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「ラザロ」を探して

 錦糸町から半蔵門線で渋谷へ行った。109の地下街からくじら屋の前の道「ぶんかむら通り」をぬけ、昨年カンヌで脚本賞に輝いたアリーチェ・ロルヴァケル監督の「幸福なラザロ」を観た。
 イタリアの寒村にラザロと呼ばれる一人の青年がいた。人間の悪意というも子供のように疑ることなく従順そのもの青年であった。貧苦の暮らしで食べるものにもことかいている村の小作人たちはこの青年に一顧だにもしていない。あるとき小作人たちのトラブルに巻き込まれ暴力をしたたかにうけて瀕死となり、足を踏み外して崖から転落しても傷ひとつなく生きている不思議な青年であった。この村人たちは小作人制度が廃棄されていることも知らされない領主のいうがままに働かされている。青年はこうした村人の無知につけ込む領主の怠惰なバカ息子の従者となり、いわれるままに働かせられながら消えない微笑のままに、雪の山間部に下着一枚で寒さも知らぬ気に働きつづけている。映画はそのままに終わる。事実そのままであるかのように。
 黙って映画館の暗闇を抜け出した。あのヨハネ黙示録のほんの数節しかないエピソードをしらなければ、この変哲もない映画の意味を知ることもないだろう。映画には聖書を暗示する一点のシーンもなく、これが世界の現実であり、ラザロがイエスに愛されたあのラザロとの暗示はまるでない。ラザロは死なない、だから4日後によみがえることもない。神のいないこの世界にラザロはただ普通に生きている。だが青年の顔が曇ることもない。それならなぜ映画の題名に「幸福な」という形容をラザロにつけたのだろう。かといってこの映画にイロニーの翳が漂うこともない。ニーチェのいう背後世界をきれいにぬぐい去った、永遠に変らない山間の村人の田舎の貧しい生活があるだけだ。むかしからこの世界はこのように、人間の悪意にみち、善意で無垢な青年が一人ぐらいいたのだ。あるいはこの悪意にみちた世界でその汚濁を知らされずに生きていくことがこの世界の現実でありその掟であるかのように。するとこの映画の「幸福」は反転して、そら恐ろしいほどに苛酷な映画であることを知らされる。やわらかい衝撃がやってくる。
 聖書から引き出されるエピソードとしては、あのアブラハムが圧倒的に多いだろう。こうして、幸福なラザロを取り上げるのは興味あることだ。
 昔よんだ「罪と罰」にソーニヤがラスコリーニコフに聖書のラザロの一節を朗読するくだりがあったはずだと、唐突に「罪と罰」の場面がうかびあがる。親切なラズーミンと手を切るように別れ、ネバ川の畔を歩いてきたラスコリーニコフは川向こうにひろがる壮麗な風景を一瞥し、自分の内面に目を落とす。偶然に手に掴んでいた銀貨をみつめ、大きく手を振ってそいつを水中に投げ込んで、くるりの後をむいて歩きだしたときだ。
「この瞬間、彼は、いっさいの人間といっさいのものから、自分の存在を鋏で切りはなしでもしたように感じた。家にもどったのはもう夕刻だった。してみると、六時間も歩きまわっていたことになる。」(「罪と罰」江川卓訳)
 ソーニアの朗読の場面は見つからないので、その後の一情景を写しておこくことにしたい。
「ひんまがった燭台の燃えのこりのろうそくはもうさっきから消えそうになっていて、不思議な因縁でこの貧しい部屋におちあい、永遠の書を読んでいる殺人者と娼婦を、ぼんやりと照らしだしていた。五分ほどすぎた。あるいはもっと経ったか善でもなく悪でもない現実の海辺の景色がひろがっている。音もなく沖にむかって波がいっせいにひいていく光景がみえる。大津波のような大惨事がくるかもしれない、あるいはこないかもしれない。
 「善」について研究しようと、西田幾多郎はこう書き出した。「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。」(1911年、同年幸徳秋水等12名刑死)



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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