。
 かつて森敦の「意味の変容」への賛意の表明が行われたのも、「われわれが『客観的には地球が太陽のまわりをまわっている』というとき、それを保証しているのは経験ではなく、数学なのである」という「日本文学の起源」の言説は、「人間の評価を重さで測れるかってんだ」という柴又の寅さんの啖呵と同様の痛烈な批評精神の証左であろう。
 音楽からとんだところへ、話しが転々としたが、アメフトのボールのようにどこへ転がるが分からないところに、いびつな時代の話題の面白さがあるのだから仕方がない。中井という名前から同名の作家の本を持ち出した誤りを指摘するご意見があった。消去してお詫びをする。頭がいびつになってはどうしようもない。




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ご無沙汰しています。
『隅田川夜話』楽しみに拝読しています。
さて、恐縮ながら、横合いから一言、貴兄の間違いを訂正させてください。
『虚無への供物』の作者は、中井英夫です。彼は、1922年(大正11年)生まれで、1993年(平成5年)に亡くなっています。彼はまた、短歌編集者でした。
以上、余計なことながら、訂正させていただきました。
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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