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加藤典洋 (4)

 高橋さんの「さよなら、ギャングたち」に書いた加藤さんの解説は、「それってどういう意味なんだい?」という言わば加藤節ともいうタイトルで、副題に「――この小説の言葉、それからこの小説がそれでも小説であること」という変則の人をくったものです。これは「さよなら、ギャングたち」にある意匠ではなく、意表をつく文章にそっくり対応していますが、この解説文の最後の二行は、そのまま、加藤さん自身の姿へと反転してしまうのではないかという、思いにとらわれるものです。
「そして、さようなら、ギャングたち、であろうとするとは何か、といえば、それは、――ねえ君、世界との切断それ自体を生きる、そういう心づもりの、定言化なのだと思う。人を重力つき・富士山型、よれよれ、のスケーターにするのは、いつもこんな生の一人二役の要求である。」
「いつもこんな生の一人二役の要求」という加藤さんのことばに、ふと足を止めるにはそれなりのわけがあるからです。
 それは加藤さんのデビュー作「アメリカの影」の中の「崩壊と受苦―あるフロンティアの消滅」で磯田光一の「戦後史の空間」への違和感を表明したところに、顔をだすものです。この「顔をだす」は加藤さん印の表現のひとつです。
 ここで加藤さんは、こんな磯田の批評文をやり玉にあげます。
  戦後改革のもたらした諸制度の結果、旧時代の様式のくずれたあとに投げ出された個人は、帰属感を失った個体として何もの かに依頼心をもちつづけているようにみえる。
 そして、つぎのようにつづけます。長い引用になりますが、勘どころなので我慢して下さい。
「ぼくはここに、ぼく達のおかれている状態を形容する時に現われる、この数年のさまざまな動向に特徴的な一つの問題が、顔を出していると思う。
  それは、一言でいうと、ぼく達は、いまぼく達のおかれている或るよるべない状態について、これは何であるというように、名を  与え、これを解釈するが、何か、その言及そのものによって、ぼく達にそのよるべなさの実態が、見えなくなってしまうというーー  奇妙なーー問題である。(中略)ここで指摘したいのは、その問いの成り立つ場所を奪っている事実である。
  ぼくはここに現在のぼく達に特徴的な問題を見る。(中略)何だ、みんなフィクションじゃないか、というような、投げやりともいう  べき感想が生れるとすれば、それは、ぼく達がそのことを直感的に感じているからだとしかいいようがないのである。
  ぼく達がいま経験しているのは、どのような事態か。
 ぼくがここで考えてみたいのは、そのことに尽きるが、なぜぼく達自身の『経験』にたいする問いさえが、隠されてしまうか。このこ とが示しているのは、おそらく、この『崩壊』の、ぼく達の予想を遙かに越えたただならぬ深さ、ということなのである。」
 長く引用した「崩壊と受苦」(1983年)は「アメリカの影―高度経済成長下の文学」(1982年)と「戦後再見――天皇・原爆・無条件降伏」(1984年)の間に収められた加藤さんの現状認識の透徹した分析に支えられ重要な評論文であることは疑いようがないでことでしょう。
 この「原本あとがき」は1985年一月だが、本の刊行は1995年5月です。加藤さんの代表作「敗戦後論」が「群像」1月号に載ったのは、95年でありました。






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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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