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「妄言多謝」ーカフカより愛をこめて

 ある思想なり感受性が時を経て受け入れられるのは、その種の考え方ないし感性が一般に馴染まれ、少しの疑いもなく使用される事実から、知ることができるのであろうか。一作家が書いた新聞の文芸時評に「芸術は自己表現なのではなく世界を輝かせるためにある」という一文を読んで、そんなことを考えた。特にめくじらを立てることでもないのだが、この作家が引用した「世界と私の闘いでは世界を支援せよ」とのフランツ・カフカの文句は、かつてカフカ全集を読んだときの、カフカの絶望の深さを思い戦慄した遠い記憶の断片を私に甦らせてくれた。
 当時では、カフカの文学は現在のようにだれもが手にする作家というより、もうすこしマイナーな作家であったように思われる。砂を噛むような無機質な文章ーその後の翻訳はそうばかりではなくなっているのかも知れないーがつづく小説類は、「城」や「審判」という長編となると、読み続けるにはそうとうな忍耐を要したものであった。幾つかのカフカ論も渉猟したが、なによりも、グスターフ・ヤノーホの「カフカとの対話」は、カフカの青年への配慮から敢えて自分を啓蒙家として接しており、青年のほうではその若い思い入れも手伝って、この本が偽書だという説もあるようだが、この本における「聖人カフカ」の像は私を感動させるには充分なものであった。「そんなに私を買いかぶらないでください」と青年に訴えるカフカの言葉が幻聴のように耳に聞こえるのは、詩を書いている青年へのカフカの深謀遠慮なのであったのだろう。以後カフカに関する書物を渉猟する一時期を経るにつれ、樽の底が抜けてバラバラに解体するほどの精神的な負荷を被る体験となった。厳格な職人であり商人であった父の目もあり、カフカは真面目な生活を志向したが、その心中に燃えるような芸術への傾倒との、その両極での分裂と葛藤はカフカの心身を疲弊させたにちがいない。友人マックス・ブロートがいなければこの世にカフカの文学が残ったかどうかも怪しいものだが、カフカ文学の特質はカフカの片言隻語から感得されるもので、数多くの短篇やノートや日記や断章に、フランツ・カフカの悪夢に似た迷宮の世界が読まれることを待っていたようだ。「変身」は誰もが手にする作品だろうが、「変身」のカフカ自身の朗読は後に強制収容所で亡くなった妹達の微苦笑を誘ったという。だが「断食芸人」となるとそうはいかないだろう。この寓話には悪意にみちたイロニーの檻が芸人を閉じ込め、忘れて捨て去られるていく印象強い悲哀が込められているからである。
 「私はフランツ・カフカのように孤独だ」と自ら語った、諧謔にみちたカフカという作家を理解することはさほどに容易いことではない。あの有名なカフカのフレーズでさえ、一度でもカフカの不安と絶望の深淵を覗いたものには、断食芸人さながら痩せ衰え、見物人たちによって忘れさられ、やがて見向きもされずに無惨に踏みにじられる時代がこないとも限らないことを、カフカの寓意は予見しているように思われる。それが現代の作家には輝かしい希望をもたらす箴言となって現れているならば、カフカの文学の成果でなくてなんであろうか。また、時評家がこだわる芸術なるものについて、1960年代に上映されたフランス映画「男と女」の軽妙な会話に、すでにこんな挿話となっていたことを思い出した。
「ジャコメッティーが言ったことだが、火事になったら私はレンブラントの絵よりも、一匹の犬を助けだすだろう」

 カフカの精神の迷宮で複雑な翳りをもった一フレーズが、まるで世界を大手をふって流通する通貨のように人口に膾炙されることをカフカは想像もできなかったにちがいない。自身が語ったようにカフカには隣り合った二つの部屋があって、幸福の部屋と悲しみの部屋は互いに隣室の大声に覚醒しないではおれない構造にあった。この世界はカフカがプラハ労働者災害保険局に勤務の傍ら、「夜のなぐり書き」と自称した作品により、カフカがその寓意にこめた暗示と予言の20世紀を経て、今や、カフカの不安で暗い文学は、現実の世界へと反転を遂げようとしていると思われてならないが、こうしたことを言えば、それは不幸な妄想でしかないとの異論が起きるだろう。
 いまやこの二十一世紀の現在が、「死刑宣告」の主人公のように、河の上に身体を反転させた橋となり、その上を世界の人々が辛うじて歩き渡る場所となっているのかもしれないのだが、これも「夜のなぐり書き」からやってくる想念だと非難されないともかぎらない。とにもかくあれ、カフカの文学の一フレーズがこの時代の作家たちに希望となり励ましになっているならば、これに越したことはないのである。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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