FC2ブログ

講談「清水次郎長伝」広澤虎三

 春の旅~花はたちばな駿河路ゆけば~富士の山霞~風はそよ風茶の香匂う~唄が聞こえる茶摘み唄~赤い襷に姉さん被り~娘皆衆の艶姿~富士と並んでその名も高い~ 清水次郎長街道一よ~命ひとつを長脇差しに~下げて一筋仁義に生きる~噂に残る伊達男。
安政二年の四月の半ば・・・・と、みょうちきりんの天気のせいで、鼻風邪ひいて講談師広澤虎三「清水次郎長伝」を、耳にイアーフォン差し込んで、聞いていました雨の夏。雨は降るふる連日連夜、出てはくれないお天道さま、広澤虎三の声なめらかに、三味線まじりのかけ声粋に、男意気地の次郎長は、清水湊の任侠はだし、駿河の国の親分さん、わたしゃ生れは掛川の、小高い丘の龍華院、疎開育ちで五歳まで、暮らしていました宿場町~
 てなわけで、いぜんに記したブログの一節を、再掲したくなりました。ついでに、麻田哲也の「次郎長放浪記」という本へ手をかけて驚かされた。バカは死ななきゃ~治らない、というのが嘘なんかじゃないということが・・・・。

 <以前に、「浅草博徒一代」という文庫を読み、大変に面白かった。
 「清水次郎長」が岩波新書で出ると知ると、数日を経ず私は大きな本屋へその本を求めて行った。店員は在庫を確かめ、あることはあるはずだがと嫌な予感を残してレジの方へ行って、捜してくれたがなかなか見つからない。そのうち、平積みになった本の底から、やっと見つけ出した。私はホッとしたが、見つからないはずである。たった一冊しか入荷してなかったのだ。そうだろう。講壇が流行していた時代は遙か昔のことであった。
 ややお堅い文章と思いながらも、読み出したらこれが名文に近いものだと気がついた。荷風ではないが、思想なら誰にもあるものだが、文章はそう簡単にはないものなのだ。巻を置いて能わずに、2日ほどで読んでしまった。幕末の動乱の正史しか知らない人間には、この時代の裏社会で活躍していた博徒たちが、時代の動乱期にいかなる活動と試練、そして混乱をしていたかという、闇の歴史(「裨史」とされる)はほとんど知らされていないのだ。あまり売れそうもない題材ででは、大家を目指す時代小説家は、それでなくても資料の乏しい、この物騒な世界を触れたがらないのも無理もない。
 ひとむかし、東映の任侠映画が流行った時代があった。その当時はなんの興味も惹かれなかったが、後年、ビデオ屋で借りだし見だしたら、それにはなんとも言えない魅力があった。「緋牡丹博徒」だとかそんな映画だが、それがなんで面白いのかは、一度、一ヶ月ほど病院生活をして、昼の「水戸黄門」のテレビドラマにはまったことがあったが、不可解としかいいようがないのである。
 ともかく、清水次郎長は一代の侠客の親分だ。大政、小政、森の石松、などのコワイ徒輩を配下に引き連れ、闇のネットワークを津々浦々に張り巡らし、自分の縄張りを荒らす奴等は、いかなる手段を使っても追い出しにかかる。その出入りの凄惨なこと、例えば、次郎長の仇敵の黒駒勝蔵との血で血を洗う戦闘の粗筋を、この本でその一端を知らされるだけでおおよその検討はつく。こうしたアウトローたちが、あの幕末維新の政争に巻き込まれ、攘夷だ開国だと旗識の鮮明を強いられ、とんでもない運命に翻弄されるすがたには、いつの世にも歴史というものの何とも言いようのない悲喜劇をみることができる。
 本書は天田愚庵の「東海遊侠伝」(明治17年)なる次郎長一代記を下敷きにしているが、この伝記はまた中国の司馬遷の「史記」の「遊侠列伝」を拠り所にしているとのことだ。
 ここに司馬遷が遊侠の寄せた思いを、その「史記」の文章にあたってみよう。
 「今、遊侠は其の行ない正義に軌せずと雖も、然れども其の言は必ず信あり、其の行ないは必ず果し、已に諾すれば 必ず誠あり、其の躯を愛しまず、土の厄困に赴き、既に已に存亡死生し、而も其の能を矜らず、其の徳を伐るを羞ず。蓋し亦た多とするに足る者あり」
この本の著者、高橋敏氏は、この引用文のあと、こんな風に続けている。
ー悪びれることなく武力で決着をつけて殺人、掠奪と悪事を繰り返す遊侠の徒は正義の道から外れているが、こと言動の信義においては他の追随を許さない。ひとたびこれだと決断、信奉した人物に対しては言いだしたことは死守し、やくそくしたことは命を惜しまずやり遂げ、危急存亡と聞けば駆けつけ命を投げ出し献身する。それでいて実力を鼻にかけたり恩義を売りこんだりすることは恥として一切ない。ー
 ところで、この天田愚庵とは、いったい何者であったのだろうか。
 この本によれば、戊辰戦争のただなかで行方不明となった父母と妹を探し求め放浪の旅の果てに出家して禅僧になり、歌人として著名であったが、剣禅一如の人、山岡鉄舟(海舟、泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれた一人)と邂逅、明治十一年、人探しの裏情報に詳しいネットワークをもつ博徒の大親分清水次郎長を紹介され、その居候となり、見込まれて養子にまでなった奇矯の人とのことである。
 ここで登場する山岡鉄舟であるが、幕末から明治にかけて活躍し、後に明治天皇に見込まれた傑物であり、この人が単身駿河に乗り込み、陣を張っていた西郷隆盛に会うという勇猛果敢な快挙がなければ、勝海舟と西郷との江戸城の無血開城に至る談判は成り立ちようがなかったのである。そして、清水次郎長がこの山岡鉄舟に惚れ込み、博徒の大親分としての協力がなければ、鉄舟一人で官軍の中へ単身乗り込むことも、また不可能であったことが知られるのだ。
 いつぞや、家人と訪れた白隠老師がいた三島市の龍沢寺に、遙々と江戸から参禅した山岡鉄舟は、今では谷中の全生庵に眠っている。私が以前から参禅していた台東区松が谷の禅寺の老師は、この龍沢寺の老師さまになって、作務でお茶摘みをしにお顔を拝顔したところであった。
 駿府の裏事情に詳しい次郎長と鉄舟との篤い信義が、どのように生まれたかは、この本をどうか読まれんことを。まことに、歴史の裏面というものには、ことほど左様に人の逸興を誘う面白いものがあるものである。>
 
 ご参考までに追記しておくと、ウイッキーによれば、「寄席演芸としての講談の原型は、江戸時代の大道芸のひとつである辻講釈(つじこうしゃく)に求めることができるらしい。太平記などの軍記物を調子を付けて語ったのが始め。明治時代以降、講釈は講談と呼ばれるようになった。そして、江戸末期から明治時代にかけて、講談は全盛期を迎えた。明治末期には立川文庫など講談の内容を記載した「講談本」が人気を呼んだ(その出版社の中に講談社がある)。また、新聞や雑誌に講談が連載されるようにもなったが、明治末に浪花節、昭和に入っての漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達などに追いつけず、次第に衰微した。第二次大戦後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものが上演を禁止され、その後テレビの普及によりやはり衰退した」

 だが、現代に講談なんかと高をくくってはいけない。この長い任侠の界隈をCDで聞いているうち、なんとも身の毛のよだつ人間の凄まじい息遣いをのぞいてゾッとしてしまったからだ。これに比べたら現代の文学がとても甘チョロいものに思われてならなくなった。だまし討ちで死んだ森の石松の登場によってその凄まじさは真に迫ってくるのだ。生死を賭けて肉薄してくる講談の語りが、義理と人情に隈取られた凄惨の裏社会から少しずつあぶり出されてくるこの世間が、どれほど骨抜きですれっからしの薄情に成り下がったかを悟らせてくれるからだ。嘘だと思うなら、この虎三の三味線まじりの語りをじっと聞いてみるがいい。次郎長、大政、小政等のこの集団が、伊達で長脇差しを持っていたわけでないことが、腹に沁みてくるはず。とても居合だなんかと真剣を握って空を斬っている現代の滑稽な迂闊さに身がつまされてならなくなるからである。



       IMG00355 (2)



関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード