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ピエール・ボナール

 二十代のはじめ、絵をみないといられない時期があった。絵の中へ逃避していたというわけではない。生きている私の現実が現実感を喪っていたとしか思われない。絵はそうした自分に、目の空虚を支えてくれる「自然」ともいうべきものであった。喫茶店の壁に掛っている絵でもよかった。日本橋の高島屋のそばに「ボナール」という茶店がたぶんいまもあるだろうか。二階へあがる階段の壁に掛っていた絵はボナールの絵の複製ではなかったか。
 就職はしたが私の意識はそこにはなかった。会社を出るとブリジストン美術館へ行くことが私の慰安であった。あの二階の展覧会場を絵をみながら歩くことが、どれだけ私の精神の滋養となりこころを癒やしてくれただろう。そうした頃に私はボナールの絵に惚れたようだ。いやボナールというより、マルトという絵の中の女性に惚れたのかしれない。
 六本木の新国立美術館で、オルセー美術館の特別企画の「ピエール・ボナール展」が開催されていた。一日のばしにしていたが、とうとう最終日になってどうしても行きたくなった。2時間みてまわりさほどに感動したわけでもないのに、私のこころは満足感に満たされていた。かすかに画家の思い人のマルトに画家と同じように惹かれていた時期を思い出した。
 題だけおぼえているが、「マルト」という詩を書いたことがあった。生彩があるとはいえないマルトの裸像になんともいえない魅惑を感じていたのだ。画家はそのマルトをまるで少女を慈しむかのように描いている。盥でからだを洗うマルトを、ベッドに足を折って座るマルトを、画家は輪郭線のない、ぼんやりとした色彩でつつむように描いている。その色彩は淡く、かすかに匂う肌は画家の目のなかでやっと憩うかのようである。神経を病んでいたマルトを同じ病に悩む画家は愛さずにはいられなかったのであろうか。そのふるえる神経はようやくにして温かい陽光のなかで生きていた。その繊弱な生命をこそ画家が愛するものなのであったのだろう。
 1941年、1967年生れのボナールの手紙にマチュスが返した手紙にこうあった。「私たちの年になれば、親愛なる友よ、定められた運命に行き着く親しい人たちの死をできるだけの叡智をもって受け入れなければならないーまだ生き残っている私たちをここまで到達させてくれた幸運を感謝すべきです」。このとき、マチュスはリヨンの病院で腸の重病から奇跡的に回復し、ニースのアトリエにいた。ボナールはマテュスより二年上であったが、1947年1月に亡くなり、マティスは1954年まで生きた。(「マテュス画家のノート」より)
 私はボナールの遺作「花咲くアーモンド」を最後にみたが、視野の収めるとすぐに出口を目指した。
 マルトよ。画家と同様にそういうマルトを私も愛していたことがあったのだ。日本かぶれと揶揄されたピエール・ボナールよ。愛すべきいとしいものはたしかに存在する。寄る年波につれてリストの「愛の夢」のようなピアノの調べに耳を傾けるだけになるのは淋しいことである。


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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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