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猫という動物

 「人間は動物ではありません」。小学校の運動場から、むかしこんな声を聞いた。「~?!・・・」。その時の実感は、「そんなことを子どもに言ってしまっていいの?」という思いとともにやってきた。
 子どもの頃、私はずいぶん色々な動物たちを飼うことに熱心であった。近くに目黒のお不動様があり、縁日になると鶏の雛だとか、白い子ネズミだとかを買いこんで家に帰ると、おふくろから必ず文句を言われたものだ。そうした小動物たちはたいてい数日を経ずに死んでしまうのが常であった。庭に鳩小屋を作って鳩を数羽飼っていたこともあった。その他、シジュウガラや文鳥やスズメまでも飼っていた。庭に池をつくり金魚を放ち、釣ってきた鮒を池に泳がせ、それを窓から釣り糸を垂れて釣人のまねまでしていた。亀も飼っていた。父の酒をくすねて少量飲ますとうまそうに飲んでいた。近所のお寺の中で栗鼠を見たときは大変であった。毎日でかけてとうとうすばしこい栗鼠がじっと石の隅に身を隠しているのを見つけたときの、ちいさな心臓のときめきを、いまでも覚えている。あの私の熱情はいったいどこからやってきたものだろう。追い詰められた栗鼠は最後の必死の抵抗をみせた。危うく私は指を噛まれるところであったが咄嗟の機転で免れた。そうまでして捕獲した栗鼠は憐れそのとき私が与えた打撃で数日も生きてはいなかった。さすが私も子どもながら鄭重に庭に葬はした。しかしそれを境に、私の小動物への好奇心は消えたようだ。だが兄が拾ってきた黒猫の面倒をみることになった。その詳細は別のブログに書いたので繰り返さないが、私は子どもながらなにかを猫から教わったらしい。
 さて、「猫という動物」というタイトルに相応しからぬことを書き連ねて、前置きが長くなってしまった。もう私のことはどうでもよい。以前に書いたブログに、亡くなる前の吉本隆明が、可愛がっていた「フランシス子」という猫について話したことが本になり、それを読んだ私の印象が記されている。吉本という秀でた思想家が、自分が可愛がった猫についてどのようなことを言っているのか、それを反芻するために、再度、そのときのブログを再掲することにしたい。偉大な思想家の本から自身の思想を形成した原質がみえてくると思われる。
 テレビで氏の最後らしい講演の録画をみたことがある。糸井重里が果てもなく続く講演を「そろそろ」と言って止めさせようとしたが、氏は苦笑いをしながらもう少しといってなかなか終わらないので、糸井が強引に終わらせた。その後に氏の家を訪れた糸井と吉本が二人居間にいる場面があり、一連のインタビューが終わると、氏が四つん這いで廊下を歩いて姿を消した。するとどこからか現れた白い猫が氏の後を追って行った。たぶんあの白い猫が「フランシス子」に相違ないというのは私のカンである。
 氏は「あの人」よりは長生きをしたいと言っていたが、人間が四つ足の赤ん坊にもどるまで生きている証をみせるとは、ギリシャ人さえ思いつかなかったことであろう。

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 吉本隆明のこの本は、死後、ほぼ一年を経て出たものだ。
一頁目の章のタイトルは「一匹の猫が死ぬこと」とある。彼は東日本大震災の5日後に、亡くなった。
自分の死を自覚して書いた(たぶん口述筆記された)と思われるが、「フランシス子」という名前の猫と自分を同一の生き物として、彼の最後の思いが記されている薄い冊子で読みやすい文章となっている。しかし、彼の思いは「最後の親鸞」とそれほど変わらないというのが読後の感想だ。幾度読んでも、彼の深く遠い射程がこの本には込められている、というのが私の思いだ。
 吉本隆明という思想家は必死に勉強し、独自に徹底的に思索した人間であった。それは「カール・マルクス」という本の端々にうかがうことができる。
 さて、この本の感想を記さねばならないが、このことはなかなか困難な課題だ。
最初のタイトルのあとに、はじまる文章を引用しておきたい。
 「フランシス子が死んだ。
  僕よりははるかに長生きすると思っていた猫が、僕より先に逝ってしまった。

  一匹の猫とひとりの人間が死ぬこと。」
 
 つぎの章は、こんなタイトルになっている。
「自分の『うつし』がそこにいる」
 この四行目につづく行開けのあと、こんな一文がある。
「あの合わせ鏡のような同体感をいったいどう言ったらいいんでしょう。」
 その二行あとに、こんな文章がつづく。
「僕は『言葉』というものを考え尽くそうとしてきたけれど、猫っていうのは、こっちがまだ『言葉』にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる。
(中略)
「うつしそのもの。
 自分のほかに自分がいる」
「自分の『うつし』が死んだ。
 『うつし』が亡くなってしまった。

 これといって特色のない猫だったのに、なぜフランシス子だけが特別だったのか。」

 この単純な問いは、彼の思想の根幹に触れあう、例えば「絶対の関係性」だとか、「心的現象」だとか、すでに流布された「共同幻想」だとかだ。「ホトトギス」の実在を疑うというのは、一見滑稽に思われるが、これは彼がボケたわけではない。そして、彼が愛着した思想家の親鸞まで登場するのは、彼の思想の「うつし」を親鸞の中にみるからにちがいない。村上一郎について、武田泰淳について、彼の思考は自在に展開する。
 これほどあわあわとして、こころに残る言葉の連なり、なんのかまえもない、自然の語りに、老いて死んでいく、最後の吉本隆明の姿が、ごく普通のフランシス子という猫の像に重なり、未来を遺して、一人の思想家が、猫が死ぬようにうまく死んだのだと、私はあわあわと納得したのである。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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