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英一蝶 雑画帖

 一蝶の遊びこころや破傘  龍
 
 江戸は元禄の頃のこと。狩野派のまね絵描きに嫌気がさして,江戸の浮世へふらふらと風俗をもとめて、遊び暮らしている人がいた。じつに軽薄にして洒落た人柄が幸いし、皆が自然と寄り集まった。賑やかで楽しいことが好きなうえに、色恋に夢中になるたちから大勢の吉原の花魁に人気があった。明暦の大火で浅草に新吉原が普請されると、風俗画を盛んに描きまくった。格子先で文を書くやら清掻の撥を鳴らす遊女たち、その横の技夫などを筆さばきも軽くさらさらと描いた。それを馴染みの商売人を介し上手に売りさばいていたのだ。幇間までやったのは伊達ではない。その広い交友関係には松尾芭蕉、榎本其角までいたという俳人でもあったのである。その一端をご覧にいれておくとしよう。俳号は暁雲と称した。

初松魚カラシガナクテ涙カナ  暁雲
   
其カラシキイテ涙ノ松魚カナ  其角  

 その交友は、紀ノ國谷文左衛門、奈良屋茂兵衛門の大商人にも及んだ。だが遊里を愛したこの人は、将軍綱吉の生母桂昌院の甥たちをも遊里へ誘い、遊女を身請けさせるなどした廉で町奉行の詮議をうけ小伝馬町に入牢され、あげくは三宅島に遠流となった。だが島へ流された者は一生島で終わるが定めだが、この人は島でも絵を描がきつづけて人気があった。草から絵の具を作って描き注文もあったというのだ。島暮らしは15年。島で子供までも作った。新島や八丈や御蔵島の有力者とも親しく交遊したらしい。三宅で描いた「虚空菩薩像」には金も入っていた。そして五十八歳で六代将軍家宣の「正徳の治」で赦免となり江戸へ戻ることができた。それから八面六臂の活躍がまたはじまるのだが、島で描いた「島一蝶」といわれた「四季日待図鑑」「布晒舞図」らは当時はそうとうの高値で売れたという。自画像にうかぶ炯々たる風貌には端倪すべからざる人物が潜んでいたのにちがいない。生れは京都、父は名の知れた医者であったということだ。
 江戸時代は封建の世だが懐かしい時代である。元禄16年の「吉原風俗図鑑」(サントリー美術館所蔵)は一度は見たいものである。73歳にて没。

 まぎらわす 浮世のわざの いろどりも 
 ありやとや月の うす墨の空      (辞世の句)




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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