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「ラムボオ若しくはカール・マルクスの方法についての諸註」

 社会というのか、この世の中へ入っていくときに、その人の内心に躓かせるものがない青年というものを考えることはできるものだろうか。自慢ではないが私にはできないのである。なぜなら大いに私は躓いたからである。では恋愛をして失恋をしたことがない青年を考えることはできるだろうか。たぶんできない。恥ずかしい話しではあるが、私が恋愛をすると、その恋愛が真剣なものであればあるほど、殆ど失恋として跳ね返ってきたからである。私にはなにかが欠如しているのではないかと反省してみた。それはおそらく〈他人〉というものであろうと。
 私はなにものとも関係を持ちたくない時期があった。〈関係〉に関係したくなかった。私は当時ポケットに一人の詩人の本を忍ばせていた。その訳詞の一行たりとも私の想像裡にないことばはないという自負と骨が裂けるほどの孤独のただ中にいた。私は思想関係の本のすべて古本屋へ投げ捨てた。土砂降りの雨のなかへ、骨の突き出た破れ蝙蝠傘で出ていくように、私はこの社会なるものへ足を踏み出した。あらゆる他人へ私は私の〈仮面〉をみせてやり、背中越しにこの〈社会〉に対面した。
 やがて詩集を自費で出版した。題は「弧塔」。誤植だらけの拙い詩集になったが、大阪にいた友人がほとんど手を貸してくれたものだ。彼は大股で跳ねるように街を歩き、酒場では口から煙草を欠かしたことがなかった。彼は早熟の読書家であったが、その種の話しを交わしたことがなかった。私は酒に弱く、彼は酒豪であった。一昨年の夏、彼は太く短い人生を終えた。誰とでも別れは拙いものに相違ない。これ以上私の〈人生〉を逆方向へたどることができそうにないが、ひとつだけ思い出したことがある。神田の古本屋で買い戻した本が一冊だけあった。その本の中にあった一篇の論文がまだ私に惜別の情を起こさせたからだ。やがてその論文は「抒情の終焉」(1970年)という本に収まった。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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